子供時代に、どれだけやりたいことをやりたいようにやるか

子供時代、大人に、あれはだめ、これはダメ、○○しなければ××しちゃだめ、そんなことしてないではやくこれやりなさい、あなたはこれをやってればいいのよ・・・等々。

禁止、否定、行動の制限、条件付きの愛。

子どもにとって良かれと思い、ほぼ無意識に発してきた言葉で傷つき、大人になってなお、それらの言葉が根強く潜在意識に残り、心を痛めている方をたくさん知っています。

そういう方が苦しむことの一つに、自分の好きなことが何かわからない、自分の本当にやりたいことが分からない、ということもあるようです。

「好きなことをやりなさい。あなたはあなたのままでいい。」そう言われれば言われるほど、自分が好きなことが見つからなくて、よけいに苦しくなってしまう人もいます。

そう思うと、子供時代の大人の関りって、実はものすごく子どもに影響しているな~と感じています。

大人の言葉だけでなく、友達、兄弟、もしくは社会からも影響されています。

好きなことをやっていたら怒られた。

好きなことやってたら、そんなこと何になるんだとわかってもらえなかった。

好きなことやってたら、何それ、変なの、ってからかわれた。

いろんな他人の反応によって、傷ついたり、恥ずかしい思いをしたり、悲しくなったりすることで、もう二度とそんな思いはしたくないと、どんどん「自分の好き」を押し殺していってしまうのです。

自分軸で生きるか、他人軸で生きるか

大人になった今、自分の好きなことを、自分の気持ちに正直に生きている人、自分軸で生きてる人って、なんだか輝いて見えます。

一方で、やりたいことをやり、後悔のない人生を歩んでいるように見える人をうらやましく思い、自分は好きなことも見つからず、悶々として、なんだか自分は何のために生きてるのかわからなくなってしまうという人も、少なからずいます。

だけど、本来、だれしも好きなことをやり、生き生きとした人生を送れるはずなんです。

ただ、子どものころから、繰り返し繰り返し好きなことをやてたら怒られた、からかわれた、否定されたというネガティブな記憶から、人は、知らず知らずに好きなことをやっていてはいけないというメッセージを受け取っていくのだと思います。そして同時に、言われたとおりにやったらほめられた、というような記憶が重なり、だんだん、お母さんはこうすればほめてくれるだろう、とか、相手はこうしたら喜んでくれるはずだと、人がどう思うかを気にしながら、他人軸で行動するのが癖になってきます。

それが10年、20年と続くうちに、はたと途中で気がつくんです。

あれ?そもそも自分は何がやりたかったんだろう?って。

今、好きなことをやって生きている人の中には二パターンあるように思います。

一つは、子供時代から、思いっきり好きなことをやってきた人。それを許されてきた人。

虫好きで、むしとりに夢中になった子供時代を過ごしていたとか、モノ作りがすごく好きで、子供時代はあれこれ分解して中の仕組みを知りたがったり、自分で何か作ることに熱中していたとか、絵をかくのが好きで、時間を忘れて絵を描き続けていたとか、とにかく野山を駆け巡り、日が暮れるまで遊びつくしていたとか、寛大な親の元、何かに熱中してきた子供時代を過ごした人たち。

もう一つは、そんなことは無駄だからやめなさいと言われても、まったく親の言うことを聞かず、とにかく親に、大人に、怒られ続けながらも、自分は自分のやりたいようにやると、反骨精神が強く、困難を乗り越えようとする強い気性を持っている人。

ただ、もしかしたら、そんな人は今は一握りかもしれません。多くの子は、「そんなことやめなさい」と言われれば、素直に親の言うことを聞いてしまい、大人が喜ぶようにふるまってしまうでしょう。

親としては、言うことを聞いてくれる子の方が育てやすいのですが、実は、そうやって育ってきて、大人になって悩む方も少なからずいるのです。

好きなことをやる時間がない子ども達

子供時代に思う存分好きなことをやらせてあげてほしいと思うのだけれど、今の子供たちはとても忙しいのです。

学校が終われば、塾や習い事、部活がある。土日は部活で試合だったり、塾の試験や検定があったり。

子どもたちは、やらなければならないことで時間を埋め尽くされて、帰ったら宿題やってご飯たべて、お風呂入って、ちょっと息抜きにゲームでもして、そしたらもう、寝る時間です。

好きなことをやる時間って、子ども達にありますか?

ボーっとする時間、一日の中にどれぐらいありますか?

本来子どもというものは動き回るものです。

好奇心御旺盛で、気になったら、頭より体が先に動いてしまうような、そんな存在です。

やってみたいと思ったら、まずやってみる。

それで失敗したとしても、そこから何かを学んでいくものです。

ごみ袋で空が飛べるかもしれないと思って試してみたくなることもある。(ほんとに高いところから飛ぼうとするなら、全力で止めますが)

無意味に見えるんだけど、ただただ木をトンカチで破壊していく子もいたり。

とにかく深く穴を掘って、地球の裏側まで掘ってみようとしてみたり。

深く掘るのをあきらめて、横穴掘って秘密基地に代わることもある。

自分の限界に挑戦して、ちょっと怖いな、って思う高さから飛び降りて見たかったり

雨に打たれてみたり

そんな、大人からしたら、無駄だ、できっこない、なにやってるの?っていうようなことも、実は子どもにとっては自分な好きなことに気づいていく大事な体験だったりするわけです。

で、そういうことを許してくれる大人がいると、受け入れられてるという安心感の元、またさらに挑戦できるのです。

でも、気になるのは、最近、教育虐待という言葉も出てきているくらい、多くの子どもの時間が、やらなきゃいけないことで奪われているように思えてなりません。

『ルポ教育虐待』

という本の中に、教育虐待に陥らないためのこんな自問リストがあります。

(1)子どもは自分とは別の人間だと思えていますか?
(2)子どもの人生は子どもが選択するものだと認められていますか?
(3)子どもの人生を自分の人生と重ね合わせていないですか?
(4)子どものこと以外の自分の人生をもっていますか?

そして、「子どもの人権」の「三つの柱」があると伝えています。
(1)『生まれてきて良かったね』と言ってもらえる。
(2)『ひとりぼっちじゃないからね』と言ってもらえる。
(3)『あなたの人生はあなたしか歩めない』と認めてもらえる

子どもは自分の所有物ではなく、一人の人格を持った人として考えることが一つ。

そして、その存在を、ただただ認めてもらえることが一つ。

その上で、

あなたはどんなことに興味があるの?

どんなことが好きなの?

そう、そういうのが面白いと思うのね。

そうだね。すごくおもしろいね。

もっとやってみる?

そんな関わりができたなら、大人になったときに「自分のやりたいことが見つからない」なんていう悩みにはぶつからないのではないかと思っています。

自分がやりたいことが分からない

大人になって、はたと気づいてしまった人は、ひとつづつ、まずは子供のころの自分に戻って、そういえば、絵をかくのが好きだったな。とか、本読むの好きだったな~、そういえば最近本読んでないな~。ちょっと本屋に行ってみようかな。とか、思い出しながら、今の自分がちょっとやってみたいな、って思うことを実際にやってみるといいと思うんです。

人は、発達の過程として、まず感じることが先に必要です。

感じることを先にやらないと、地に足がついていない根無し草のように、ふらふらと、自分が分からないという状態に陥りやすいのではないでしょうか。

 

6歳ごろまでに脳の9割が成長すると言われていますが、それらは五感で感じ、感じたものを快か、不快か記憶の中にインプットしていくことで、この世界に適応した脳に発達していきます。

どれだけたくさん感覚をインプットしたかによって、その世界に対する視野が広がります。

子供時代にインプットした感覚があって、のちに知識として学習したときに、初めて自分の感覚と世界がつながりをもつのです。

例えば、虫は嫌い!という子の場合、小さな頃に、虫にかまれたとか、嫌な思い出がある場合もあるし、虫を触っていたらお母さんが悲鳴を上げて怖がる姿を見て、虫は怖いものだとインプットされた場合もあるでしょう。そういう場合、虫を触りたいと思わなくなるでしょう。

だけど、あるとき、「へ~!この虫、すごくおもしろいね!」なんて人に出会ったとき、え?そうなの?って、はじめて虫をよく観察してみたり、あ、意外ときれいかも、とか、ちょっとツンツンってさわってみたり、あれ?怖くない虫もいるかもしれないって気が付いて、後で調べてみたら、なんだ、ちょうちょの幼虫だったのか!それなら怖くないかも、ってなることもある。

平気な子なんかは、カマキリだって臆さずつかまえちゃうし、大人がいくら探しても見つけられないものを次々見つけちゃったりする。あの辺にいそうだ!という、何やら野生の感がはたらいてる子もいます。

でも、そうやって虫が好きになっていくと、虫がいそうな場所っていうのがわかってくる。

そしたら、草むらがないとこの虫は生きられないんだとか、森がないとこの昆虫は生きられないんだとか、きれいな水じゃないとこの虫は生きていけないんだっていうことを体感としてしっていく。

そういうことが、自然とつながる力になっていく。

自然とのつながりが感じられないっていうのは、こういうこともあるのだと思っています。

 

ちょっと話がそれましたが、大人になってからでも、

自分が心地いいと感じることに目を向け、心地いいを心行くまで感じてみる。

逆に、いやだな、って思うことは、ああ、自分はこういうことが嫌なんだな、って自分の感情に気づいてあげる。

そして、何でもいいからやってみて、これは心地よいのか、不快なのか、自分の感情を見つめてみる。

 

子どものうちは、やってみて、感じる中で無意識にそういうことやっているんだけど、なにせ、大人になってしまうと、脳の急速な成長はほとんど終わっているわけですから、子どもの頃より、はるかに時間がかかり、自分の好きなことに気づくまでには時間がかかってしまうのは仕方のないことです。

ですが幸い、大人になっても、「可塑性(かそせい)」と言って、脳は変化し続けることができるので、脳の発達の適期を逃したとしても、大丈夫のようなんですね。

ひとつひとつ、時間をかけてでも、感じる部分を取り戻していったなら、自分の好きなこと、自分がほんとはやりたかったことに、きっと気付けると思うんです。

自分探しで他に答えを求めるのではなく、自分の感覚に耳を傾ける。

そのためには、行動しなくちゃいけません。

感じるためには、やってみないとわかりませんよね。

 

大人になってからだとそういう感覚を取り戻していく作業は大変なんだけど、子どものうちなら、難なくできる。

そういう期間が、子供時代にはあるのだと知っていてほしい。

やりすぎ教育(武田信子 著)

という本もありますが、子どもにやらせる教育もほどほどに。

子供時代は、たっぷり遊べて、自由にできる時間を確保してあげてほしいと思っています。

夏休みの子供たち

そして、私が関わる子ども達は、毎日毎日、よく遊び続け、可能な限り遊べる時間を遊びきった夏休みでした。

セミ取りに夢中になり、偶然見つけたセミの羽化を見つめたり

セミを捕まえようと木に登ったり

時には海で砂まみれになり

波の音を怖がりながら、砂遊びするちびっこや

でも、ちょっぴり怖がりながらも海の水に足を浸してみたり

暑いけど遠くに行けない日は、近所の川で生き物探ししてみたり

身近な川に住む生き物を観察したり

夏休みのプレーパークでは自分の作りたいものを作る子、

巣箱作ってみる子がいたり、ただ、色をきれいに塗りたい子がいたり

トンボとりで大量のトンボを捕まえてくる子

庭で水鉄砲戦争したり

雨続きの後半は、家の中でいろんな遊び考えて遊んでたり

暑くてしょうがない日はセルフかき氷したり

揚げたてのジャガイモをおいしいおいしい言いながら食べたり

みんなで食べたパンケーキのおいしかったこと。

川遊びで天然のウォーター滑り台を楽しんだり

大きなトンボつかまえるのに夢中になったり

湖でしじみとりしたり

自転車でプチ旅行してみたり

家から3時間、自転車で湖畔のキャンプ場まで走り抜け

湖畔に映る月を眺めながら過ごした夜も。

たくさんたくさん遊んだ子供たち。

こんな子供時代に感じたことが、きっと、これからの子の子達の土台になっていくと信じています。