子どもをコントロールしすぎていませんか?

子どもを産んだ瞬間、私たちは、子どもをコントロールできないという事を思い知らされます。

なかなか寝てくれない赤ちゃん。

下におろすとぐずる赤ちゃん。

ゆっくりトイレに入りたいのに後追いしてトイレの外で泣く赤ちゃん。

気が付くと、触ってほしくないものを触り、隙あらば口に入れようとする赤ちゃん。

早く保育園に連れて行きたいのに、着替えたくないと駄々をこねる子ども。

部屋をきれいにしたいのに、常に散らかし続ける子ども。

好き嫌いなく食べてほしいのに、食わず嫌いで新しいものは頑として食べようとしない子供。

もう、子育てしていると、親のコントロールなんて到底無理だと思うような出来事ばかり。

でも、家族として一緒に生活していくうえで、これはやってほしい、これはしてほしくない、ということは必ずあります。

だから、しつけとして、根気よく子どもと向き合わなければなりません。

そういう意味で、小さい頃は、どうしてもコントロールが必要になってきます。

でも、コントロールという名のしつけ糸は、いつか外さなくてはなりません。

ところが、大きくなってまで、しつけ糸を外そうとせず、さらに強い糸でコントロールし続けてしまうと、子どもはのびのび腕を伸ばすことができません。

体が大きくなったのに、いつまでもしつけ糸のついたきつい服を身に着けて、窮屈そうにしている子が時々います。

窮屈そうな子供たち

小学生の子ども達と会話していると、日々がとても窮屈そうだな~と、感じる子が時々います。

テレビ見ちゃいけない。

ゲームも禁止された。

遊びに行っていい範囲が、親によってきめられている(学校のルールよりさらに狭い)。

遊んじゃダメな友達がいる。

親に決められている帰らなければならない時間がみんなよりだいぶ早い。

塾や習い事で一週間のスケジュールがびっちり。

一日の中でも、そろばんのあとはスイミング、帰りに塾に行って、帰ってきたらぐったり。

宿題終わってからじゃないと遊んじゃダメ。

汚すと怒られる。

などなど。

 

家に帰っても、宿題しなさいとか、ごろごろしてないでとか、あれこれ言われるので、家でくつろげないという子も。

塾や習い事で一週間びっちりな子は、たまの休みも、「休みだから遊べる~!」じゃなくて、友達と遊ぶよりも、家でのんびり休みたいという子も。

ただ、ごろごろ、だらだらする時間が欲しいと。

それができない日常っていうのは、毎日休みなしで残業しているサラリーマンのようだなと。

小学生なのに、生気がない。

いつも疲れた顔をしている。

う~ん・・・窮屈そうだな~・・・。

 

自由にしてあげたら、子ども達、本当に生き生きしています。

あんなことやりたい、こんなことやりたいと、目を輝かせて話してくれます。

 

子どもを守りたい気持ちはわかります。

苦労してほしくない気持ちもわかります。

でも、行き過ぎると、こどもの生き生きした目の輝きを奪ってしまいます。

信じて任せてもらえない。

それは、親の言うとおりにしなければ認めてもらえないという事でもあるからです。

そう、窮屈そうな子供たちには、強い承認欲求があります。

コントロールは必要か?

子どもには、大人になってから苦労させたくない。

お金の心配のない仕事についてほしい。

そのためには、今頑張って塾に行って、いい学校に入って、いい就職先に就職してもらいたい。

だから、今遊んでごろごろしてる時間がもったいない。

こうやってごろごろしている間に、一生懸命頑張ってる子たちはどんどん差をつけていく。

 

親の中にも焦りがあります。

 

私も、中学校時代、次男のゲームを取り上げ、隠したことがありました。けれど、それは無駄で、親がいないすきに家探しして、なんとしてもゲームを見つけてゲームをやるのです。

ゲームしてる時間がもったいない!時間を無駄にしてるだけだと、どうしても認められませんでした。

私の場合は、その時間を勉強に充ててほしいというよりは、もっといろんな面白い世界を見つけてほしいと思っていました。

本当にやりたいことを見つけてほしいと思っていました。

だけど、ゲーム三昧で日々はただ過ぎていきました。

 

でも、やりたいことをみつけるにはタイミングがありました。

 

こんなのもあるよ、あんなのもあるよと、いろいろ見せてきたけど、どれもいまいちヒットせず、なんとな~く高校は建築科に行っていましたが、本当にそれが自分のやりたい事かどうかわからないままで、やりたいことが見つからないまま、とうとう高校三年。

最後、進路を決めるときになって、初めて次男が自分で決めた進路は「デザイン」でした。

親としては、思いがけない選択でした。

なぜ「デザインなのか?」と聞いた時、

高校の先生が、「自分の一番好きなことで進路を決めてみたらどうか?」と言ってくれたからでした。

もちろん、親も今までそういうことは言ってきたつもりでした。

でも、一番次男の心を動かしたのは、先生の一言でした。

 

今までの経験上、そういう好きなものに気づくタイミングを作るのは、親じゃないことの方が多いと感じています。

長男は、最初から好きなこと、没頭できることがあって、自分から好きなことを見つけていくタイプでした。

長女は、親に反抗しつつ、親の助言はほとんど耳に入れず、教育講演で学校に来た人の話を聞いて、医療の道を目指すことを決めました。

 

はたして、子どもにコントロールは必要なのでしょうか?

 

全然必要ないな~。というのが、今の私の正直な気持ちです。

押さえつけてコントロールすればするほど、はねのけてくる。

 

もう、これは、信じて見守るしかないです。

あなたならできる。

できることはできる限り応援する。

親にできることは、それしかないと感じています。

 

そうはいっても・・・コントロールしたくなるんですよね!

いかにそれをぐっとこらえるか。

信じられるかが親力です。

信じる力

連休初日。

子どもたちがハンバーグ作りたいと言い出しました。

そこで、お金だけ渡して、自分たちで必要な材料を調べて、お店で買ってくるところからスタート。

買うはずだったデミグラスソースがなかったから、煮込みハンバーグのソースを、合いびき肉がなかったから豚肉を買い、若干材料の変更はあったけど、それでも大丈夫、きっとおいしいよと、ハンバーグを作り始めた子供たち。

それぞれ、話し合いながら、玉ねぎ切るのも変わりばんこ。

卵割る人、混ぜる人、材料を入れる人、それぞれけんかすることなく分担していきます。

その間大人は見守るだけ。

唯一の6年の子は、調理実習の経験もあるから、「みんな初めに手洗えよ」とか、「卵割った手、べたべただから、一回洗って来いよ」とか、細かいところを指図しています。

そして、最後、手でこねるところは、それぞれ、自分の分は自分でこねるということになりました。

「うへ~!」とか言いながら、こねこねしています。

焼き色ついてひっくり返すのも、「おれ、ひっくり返すの怖いから、お前やって」とか、できないことは人にお任せしたり。

焼いてる間、遊びに行ってしまう子がいる中で、一人、焦げないかちゃんと見守っている子。

上手に焼き上がり、ソースでちょっぴり煮込んだらできあがり!

みんな、うまいうまいとペロリです。

4年生から6年生の男子たち。

大満足だったようです。

それぞれ、料理の経験のある子から、あんまりやったことない子まで、手分けして、ほんとうに楽しそうにやっていました。

料理の良くできる子が中心でやりながらも、ちゃんとみんながそれぞれの工程をやれるように考えて、これはあいつにやってもらおうとか、まだあいつやってないから、あいつにやらせてあげようとか、そういう話し合いの場面も興味深く見守らせてもらいました。

大人が口出ししなくても、ちゃんとできるんですよね。

協力してちゃんとできる力を持ってるんですよね。

 

大人が信じて任せたら、意外とちゃんとできるのが子供たち。

 

ちょっとづつ、コントロールを手放して、信じて任せることを増やしていってほしいなと思います。

 

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種は、全ての情報を持っている

庭には、長男が3歳ぐらいに拾ってきたドングリの木があります。

たった一粒のどんぐりが、今では屋根ほどにも大きく育ち、毎年、次なるいのちの源である実をたくさんつけます。

たった一粒のどんぐりが、20年かけて、これほどまでに見事に大きくなる様子を眺めてきて、感動を覚えています。

あの小さなどんぐりの中には、こんな大きな木になるための情報が全て詰まっているのだと。

完璧にプログラミングされている実。

それが、どんぐりであり、種であり、人で言うなら受精卵です。

あんな小さな種が、全ての情報を持っていると思うと、生命の不思議を感じます。

自然な姿、宇宙の理

種には、すべての情報がプログラミングされています。

どんぐりは、コロコロコトンと落ちたその場所で芽を出します。

地中深くに根を伸ばし、お日様を求め、まっすぐ空に向かって伸びていきます。

でも、たまたま種が落ちた場所に障害物があったり、日当たりが悪かったりして、曲がってしまうことはあります。

でも、木は、お日様に向かって伸びようとします。

障害物を避けながら曲がって伸びたり、日当たりが悪くて、他の木に比べて小さくてひょろひょろだったとしても、なんとか上に伸びよう伸びようとします。

それが自然の姿です。

 

種を、私達自身におきかえ、種が落ちた場所を、生まれた環境と考えてみてください。

お日様は愛、宇宙の真理と考えてみてください。

どんな環境に生まれたとしても、人は、まっすぐ愛を求めて伸びていきます。宇宙の真理に向かって、伸びていこうとします。

それが自然な姿です。

でも、その自然な姿になろうとするのを、生育が悪いからと栄養剤をたっぷりいれたり、曲がった木をなんとか、まっすぐにしようと押さえ込んで縛り付けてみたり、時に、曲がったものはダメだと切り落としてしまったりします。

一番大事なのは、日当たりを良くしてあげることなのに、形ばかりまっすぐにしようと頑張っってしまったりします。

曲がりながらも、たくましく伸びて行く姿は、自然界の中では、美しくさえもあるのに。

そして、森の中で、植物同士の関係を見るとき、そんなたった一粒の小さな小さな実から、大きく育った木々が、お互い枝が重なり合わないように枝を伸ばし、調和し、共存している様子を見ることが出来ます。これをクラウン・シャイネスというようです。

自然界の中では、一本の木だけ、お日様を独り占めしようなんてしない。

みんながそれぞれお日様を受けられるように、ちょうどいいように枝を伸ばしていくのです。

そして、そんな森の中では、様々な生き物たちが、やはり共存しながら生きています。

そしてその根元には、冬が来て、落ちた葉っぱでふかふかの土ができる。

土の中にも無数の微生物がいる。

地中には木々が蓄えた豊かな水がある。

それもまた、完璧なまでの自然のシステム。

 

では、人はどうでしょう?

 

自分ばかりおひさまを独り占めしようとしていないだろうか?

自分ばかりおひさまを独り占めしようとするあまり、山を丸裸にし、水が蓄えられないやせた大地は、ひとたび大雨が降れば、土砂崩れしてしまう。

自分ばかり勝とうとするあまり、その陰で、弱い国を貧困に追いやってはいないだろうか?

自分ばかり独り占めしようとするあまり、地球を傷つけてはいないだろうか?

 

それは、自然のシステムに逆らっていないだろうか?

 

そして、まっすぐ伸びようとしている枝を、無理やり望む形に押し込めようとしてはいないだろうか?

 

自然なままに、まっすぐ伸びられるように、お日様(愛)をたっぷりそそぐこと。

共存共栄していくこと。

それが自然の姿。宇宙の理なのではないでしょうか?

ことばから考えてみる

先ほど、お日様を、愛や宇宙の真理に置き換えてみましょう、と書きました。

日本語で「ひ」という時、

日、陽、火とあらわしますが、もう一つ、「ひ(霊)」という意味もあります。

「ひ(霊)」は、いのちの根源的な力であるといわれます。

「ひ(霊)」は、エネルギーの源です。

 

いのちの根源的力とは何だろうかと考えるとき、それはやはり「愛」であると思うのです。

 

「ヒ」とは霊(ひ)のことであり、「ト」は停めることや止めることを意味します。
つまり「ヒト」とは、身(体)に霊(ひ)を留めた存在だから、「ヒト」という日本語ができています。

料理に火を通すことを、「火を入れる」と表現します。

「火を入れる」とは「ひ(霊)を入れる」ことです。

おむすびは、もともと神道の概念で「結び」「産霊(むすひ)」からきているとも言います。

古事記の「たかみむすび」、「かみむすび」、「あめのみなかぬしのかみ」の三神を結ぶと。

霊(ひ)を結ぶから「おむすび」。

 

「ひ(霊、愛)」を宿した体が人であること。

 

アインシュタインが言っていました。

「愛は光である」

「愛は力だ」

「神は愛で、愛は神だ」

「愛こそが生命の神髄だ」

と。

 

自分の中心に、根源的な「ひ(霊、愛)」をちゃんと持てているでしょうか?

 

昔は、「ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、とお」と数えました。

「ひ」からはじまり「と」で終わる。

一から始まり十で結ぶ。結んだら新たな一が産まれるわけです。

はじまりは「ひ(霊、愛)」なんだと、昔の人は知っていたのではないでしょうか。

 

日本語ってすごいなと思います。

本質をことばの中にちゃんと表しているんです。

 

たった一つのどんぐりから、こんなことを考えていた数日でした。