思春期の子育て

きのう、スクールコーチングしているつむちゃんのしゃべり場に参加させていただきました。

普段は学校の子ども達の話をただただ聞いてくれているつむちゃんですが、今回は、思春期の子を持つお母さんたちのお話しを、ただただ聞いてくれました。

反抗期の男の子を持つお母さんの悩み、子どもがちょっと大きくなって、もう過ぎた反抗期の子を持つ親御さんのお話し、まだ子供が小さいけれど、いつかやってくる思春期のお話しを聞きたかった親御さんの話、高校や中学校の先生から見た子ども達の話。

そのなかで、感じた事をお話ししていきます。

「ぼくを見て!」「わたしを見て!」

いろんな視点からのお話しを聞いている中で、一つ感じたのは、子ども達の中に、小さい頃と変わらず、「ぼくを見て!」「わたしを見て!」という子供たちの見て欲しい、認めて欲しい、そんな声にならない子ども達の声を聞いたような気がしました。

小さいうちは、ストレートに、「お母さん!!見て見て!!」って話してくれますが、

思春期になると、「見て!」っていう代わりに、見てくれていない親に対して反抗してくるのかなと感じました。

 

今回は、YouTubeで思ったことを話しているので、よかったら、こちらもご覧ください。

 

つむちゃんのしゃべり場の最後に、中学校の先生が、こんなことを言っていました。

 

「みんな、子ども達を上から見てるんだよね。思春期の子供は、親より優位に立ちたいんだよね。自分の方がこのことについては詳しいんだ、って。」

「あなたはやればできるんだからって、一見あなたを信じてるというメッセージのようであるけど、ほんとは、今できなくてもいいじゃん、それでもお母さんはあなたのことが変わらず大好きだよって、いうような関わり方があってもいいんじゃないのかな~」って話していました。

もう一つ、海外で子育てしている方からは、海外では、ハグの文化があるから、結構事あるごとに大好きよってハグをするっていうお話もあって、思春期になっていきなりハグはできないだろうけど、まだ子供が小さなうちなら、いっぱいハグして、愛情は多すぎるぐらい与えていいと思うよって。

 

幼少期の愛着形成がその後の人生に影響してくる?

オンラインで、いろんな方と家族関係について話をしていた時に、結構、幼少期の親のちょっとした言動だったり、態度だったりそういうことが無意識にすりこまれてて、今の生きづらさにつながっているというお話をされる方が何人もいました。

無意識に刷り込まれてるから、自分でも気づいてなかったけど、今の問題は何で起きてるかって、深堀していくと、子どもの頃の親からの何気ない一言からだったということが浮き彫りになっていくんですよね。

多くの方が、なにかしら、やっぱり親の影響は受けている、という事を目の当たりにしました。

幼少期の愛着形成の時期に、なにかしら拒否されたとか、怒られたとか、そういうことが、なにか一歩踏み出せないでいる自分のブレーキになっていることもある。

 

また、最近、FBで、不安をいっぱい抱えている子供の話を書きました。

コロナの不安、日焼けの不安、不審者の不安、常に不安が彼の周りを取り巻いていました。

親御さんは、コロナが流行し始めたとき、いち早く子どもが遊びに出ることを禁止しました。

この子は、一人で過ごす休校期間中、YouTubeやネットで、たくさんの不安になる情報を得ていきました。

ネットの影響もあるけど、親御さんの不安が子どもに与えた影響も大きいだろうなと思いました。

委ねる、緩める

その時、コメント下さった金田隆佳さんという整体師さんから、こんなコメントをいただきました。

「不安や恐怖の根っこは『愛着関係のヌケ・遅れ』、そこにくっついてる『トラウマやフラッシュバック』だと言われています。

背骨を中心に背面を弛めることで、変化していきます。
※いろいろな方法がありますが、手っ取り早いですよ
手で直接触れるのも、ハンモックでゆらゆらゆれるのもいいです。
子守歌とか唄ってあげたら赤ちゃんまで退行して、安心・安全を思い出すかも。
『委ねる』感覚です
背面が弛むと『委ねる感覚』が戻ってきますよ
委ねるって、不安だと出来ないですから」
だから、背中をゆるめたり、おんぶするのもいいですよと教えていただきました。
そう思うと、ハグも、身をゆだねる行為ですよね。
そうやって、背中を緩めて身をゆだねられたら、安心しますよね。
思春期で、バトルを繰り返していると、常に緊張状態だろうし、そういう意味では、「委ねる感覚」を感じられたら、それがきっと安心感にもつながる。
親自身も、自分の幼少期の親との愛着形成がうまくできてなかったかも、という場合でも、もう一度「委ねる感覚」を取り戻せたら、そこで前に進めるのかもしれないな~と感じたのです。
今回、思春期の子供をテーマにブログを書きましたが、
結局は、小さな子供であれ、思春期であれ、大人になった今であっても、
「自分を認めてほしい」と思っているし、「愛して欲しい」と思っている。
それが感じられなくなった時、不安や、怒りという感情が現れてくるのかなと思いました。
だから、イライラしたり、不安になった時、
ハグしたり、背中を緩めるって、結構有効なんじゃないかと思うので、
ぜひ、試してみてくださいね。

 

自然のままに生きる

五月から、ほぼ毎朝、「世界が変わる学校」に出ています。

今日のテーマは「何をするために生まれてきたか」。

それぞれ、いろんな考え方があって、

「今、この瞬間に出会うため」とか

「幸せになるため」とか

「いろんな感情を味わうため」とか

「今、こうして雨の音を聞くために生まれた」

などなど、いろんな言葉が飛び交うのです。

正解はなくて、それぞれの中に答えはあるのだと思うのだけれど、

今の、私なりの考えは、「自然のままに生きるため」かなと。

この先、答えは変わるかもしれないけれど、今感じている私の答えです。

自然のままってどんな状態?

「自然のままに生きるため」と思ったのは、「雨の音を聞くために生まれた」という方の発言から。

ただただ雨の音に耳を傾けてると、自分が雨になったように感じる、そんな表現をして下さった方もいて、その言葉を聞いた時、季節外れであるけれど、雪の中を歩いていた自分を思い出したのです。

ふわふわと舞う雪降る夜に、天を仰ぎながら歩くと、雪が降ってきているのか、自分が天に昇っているのかわからなくなるような感覚を思い出したのです。

それは、不思議な感覚で、私が雪になったような、雪が私になったような、そんな感覚とも似ています。

その感覚を思い出したときに、私が自然の中に身を置いた時に感じる、さまざまな感覚を思い出していました。

風が頬をなでつけ、吹き抜けていく感覚。

木の葉が風に揺れて、ざわざわと枝を揺らす音。

森の中、あちこちで鳴きかわす鳥の声。

一筋のきれいな湧水が、いろんな流れと合流しながら大きな川の流れを作っていく様子。

森の中に息づく命。

川の中に息づく命。

自分も自然のいのちの一部であるという圧倒的な感覚。

 

自然は、そのまま命を育むもので、いのちそのものです。動物も植物も、子孫を残し、成長し続けます。

自然のままは、あるがまま。

余計な手をかけず、ただ生きる。そんな状態なのでしょうか。

 

囲われた子ども達

自然なままの状態では、動物も植物も人が手を加えることなく生きています。

 

一方、鉢植えの植物や、動物園の動物を考えたとき、囲った瞬間、お世話が必要になります。

エサをやり、水をやり、栄養を与えなければなりません。

でも、植物に水をあげすぎると、根腐れをおこします。動物にエサをやりすぎると、肥満になりすぎてしまいます。栄養が少ないと、うまく成長できません。

外から与えるものは、「ちょうどいい加減」が難しいのかもしれません。

 

でも、自然の状態の植物や動物たちは、自分で必要な水分をとり、必要なぶんだけの栄養をとります。それで、ちゃんと成長していくのです。

 

ここで、人間に置き換えて考えてみましょう。囲われた子供たちを想像してみてください。

 

まずは学校。

そこには、「こうあるべき」「みんな同じでなければならない」

「これをしてはいけない、あれをしてはいけない」という囲いがあります。

 

次に社会。

「人に迷惑をかけてはいけない」「迷惑をかけないように」という囲い。

 

家庭の中ですら、怪我をしないように、失敗しないように、安心安全の囲いがあります。

 

今の子ども達は、何重にもなった、たくさんの囲いの中にいます。囲いの中にいる子どもたちは、お世話されなければうまく育たなくなってきているのかもしれません。

でも、手をかけすぎたら根腐れをおこし、手をかけなさ過ぎたら愛情不足で心が枯れてしまいます。

ちょうどいい加減がわからずに、多くの親御さんは悩んでいるのかもしれません。

 

実は、大人も、囲いがないと不安になります。

プールで泳ぐのが好きでも、海で泳ぐと怖いと感じたり。

 

ただ、「思うようにやったらいいよ」「好きな事、やりたいことをやったらいいよ」と言われても、いざとなると何をしたらいいかわからなくなったり、そうするのはいいのはわかるけど、みんなと違うことをやるのは不安。人にどう思われるか不安。やったことないことやるのは怖いし、だったら、今のままがいい。みんなと同じでいいや。

 

私達も、長年、囲いの中にいたからです。

囲いの中は安心だった。安全だった。

こうすればこうなる、という事もある程度わかっている。予測がつく世界。

でも、その分冒険がない。チャレンジがない。ドキドキやワクワクがない。

海の真ん中に漕ぎ出してみたら、すばらしく新しい世界が広がってるかもしれないけど、未知の世界は怖いんですよね。

でも、囲いからでてみたら、意外と自由で心地いいかもしれません。

 

学校の中の「ねばならない」にしばられ、塾や習い事で自由な時間が無くなり、自分の好きなことが何かすら見つけられない子供たちは、死んだような眼をしています。

本来のキラキラした目の輝きが失われている子ども達にも時々出会います。

 

いのちの躍動を!

自然の中は、いのちの躍動にあふれています。

子ども達も、本来は、いのちの躍動感にあふれています。

いのちの躍動が何かと言えば、生きているということそのもの。

 

今朝、アゲハの幼虫が羽化しました。

それはそれは美しい蝶の姿になって、外の世界へ羽ばたいていきました。

自然の織り成す姿は美しい。

 

それこそ、いのちの躍動がそこにありました。

生まれてきたいのちそのものが躍動。

 

誰が教えたわけでもなく、誰が手を貸したわけでもなく、もくもくとエサを食べ、自分でさなぎになる瞬間を決めて、さなぎを作り、いのちが熟成したその瞬間、蝶になって生まれてくる。

いのちって、神秘的です。

桑の木だって、毎年ちゃんと実をならせ、子ども達を楽しませてくれる。

私は、この、いのちの躍動を感じたい。

だから、池の中の一滴の水の中の微生物にすら感動します。

顕微鏡の中の世界には、たくさんのいのちにあふれています。

私の願いは、

いのちあるものが、

いのちの躍動をもって生きて欲しい。

ただそれだけなのかもしれません。

 

自然なままに。

自然のままに。