すべてのいのちにリスペクトを

先日、グレートジャーニーの関野吉晴さんの新作映画「うんこと死体の復権」が、青森県立美術館で無料上映ということで、行ってきました。

ざっくり言うと、うんこと死体に集まる小さな虫たちを通して、いのちの循環を追っていく、そんな映画でした。

始終新鮮なうんこの映像が、4Kスクリーンに映し出されるという、衝撃的?な映画ですが、うっかり最後の言葉で、涙が。

うんこの映画で、泣くとは思いませんでした(笑)

と、いうのも、直前に、県美の展示で、おじいちゃんと孫の写真を見ていたら、じいちゃんのことを思い出して泣けてしまい、そのことと、映画のラストの言葉が重なって、うるっときてしまったわけで。

いのちの循環。

すべてのいのちがつながっていること。

孫の世代に何を残せるか。

じいちゃんばあちゃんに大事にされながら、つながってきたいのち。

あたたかい記憶。

すべてのいのちにリスペクトする想い。

確実に、何かが心のなかでうごめいています。

でも、きっと、うんこの映画で涙が出たのは、私ぐらいじゃないかと思います。

すべてのいのちが大切にされた縄文時代

この映画をみて、私の中から湧き上がってきた言葉は、

『すべてのいのちにリスペクトを』です。

この春、縄文の話を聞きたいという方とともに、櫛引八幡の春季大祭にを見学させていただきながら、奉納される舞やお囃子を聴き、是川遺跡にも行ってきました。

長い長い間、五穀豊穣を願い、豊かな食べ物をいただけることに感謝し、これからも子々孫々が食べ物に困らぬように願い、神様に喜んでいただけるように、舞い、歌い、楽器を奏でてきたのだろうなと思ったのでした。

もしかしたら、縄文の人々も、いのちがつながることを願い、同じように、食べ物に困ることがないようにと、歌い、踊ってきたのではないかと。

縄文の人々は円環思想を持ち、大切な人の死から、いのちの再生を願い、太陽や月を眺め、祈ってきたのではないかと思っています。

いのちをつなぐことこそが、一番の関心事で、

季節に応じて、春は山菜や魚や貝を中心に食べ、夏は海で漁をし、魚や貝を中心に食べる。秋になると、再び山で採れる木の実や、川を遡上してくるサケを食べ、冬になると狩りをして動物をとる。

季節に応じて変化する食料資源を、長期保存できるように加工しながら、次の巡る季節を待ち望む。一日に狩猟採集時間は2~3時間程度と言われ、それ以外の時間を、石器や土器、布を作る、保存食をつくるなど、クリエイティブな時間に充てていたのではないかと言われています。

年がら年中、必死に狩猟採集し、取りつくしたわけではなく、自分達が食べられる分、集落でみんなで分け合って食べられる分だけ採り、次の季節までみんなで食べられるように保存、貯蔵する。

豊かな食べ物を育んでくれる、豊かな森と豊かな海や川があり、成り立ついのち。

森で生きるいのち。

海や川で生きるいのち。

それらを育む水。

すべてのいのちにリスペクトしている世界。

いのちを生み出す女性が大切にされ、みんなで新しいいのちを慈しみ、育てた時代です。

縄文からいのちを考える

縄文時代のお墓を見たときに、いろんな埋葬の仕方があるのですが、

遺体を一度土葬して、再びその墓を掘って骨を取り出し、それを甕形かめがた土器に入れて再埋葬するもので、考古学ではそのように埋葬された墓を、『再葬土器棺墓さいそうどきかんぼ』という埋葬の仕方があります。

『再葬土器棺墓』は、土器を母親の胎内に見立て、人骨を胎児の姿勢に組み立てて再埋葬していることから、縄文人が、死者の再生を希求した行為という説や、石を抱かせて埋葬しているものもあることから、死者の魂がよみがえり、悪さをするのを恐れてのことではないかという説もあるようです。

ですが、肉体を一旦土に還し、骨だけを土器に入れて再埋葬するというのは、やはり、いのちの循環を願ってのことではないかと、私は思うのです。あくまでも、私見です。

特に、子どもの遺体は、それ用の土器に収め、住居の入口の下に埋葬されたものが見つかっています。甕は子宮、女性が入口をまたぐことで、子どもの魂が再び女性に宿ることを願っての埋葬の形ではないかと思っています。

冒頭に紹介した、『うんこと死体の復権』という映画で描かれているのは、一見、汚いもの、忌み嫌われるものに集まる小さな命が、それらを土に還していく様子や、それらによって育まれる、小さな命から、野生動物、そして、それらを栄養に芽生えていく木々まで、すべてがつながりをもっていることです。

『縄文』と『うんこと死体』。

一見、関係なさそうな話なのですが、『循環するいのち』というところでつながるのです。

縄文時代から、ずっとずーと、つながってきたいのちがあって、私がある。

おじいちゃんに大事にされてきた私の中のあたたかい記憶が、

ふと、どの時代でも、こうやってあたたかく育まれてきたいのちが、

つながってきて今にあるのだなと感じます。

いのちを支えてくれた豊かな自然、豊かな水がある。

そして、すべてのいのちに対するリスペクト。

死と再生を願い、月や太陽を眺めた縄文人

子どもたちのいのちはリスペクトされているか

羽化に失敗して死んでしまったトンボ

そう思ったとき、今の時代は、ずいぶん自然から切り離されてしまったなと感じます。

排泄物は、目に触れぬように水で流され、死を目撃することもずいぶん少なくなりました。

身近なところでは、おじいちゃんおばあちゃんの死。

子どもたちにとっては、虫やペットの死。

 

小さな虫の死は、いのちが土に還るのを目撃するチャンスなのですが、

虫は気持ち悪い者。不快なものとして、殺虫剤で殺されたり、たたいて殺されたりしますよね。死を悼む存在ではなくなってしまいました。

死を悼み、感じることは、生を感じること。

そこが抜け落ちてしまったがために、自然と切り離されてしまったのではなかと思っています。

 

自然は人間の都合のいいようにコントロールされたもののみ許容され、コントロールできない自然は、コントロール可能なように作り替えられてきたのが現代のように思います。

本来、自然はコントロール不能なものです。

豊かな食べ物と水といのちを育むものである代わりに、ときには荒ぶり、すべてを飲み込み破壊してしまう一面もある。

だからこそ、人は感謝し、祈りつづけてきたはずです。

今日も無事に生きられたことに感謝してきた。

今日を生きるいのちが、喜びであふれる姿に歓喜してきた。

子どもたちは、自然そのものです。

人間は本来自然の一部であり、子どもたちは、今を歓喜して生きています。

 

私たちは、子どもたちの目の輝きを奪っていないだろうか。

今、喜びを感じ、笑い転げ、走り回り、いのちを躍動させている、

そんな子どもの時間を、大人の都合で奪っていないだろうか。

将来を心配するあまり、今の子どものいのちの輝きを押さえつけていないだろうか。

言うことを聞かない子どもにイライラしてしまうことは、あるでしょう。

私も、まったくないとは言いません。

でも、「自然は、美しく素晴らしいもの出る半面、コントロール不能なものである」ということも、私は知っています。

彼らの本来のエネルギーは、はかり知れません。

子どもをコントロールとするのは、大自然に抗うことと同じです。

押さえつけたら、溢れます。

溢れないようにと、固めすぎれば、自然は死んでしまいます。

どうか、子どもたちは、自然の一部、自然からの贈り物だと、

そのいのちをリスペクトして欲しい。

子どものいのちが輝き続けられるように。

 

 

息ができない

昨日、『みんなの学校』の木村泰子さんのお話を聞いてきました。

冒頭で、「学校という牢獄」というこどもの声を紹介してくれました。

子どもから聞こえる声に、私たち大人はどう向き合ったらいいのでしょうか。

学校という牢獄に通うということ

木村泰子さんが紹介してくれた子どもの文です。

学校という牢獄に通うということ
何も悪いことをしていないのに刑務所行きだと言われること
「みんなと同じようにして学校にいなさい」
ほとんどの人にとって学校が刑務所でないからこそ気軽に言えること
当事者からするとありのままの自分を真っ向から否定される場所
「人に迷惑をかけるな」「周りと同じようにしなさい」
ありのままの自分でいることの罪を償えと言われているような、暗くて重いプレッシャーを背負いながら、学校に通い続けることがどれだけ難しいか
そのストレスはなにも学校に行かなくなったからといって消えるものでもなく
一人一人の意識から変わっていかないと、しんどい子はいなくならないと思う

 2022.11.20 「のあ」 

『そのストレスはなにも学校に行かなくなったからといって消えるものでもなく』という一文が胸に刺さります。

息ができない

今、『こどもを野に放て! AI時代に活きる知性の育て方 』という本を読んでいます。

登山アプリ「YAMAP」CEOの春山慶彦が、解剖学者の養老孟司、生命誌研究者の中村桂子、小説家・詩人の池澤夏樹の各氏と対談している本です。

その中の、中村桂子さんとの対話で、『「へんてこ」「無駄」「弱さ」があるから生きていける』という章があります。

「合理的に効率よくやろうとしていたら、生きものはとうの昔に消えていたと思います。それから、一つの価値基準で競争させて、いいものだけを残そうとしていたら、やはり消えていたでしょう。矛盾を組み込んで、『何でもあり』でやってきたからこそ、生きものは続いてきた」──中村桂子

多様であるからこそ、合理的で、効率的でなかったからこそ、変化に対応し、いのちをつないでこれた。

果たして、大人は、学校は、社会は、「へんてこ」「無駄」「弱さ」を認めてくれてるでしょうか?

みんなと違うと排除される学校。

無駄なことをしていると怒られる学校や家庭。

みんなに迷惑をかけず、みんなと同じであることを求められる学校や社会。

同調圧力で言いたいことが言えなくなる学校。

弱い者は、頑張れと言われる。

息苦しそうな子供たち。

 

私は、顕微鏡で微生物の世界をのぞくのが大好きです。

スポイトで吸った水を、一滴、スライドガラスの上に垂らします。

 

その一滴の水の中に、ふよふよと一生懸命生きている命があります。

でも、水が多いと、動き回って、視野から外れていくので、観察しづらいんです。

だから、あまり動き回れないように、余分な水分を吸い取って、動きを封じます。

ミジンコだったらミジンコが、ぎりぎり生きていける水をちょっとだけ残して、泳ぎまわれないようにするんです。

そうやってコントロールすれば、観察しやすく、かつ、かわいいその姿を堪能することができます。

でも、ミジンコにとっては、生き殺しです。動けないけど生かされてる。

うっかり、油断してると、そのちょっぴりの水が干上がって、ミジンコも死んでしまいます。

ミジンコには申し訳ない。

もちろん、観察を終えたら、干からびないうちに、ちゃんと水に戻してあげるけれど。

 

なんだか、息苦しいと言っている子どもたちのようだなと思います。

 

自由にさせると何をするか分からない。

どこに行くか分からない。

だから、自分の手中で子どもたちが何をしてるかわかるように、外れていかないように、人に迷惑をかけないように、大人が安心するためだけに、コントロールされ、行動を制限され、自由を禁じられ、ちょっぴり許された、かろうじて息ができる程度の自由だけを与えられ、飼い殺しの状態で、息も絶え絶えな子ども達。

ならば、少しでも息がしやすいところを求めて、家にとどまる選択をする。

家の中にも息が吸える空間がなければ、部屋の中に閉じこもってしまうのではないのかなと。

それは、生きるため。

 

息が吸える。

息が吐けなければ息は吸えない。

息を吐くためには、しゃべって、笑う。

喋れない、笑えないところでは息は吸えない。

 

目の前の子どもたちは、思いっきり息が吸えているだろうか。

問い直しの主語は自分

息が吸えない子どもたちが、息が吸えるようにするためにどうしたらいいのだろう?

息が吸いやすい空気って、どんな空気?

安心できる場所ってどんな場所だろう?

弱音を吐ける?

失敗が許される?

全ての子どもたちが安心して学べる学校ってどんな学校?

そういうことを、誰かがやってくれないかとただ待つのではなく、

自分事として、自分だったら、そのために何ができる?と、自分に問い続ける。

問い直しの主語は自分です。

自分が、子どもの周りに、安心して息ができる空気をどうしたら作っていけるだろうかと問い、こうすればいいんじゃないかと思うやり方を試していくこと。

これが絶対という答えはきっとありません。

試した結果、その子が笑えるようになったなら、それは、その子にとって、きっと有効な方法でしょう。

でも、この子に有効であったとしても、あの子に有効かどうかは分かりません。

BE THE PLAYER!

誰かのせいにせず、自分を主語に、自分事として考えてみませんか?

春の森で、成長していく子ども達

東北の春は短く、桜が咲いたと思ったら、あっという間に散り、あっというまに新緑の季節です。

この春も、子どもたちと春の森冒険キャンプで春を満喫してきました。

植物も成長し、温かくなるにつれてぐんぐん伸びる草丈に、何年も来ていると、木の下枝がだんだん高くなっていて、木の成長も感じていますが、

回を重ねるごとに、子どもたちの成長も感じています。

春の冒険キャンプ

ここの所、東北の春も暖かい年が続き、桜の開花が早い傾向にあります。

これまで、GW後半に開催していた春の冒険キャンプでしたが、今年はGW前半に開催することにしました。

おかげで、山菜が今年はちょうどよくて、タラの芽もたくさん、こごみや、タケノコ、リュウキンカ、ヤマブドウの新芽、ヨブスマソウなど、春の山菜を味わうことができました。

森の探検で山菜採りです。

とれたての山菜を、天ぷらにして、熱いうちにつまみ食い。

塩振り係も子ども達。

天ぷらを自分で揚げてみたい子も、チャレンジ。

晩ご飯のおかずになる前に、つまみ食いで飛ぶように売れていく山菜の天ぷら。

今回、子どもたちが、つくしの袴取りを一生懸命やってくれたので、つくしを初めて天ぷらにしてみました。

「なんか、ジャンキーな味がする」という感想。

言われて食べてみると、あ~!なんとなくわかる気がする!

原っぱには、たくさんのヨモギ。

ヨモギの枯草にはカマキリの卵。

ヨモギを摘んで、ヨモギ団子。

今回のキャンプで、料理をやりたいと話していた子には、晩ご飯のカレーの具を切ってもらいました。今回、うっかりまな板忘れちゃったので、ダッチオーブンのふたがまな板代わりです。

調理用の火おこしは、子どもたちにお任せ。

焚火でぐつぐつ煮込んだカレーはおいしかったです!

ついでにダッチ―分で鶏肉と玉ねぎ、トマト、ジャガイモの煮込み料理も。

日中は汗ばむほどに暑かったけれど、日が落ちるとす~っと寒くなり、冬のダウンが大活躍する夜。

夜は焚火と暗闇探検。

「まだ行かないの?」「暗闇探検行こうよ!」と、子どもたちの催促。

でも、暗闇を歩いてみると心細くなって、ちょっぴり怖くなって、

「どこまで行くの?」と、帰りたくなってくる子ども達。

ちょっぴり心細くなる暗闇から、帰ってきて、焚火の明かりにホッとする子ども達。

その後も寝っ転がって、北斗七星みつけて、動く人工衛星をみつけたり。

焚火と星空眺めていると、夜も更けていきます。

夜のトランプ大会の後は、早々と眠りにつく子どもたち。

そんな中、眠れない子と、焚火の前で語る夜。

遅くにやっと上がってきた明るい月を眺めつつ、そろそろ寝ようかと眠りにつきます。

そして、寒くて目覚めた朝。にぎやかなウグイスの声に起こされて、起きてみると、子どもたちがもう火を起こしていました。

どうやら夕べは寒すぎて、明るくなる前から目が覚めていたようです。

森に芽吹いたクロモジの葉っぱを煮出したクロモジ茶であたたまるとホッとします。

お日様が上がってくると、だんだん気温も上がっていき、ダウンを脱ぎすて、遊び始めます。

お日様って、ありがたいね!

朝食の後は再び探検!

まず最初のスポットでは、がけを上って粘土採取。

つかまるところも少なく、ずるずる滑るので、なかなか上がれないのですが、このキャンプの経験者は、さすがに体の使い方がうまく、ひょいひょい上っていけるのです。上りたくて、苦戦している子に、先に上った子が、ここまで来て、この木の枝につかまればいいよと教えてくれます。

粘土採取も終わり、森の中を歩いていると、だんだん暑くなってきて、たまらず、みんな裸足で川に入ります。

冷た~い!足がびりびりするぐらい冷たい!

冷たすぎて、ちょっと陸に上がると、さらさらの泥の感触がなんとも気持ちがよくて、泥の感触を楽しむ子も。「きもちいい~!」

笹船作って流して遊んだり

羽化したばっかりのトンボを見つけたり。

子どもたちが遊んでいる間、大人は、山菜取りに夢中です。

写真のこごみは、だいぶ伸びていますが、少し探すと、ちょうどいいのもたくさんあります。こごみや、タケノコ探しがまた楽しいのです。

山菜スポットを抜けると、休耕田。山あいの開けた田んぼを吹き抜ける風が気持ちいい。

二時間たっぷり探検して、それぞれ、粘土や山菜たっぷり手にもって、最後の笹薮を登りきったところの木陰で一休み。

暑かった~!!!そして、この達成感の顔!

キャンプ場に戻ってきたら、もうお昼。休む間もなく、水分補給したらお昼ご飯の準備です。

目玉焼き名人に調理はお願いしました。

自分の分は自分で焼いてみたい子。

みんなの分も焼いてあげたい子。

相談しながら、「じゃあ、二人は自分の分だけ焼くのね。」「私とあなたは、あと3個づつ焼こう。」代わりばんこに目玉焼きを焼いていきます。

お昼ご飯の後は、のんびり遊んですごします。

そのうち、思い出したように粘土をこねはじめる子達。

「固まりつぶすのに、バット使ったらいいんじゃない?」

こねてこねて、形を作っていきます。

焚火の木を少し寄せて、熱い灰の中に粘土を置いて素焼きしていきます。

男子はやっぱりう〇こつくるんですね。

遊んでいる間に焼きあがった土偶たち。

ハートやお星さま、サイコロ、土偶・・・

縄文人も、こんな感じでこねて遊んでいたのかしら?

木登りしたり、笹薮こいだり

オタマジャクシすくってみたり

森に響く笑い声

草笛教えてもらってふけるようになったり

「あぁ、日常に戻りたくない・・・」そんな子どものつぶやきが聞こえます。

どんどん手がかからなくなっていく子供たち

春の冒険キャンプも、もう何年やっているのかな。

毎年のように来てくれる子もいれば、初めての子もいる中で、回を重ねてきた子たちが、だんだん逞しくなっているように感じています。

食事も、料理がやりたいからと、自分たちで材料を切ったり、調理したり。

火おこししたいと、火おこしに挑戦し、焚火の火の番をしてくれたり。

木登りも、できない子には、できる子が、どこに足をかければいいかとか、降りるときどうすればいいかとか、そばにいて教えてあげてたり。

大人の役割としては、そろそろ晩ご飯の支度にとりかかろうかとか、そろそろお昼の準備しようかとか、時間管理や、危険がないかを見守るぐらいで、ずいぶんと楽になっている気がします。
今回は20代の若者にお手伝いに来てもらっていたので、子どもたちと遊んでくれるお兄さんがいてくれたことも大きいのですが。

子どもたちに任せたら、みんなとっても逞しくなってくれた気がします。

信じて任せる。

そうやって任せられた子は、やり遂げる。

大人は、つい、子どもたちが失敗しないように手を貸したり、危ないからいいよと、子どもがやろうとしているのをとりあげて、せっかくの機会を奪ってしまいがち。

だけど、信じて任せたらちゃんとできるのが子ども達。

失敗しても、きれいにできなくても、ちょっとぐらいいびつでも、自分が挑戦した結果なら、それはそれでいいじゃない。

自分が作ったものが、一番おいしい。

子どもたちが作ってくれたご飯が一番おいしい。

焚火の番してくれたの誰?

火加減最高!

ご飯炊いてくれた人、すっごくおいしいよ!

カレーの具を切ってくれた人誰?

具の大きさちょうどいい!みんな最高だね!

そうやって子どもたちをほめてくれるお母さん。

子どもたちもうれしそうです。

そして、成長した子どもたちを見られるのがまた、楽しみなキャンプです。

自分の窓を増やす

最近、ふと、NHKの高校講座の英語コミュニケーションを見ました。

その中で、「なぜ英語を勉強しなければならないんですか?」と聞かれたら、なんて答えるんですか?という問いに、

「日常過ごしている部屋は日本語の窓があります。そこからは美しい山の景色が見えるんです。でももし、後ろの壁に英語の窓があったとしたらどうでしょう?英語の窓からは、美しい海の景色が見えるのかもしれませんよね。」

「新しい世界が広がって見える窓をつくるのが、英語を勉強する意味なんですね」

という会話がありました。

ああ、すごくいい表現だな~と思ったのです。

英語はものすごく苦手だけど、英語に限らず、いろんな窓を持ちたいな~と思いました。

小さな窓から見える景色

よく、「妊娠すると、妊婦さんが急に目に入るようになる」と言います。

それまで、同じように生活していても見えなかった(全然気が付かなかった)妊婦さんが、妊娠したことがわかったとたん、ここにも妊婦さん、あの人も妊婦さん、あれ?こんなに妊婦さんいたんだ~!と気が付くんですよね。

前は、それをアンテナが立つと表現していました。

アンテナが立った途端、受信できるようになるんですよね。

アンテナは窓でもあります。

人間は、きっと、一度にたくさんの情報を処理しきれないから、窓を狭めて物事を見るようになっているのではないかと思います。

五感から入る様々な情報を、自分の日常でよく使う感覚、必要になる情報に限って受信できるように、あらかじめ窓を小さくして、方向を絞り、必要な情報を素早くキャッチできるようになっているのかなと。

膨大な情報の中から、自分に必要な情報を取捨選択するのって、時間がかかるでしょうから。

でも、一方で、狭めた小さな窓から見える景色が、自分の知っている世界で、それが世界のすべてだと思ってしまうようなところがあるのではないでしょうか。

たくさんの窓

春になると、ヨモギがたくさん生えてきます。

ヨモギがどんな葉っぱなのかを認識していなければ、散歩していても、まったく気づかないのですが、一度誰かとヨモギを摘んでヨモギ餅を作ったりする経験をすると、とたんに、

あ!あそこにもヨモギあったんだ!

なんだ、ここにもあるじゃないかと、ヨモギがやたらと目につくようになるんです。

自分の見えてる世界と、他の人に見えてる世界は違うのかもしれません。

そう思うと、他の人にはどんな世界が見えているのか、知りたくなってきます。

同じ景色を見ていながらも、自分がまだ知らない美味しいもの、楽しい事、素敵な世界を見ている人が、絶対周りに入るんです。

そんなたくさんの窓から、世界を見てみたいと思いませんか?

最初は、障子に指先で開けた小さな穴から覗いてみてもいいんです。

あれ?どうやら、こっちの窓からは、違う景色が見えてそうだぞ。って、気づくことが大事なんです。

そのうち、プスプスとたくさん開けた障子の穴から、自分が見たい景色の穴をもうちょっと広げてみるんです。そしたら、その穴の向こう側にいた人と仲良くなれるかもしれません。

例えば、障がいを抱えている人たちや、マイノリティの人たちは、分厚い壁で囲まれて、私達から見えないので、社会の中で、まるでいないかのように扱われてしまっていたのではないかと思うのです。

私たちがバスやタクシーに乗る時、何も不便を感じていないとしても、障がいのある方は、何日か前に予約しないとバスに乗れないとか、不便さを強いられているとか。

左利きの人にとって、世の中のすべての道具が右利き用になっているから、はさみが使いづらいとか、お玉が右利き用ばかりなので汁物をよそいづらいとか。

そういう不便が多々あるということを、その世界に通じる窓があるだけで、気遣うことができると思うのです。

ベビーカーを押して街を歩いてみて、ちょっとした段差に苦労したり、公共の乗り物に乗る時に苦労したりして、初めて、障がいのある方に対する窓の穴が開きます。

たくさんの窓を持つことで、世界は、自分が今まで知ってた世界より、意外ともっとずっと広いのだと思うことができるのではないでしょうか。そして、今まで知らなかった世界の人と話してみると、きっと自分の世界の見方が、がらりと変わるかもしれないのです。

自分の窓

私の窓にはなにがみえてるかな?

たまに自分の見えてる世界をちょっと遠くから眺めてみるといいかもしれません。

小中高と、子どもだった頃の私は、家と学校の世界しか知りませんでした。

大学に入って、探検部に入ったことで、自然に対する窓が大きく開かれました。

大学で学んだことで、農学部だったので、農業という窓も、ちょっぴり開きました。

結婚して子どもが生まれたことで、子どもの世界への窓が開き、

いつしか、「自然」と「子ども」の窓がつながりました。

最近は、教育の世界に関わるようになり、「学校」「教育」という窓がひらきました。

最近は、子どもの教育について考える日々です。

主人が町内会に関わりだしたことで、「地域」の窓が開かれつつあります。

地域と関わりながら、「子ども」と「地域」をつなぎたいと活動してます。

姪っ子が障がいを抱えていることもあり、「障がい」に対する窓も、まだまだ小さい小さい窓ですが、開いています。でも、まだまだ知らないことばかりです。

そしてきっと、まだまだ知らない世界の窓があるんです。

知らないのだということを自覚した上で、次はどの窓を開いてみようかと思いながら世界を見ています。

多様な視点で、たくさんの窓から世界を見ることができたなら、世界はもうちょっとやさしくなるんじゃないかと思います。

 

余白が大事


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子ども達を見ていて思います。

みんな、忙しそうだな~、と。

プレーパークやってたオンシーズン。

一週間に一度の校庭のプレーパークめがけて、

走ってランドセル家に置いてきて、

走って校庭にやってくる子もたくさんいました。

中には、プレーパークに集まる子を横目に、

「いいな~。オレ、今日塾・・・」

と言いながら、とぼとぼ帰っていく子もいました。

ああ、子どもたちに選ぶ自由があったらな。

『ほぼ日の学校』というアプリで、『不便益』の川上浩司さんのお話を聞きました。

ちょっと面白い発想だったので、息子に話したら、

中学の国語の教科書で『不便益』をやったよというのでびっくり!

今の教科書に、そういうことが載ってるんだ~!なかなかやるな~と思ったのでした。

不便益とは、不便の益 (benefit of inconvenience) 。
便利とは,手間がかからず,頭を使わなくても良いことだとします。そうすると、不便で良かった事や、不便じゃなくちゃダメなことが、色々と見えてきます。

ということで、不便なことの方が実は人間にとっていいことって、結構あるのではないか?と思ったわけです。

一見無駄に見えることや、無駄に思える時間にこそ、私たちの心を豊かにしたり、生き生きと生きるヒントが隠されて言うのではないかと思ったのです。

そのためには、一見、無駄な時間を過ごすための、余白が必要なんだと思うのです。

子どもの権利条約

余白の話の前に、子どもの権利について、ちょっとだけ。

子どもの権利条約の一部を見てみましょう。

3条

国やおとなから、その子どもにとって最も良いことを優先ゆうせんして考えてもらう権利けんりがあります。

12条

自分に関わるすべてのことについて意見をかれ、その意思いしを大切にされる権利けんりがあります。

31条

子どもには、休む権利けんり、自由な時間を持つ権利、遊ぶ権利があり、文化的・芸術的げいじゅつてきな活動に十分に参加する権利があります。

42条

おとなだけでなく子どもも、「子どもの権利条約けんりじょうやく」を知る権利があります。

こちらのサイトが比較的わかりやすいので、ぜひ、目を通してみてくださいね。

子どもの権利条約 | こどものケンリ | おやこのミカタ (savechildren.or.jp)

子どもたちは、遊ぶ自由を保障されてますか?

子どもたちは、ゆっくり休むことができてるでしょうか?

大人が与えたプログラムを、必死にこなす毎日になっていないでしょうか?

高校生や、大学生になって、進路の選択を迫られたときに、

自分の好きなこと、やりたいことが分からない、という子が多くいます。

そもそも、それまでに、好きなことに好きなだけ打ち込める時間はあったでしょうか?

3条の「その子どもにとって最も良いこと」は、果たして子どもの意見を聞いているでしょうか?

子どものためにと、次々と積み上げられた「その子のために良いこと」で、

その子の時間は、いっぱいいっぱいになっていないでしょうか?

子どもの時間に、余白はあるでしょうか?

自由に過ごす時間はあるでしょうか?

余白が必要です

車を運転する方は知っていると思いますが、車のブレーキには、「あそび」があります。

ブレーキを踏んだ時にガクンと急に効きすぎることがないように、ゆとりがあることで、より安全性が高まると言われています。

でも、あそびが多すぎると、ブレーキが利かなくて困るのですが。

人や、仕事も、同じことが言えるのではないかと思っています。

仕事をスケジュールいっぱいに詰め込んで、余裕がない生活、

分刻みの忙しさで休みがない日が続くと、

そのうち、体が悲鳴を上げて急停止してしまうということを

経験したことのある方もいるのではないでしょうか。

時間的、精神的にゆとりがないと、イライラしたり、

自分のやらなければならないことで頭がいっぱいで、人の話を聞けなくなったり、

その結果、そのイライラを周りにいる人、特に弱い存在に向けてしまうということが

往々にしてあると思うのです。

人も、車も、あそびが必要です。

ある程度のすき間があるから、違う考えを受け入れる余裕があるだろうし、

違う人の意見を取り入れて、よりよい方に、新しい道を見つけることもできると思うのです。

余白を楽しむ

そんな私も、いろんな方から、忙しそうよね~と、よく言われるのですが、

実は、ちゃんとスケジュールを入れない日や、何もない時間を作っています。

余白の時間に、本を読んだり、ドラマを見たり、

コツコツ作りたいものを作ったりしています。

今年もいろいろ作りましたよ。

夏に飼っていた蚕の繭から糸を紡いで

庭に自生していた茜の根っこを掘り上げ、紡いだ糸を茜染め。

うちにあるのは簡易な卓上織機ですが、機織りして

一枚の布に仕上がりました。

秋口には、種をまいて育てた藍の生葉でも染めてみました。

今年ハマったのは刺し子。急にやりたくなって、南部菱刺しに挑戦。

おにぎりを入れる籠の角に穴があいてしまったので、こちらはこぎん刺しで補強。

ちょっと不格好ですが、初めてなので、自分では満足。

今年の夏は暑すぎて、台所で足元を冷やしたくて、簡単な冷風機も作ってみました。

これは、モバイルバッテリーをミニソーラーパネルで充電した電気をためて使うので、電気代はゼロ円!そして、冷たい風がでて、今年一番作ってよかったものです。

何にもない休日は、焚火でゆっくり調理する時間も大好きな時間です。

紫根を漬け込んだオイルがたくさん余っていたので、クリームを作ったり。

暇な時間さえあれば、今日は何しようかな~と考える時間も楽しくて。

でも、それにはやっぱり、余白の時間がないとダメなんですよね。

やらなきゃいけないこともいっぱいあったりはするのですが、

そんな時に、今やらなくてもいいのに!というようなことが

やりたくなっちゃうものです。

現実逃避とも言います(笑)

ただ、そうやって、自分を満たす時間があれば、

ちゃんと、気分を新たに、やらなければならなかったことに取り組めたり、

ボーっとしていた、ふとした瞬間に、いいアイディアが浮かんだりするものです。

いっぱいいっぱいになってるときは、生産性が上がりませんよね。

子どもたちも同じで、余白があったら、いろんなことを考えます。

何をしようかな。

いいこと考えた!

子どもたちの、この、『いいこと考えた!』の瞬間に出あえることは、

とっても幸せな瞬間です。

『いいこと考えた!』って子どもが言えるような、

そんな時間が、すべての子どもたちにありますように。

子どもは全て持っている

プレーパークで子どもたちが自由に遊んでいるときは、これ以上ないぐらい大笑いし、駆け回り、時には喧嘩して怒り、いつの間にか仲直りしてまた遊び始め、ほんとに楽しそうで、びっくりするぐらいの創造性を発揮しています。

一方で、プレーパークで楽しそうに遊ぶ友達を横目に、塾や習い事に向かう、なんだか窮屈そうな子どもたちもいて、ああ、あの子達に遊ぶ自由な時間があったらいいのにな〜と思うのです。

子どもに期待しすぎていませんか?

私達は、子どもに期待しすぎていないだろうか。

子どもがこんな風に育ってくれたらいいな。

これを今身に着けておけば、将来役に立つに違いない。

今これを頑張れば、将来すごい人材になるだろう。

未来の輝かしい子どもの姿を想像し、期待し、そのためには、今のうちからこれをやっておかなければと、気持ちは焦り、なかなか思い通りにならない子どもにイライラしたり、怒ってみたり。

このままじゃだめな人間になりはしないかと不安になり、そんな不安から、さらにあれもやっておこう。これもやっておいた方がいい。こんな経験も必要だと、どんどん習い事が増えていく。

そんな状況に置かれた子どもたちも、少なくない気がしています。

一方で、経済的余裕の無さからや、親の忙しさや心の余裕のなさから、早くあれしなさい、これしなさいと言われ続けていたり、ご飯が十分与えられていなかったり、子どもに関心が向いていないのかなと思えるようなご家庭もなくはない状況で、心がギュッと苦しくなるときもあります。

いろんなご家庭があり、それぞれのご家庭の、どうにもならない事情があったり、それぞれに価値観がある中で、子どもたちは、大人たちにコントロールされて、友だちと遊ぶ放課後の時間がない。

ほんとはお腹が空いてるけど、お母さん頑張ってるし、食べなくても平気という子。

ほんとは、話をいっぱい聞いてもらいたいんだけど、忙しそうだからと、話せないでいる子。

子どもに期待するのは、親として、大人として当たり前の感情なのかもしれません。でも、それを押し付けてしまうのは、かわいそうな気もします。

だって、常に、今のあなたじゃだめなのよ。あれも足りない、これも足りない。

もっと、これもできて、あれもできなきゃいけないのよ。もっと頑張らないとと、言葉にしないまでも、言われているに等しいから。

逆に、子どもに無関心な場合は、あなたのせいで、こんなに大変。あなたにご飯を作ることすら面倒。

それって、自分のことなんてどうでもいいんだという、無言のメッセージ。

どちらも、今の自分を否定されてるに等しいのではないかと思うのです。

子どもは全て持っている

我家の庭に、大きなどんぐりの木があります。t

長男が2、3歳の頃に、公園で拾ってきたどんぐりを、庭に埋めたら、、今ではもう屋根より高くなる勢いです。

子どもたちが木登りしてもびくともしない、立派な木に育ちました。

この木を見上げるたびに思うのです。

たった一つのどんぐりの中には、こんなに大きく立派に育つ遺伝情報やプログラムが、全て詰まっていたのだと。

足りないものなど一つもなく、時期が来れば、花を咲かせ、身をつけます。

たくさん実をつける年もあれば、全然実がならない年もあります。

去年は家のどんぐりも大豊作でしたが、今年は一個も実を落としていません。

山のどんぐりも、今年は大不作のようで、熊が里に降りてきて、あちこちニュースになっていますよね。

あ、話が横道にそれました。

そうやって、実をたくさんつける年、実をつけないでエネルギーを蓄える年。そんなことも、きっと、このちいさなどんぐりは、はじめから決めて実になっているわけです。

どんなふうに枝を伸ばすか、日当たりが悪ければ、おひさまを求めて曲がることもあるでしょう。

枝を伸ばした先に障害物があれば、障害物を避けて枝を曲げていくでしょう。

他の木があれば、お互いおひさまがちょうどよく当たるように、譲り合いながら、お互いちょうどいいように伸びていくのです。

そんなどんぐりの木を見ていると、子どもも同じように思えるのです。

子どもたちは、はじめから、いつ花を咲かせるか、どんな花を咲かせるか、どんな実をつけるか、全てはプログラムされて生まれてきていて、ただ、どんな枝ぶりになるか、太く丈夫に育つか、ひょろひょろで今にも折れそうになるかは、環境によるのだと。

いい土と、太陽と、水と栄養。

それさえあれば、本来持ってるものを最大限に発揮して、より良い形になっていく。

場合によっては、最初こそ添え木が必要になることもあるでしょう。でも、しっかり根を張り、ある程度育てば、もう、自然の太陽と雨と、自らの落ち葉だけで、どんどん育って伸びてゆくのです。

そういうものなのではないかと思うのです。

あなたはどんぐりのままでいいはずがない。あなたは栗の木のように人の役に立ち、頑張って実をつけなさいと言われたって、どんぐりはどんぐりでしかないのです。

ほら、隣の桜を見てご覧なさい。あんなに美しい花を咲かせて、みんなを楽しませている。あなたもあんなふうに美しい花を咲かせなさい。と言われても、どんぐりはどんぐりの花しか咲かせられないのです。

時には接ぎ木で、違う特徴の木にさせられてしまうこともあるでしょう。うまく行けば、美しい木になるかもしれません。でも、本来の姿ではないものになってしまいますよね。

私達は、どんぐりに(子どもに)、何を求めているのでしょう。

毎年たくさん実を成らせるように、遺伝子組み換えしたり、栄養や水を管理し、たくさん実を成らせることは可能かもしれないけれど、無理をさせすぎて、寿命より早く枯れたり、エネルギー切れになってしまわないか心配です。枯れて死ぬまで、管理し続けるのでしょうか。

添え木をいつまでも外さず、伸びたいのに、育ちたいのに、窮屈でぎちぎちになり、十分伸びられないでいられないということはないでしょうか。

水や栄養のやり過ぎで、根腐れ起こしていないでしょうか。

伸びた枝をどんどん切って、盆栽のように、美しいけど、小さくまとまっていないでしょうか。

大事にしすぎるあまり、屋根をかけ、ヒョロヒョロになって、台風でポッキリ折れてしまわないでしょうか。

管理された姿も十分美しいけれど、自然な姿、自然な枝ぶり、そのエネルギーに溢れた姿は、野山のそれとは、比べ物になりません。

大人は、子どもに、求めすぎてはいないでしょうか。

子どもたちが目にするいのち


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我が家には、子どもたちが捕まえて置いていった生き物たちがいろいろいます。

カナヘビ、ドジョウ、カブトムシ、クワガタ、カマキリ、バッタ、コオロギ。

その他に、もともと飼っていたメダカ、保護犬。

生き物だらけの我が家は、夏になると、よりにぎやかに、忙しくなります。

生きたエサが必要な生き物たち

カナヘビやカマキリが我が家にやってきてから、毎日がとても忙しくなります。

彼らは、生きたエサしか食べないからです。

カナヘビには、クモやバッタ、トンボやチョウチョ、ハエなどをつかまえてあげます。

お天気が悪い日が続いてエサが取れないときは、堆肥場からミミズやミルワーム、ワラジムシを捕まえてあげていました。

カマキリが我が家にやってきてからは、バッタやコオロギを余計に捕まえなくてはなりませんでした。

それぞれ、お好みがあるらしく、入れた瞬間捕まえて食べるエサと、何日か経って、しかたない、食べるか・・・みたいに食べるエサがあったりします。

子どもたちは、ことさら、そういう肉食系のハンターが、エサを食べる瞬間が見たいらしく、入れたエサを、早く食べないかとワクワクしながら虫かごをのぞいているのです。

それは、子どもたちに限らず、私もなのですが。

捕食シーンは、何度見てもすごいな~と感動します。

あまり、『かわいそう』という感情は沸いてこないのも不思議です。

でも、子どもたちの中には、トンボや、クモが食べられるのはワクワクして見ているのに、チョウチョが食べられるのを見ると「かわいそう」と言う子がいます。

それもまた、不思議な感情です。

それでも、カナヘビのためにせっせとバッタを捕まえ、入れた瞬間パクっと食べるのは、すごいな~と感動するのです。

でも、そうやって、たくさんエサを食べたカナヘビのペアは、今年、卵を三回生みました。全部で7匹。

卵は、9個生んだけど、そのうち二個はダメでした。

卵も、一か月たつとふっくら大きくなるんですよね。

卵からかえる瞬間のカナヘビの赤ちゃんを見るのも感動でした。

割れ目を発見してから1~2時間後。

ようやく生まれたカナヘビの赤ちゃん。

生まれるまで目が離せなくって、出てきた瞬間は感動的でした!

またある時は、

近所でシマヘビを捕まえた子ども達。

捕まえたら、速攻で餌のカエルを取りに田んぼに走っていきました。

ヘビが苦手な方、ごめんなさいね。

捕食シーンは、子どもたちも大興奮でした。

 

そして、カマキリも、はじめはオスしかいなかったのですが、メスも捕まえたので、虫かごに入れてみました。

そしたら、メスはとっさにオスカマキリに襲いかかり、オスが食べられる!と思ったら、その瞬間、オスはさっとメスの背中に飛び乗り、がっしりカマでホールドし、交尾を始めました。

一瞬の出来事でした。

オスも命がけで子孫を残そうとしています。

その、命の営みは感動的でもありました。

 

子どもたちと海で磯遊びした日に、たくさん小魚を捕まえました。

海辺には、今年生まれたウミネコのヒナがいました。

羽が傷ついて、うまく飛べないようでした。

そのウミネコが近づいてくるので、とったお魚を近くにもっていってあげました。

そしたら、長間をパクっと食べるのです。

食べて、生きながらえ、果たしてこの子は飛べるようになるのだろうかと思いました。

この夏は、そんな命のドラマがたくさんあって、

生き物たちの世界って、面白くて、すごくて、感動的なんだな~と、改めて思いました。

そんな瞬間を、子どもたちと共有できたこの夏の日々。

子どもたちにも、この日の感動を、どこか胸の中にしまっておいてくれればと思いました。

生き物たちの声

初夏の頃、我が家の庭は、カエルの大合唱です。

庭を歩けば、大きなトノサマガエルや、小さなアマガエルがぴょこぴょこ飛んでいます。

今年は、メダカの睡蓮鉢にトノサマガエルが侵入し、メダカが食べられてしまい、数が激減してしまいました。

そして、今頃の季節になると、コオロギの大合唱が響きます。

夜、眠りに落ちるとき、コオロギの声を聴きながら眠るのが好きです。

カエルがたくさんいるということは、エサになる生き物がたくさんいるということ。

カエルが食べるものと言えば、バッタやコオロギ、クモやハエなど。

生き物だらけの我が家の庭は、生き物たちのパラダイスなのでしょう。

毎年雀が巣を作っています。

時々、モズが飛んできたり、カッコウのヒナがいたり、とても賑やかです。

さくらんぼシーズンには、ムクドリやヒヨドリたちのえさ場になります。

 

最近、田んぼのカエルがうるさくて眠れないと、苦情のでる地域もあるようですね。

鈴虫の声がうるさいと苦情を言われた方もいるようで・・・。

 

自然の中の生き物たちの声は、そこに生物がすめる環境がまだ残っているということです。

とっても素敵なことだと思うのですが。

虫たちのいない世界

最近、ず~っと空き地だった近所のバッタなどのエサ取りしていた場所が、ついに宅地になるらしく、工事が始まってしまいました。

個々のバッタやクモなど、たくさんの生き物たちあ、どこへ追いやられるのだろうかと思いを巡らします。

空き地の横には田んぼがあって、カエルがたくさんいます。

ここの田んぼには、時々シラサギがやってきます。

カエルを食べに来てるのでしょう。

カエルのえさとなる小さな生き物たちの住処がなくなると、ここのカエルは、減ってしまうのかもしれません。カエルが減ったら、シラサギも来なくなるのかしら。

宅地化されようとしている空き地を見ながら、そんなことを考えてしまいます。

 

結構、子どもたちの中には、虫嫌いの子がいます。

虫なんかこの世からいなくなればいいのにと、とても気持ち悪がります。

でも思うのです。

この地球は昆虫が圧倒的に多い星です。

昆虫の惑星と言ってもいいぐらいです。

そして、最初の昆虫はいまから約4億7900万年前にあらわれたと考えられています。

そんな昆虫の星にちょっぴり居場所を借りて生活している私達。

ほんとは、彼らの住処にお邪魔しているのは、私たちの方ではないでしょうか。

虫たちがいなくなったら、この世界はどうなるでしょう。

先ほど言ったような、食物連鎖の頂点の生き物たちの数は減るでしょう。

さらに、木や草を食べ、フンとしていい土にしてくれているのも彼らです。

蜂などの昆虫がいなくなったら、花粉を運んでくれる虫がいなくなることで、受粉できずに植物たちは実をつけることができなくなります。

世界には、8,000種におよぶ糞虫がいますが、それに加えて、ハエやシデムシなど糞を食べる昆虫がすべて消滅したときを想像してみてください。

また、動物の死体を食べてくれるのも昆虫たちです。これらの恐ろしい死体請負業を担う昆虫は、500種以上にも及び、世界中で生育しながら、動物の死骸から死肉を食べつくして骨だけにしています。もちろん、空腹のハゲタカやバクテリアも助けになりますが、実際には、それだけでは不十分なのです。

昆虫がいなくなった静かな世界は、動物の死体と、フンだらけの世界になってしまうのかもしれません。

夏の夕暮れには、ちょっぴり物悲しい気持ちになるヒグラシの声。

ヒグラシの声。

風鈴の音。

蚊取り線香のにおい。

庭や縁側で食べるスイカ。

情緒的な日本の夏にも、虫たちの声は欠かせません。

昔から、和歌にも虫たちはたくさん登場しています。

虫を愛で、風情を楽しんできた日本の精神は、今もどこかで残っているでしょうか。

どうやら、東京都港区にあるサントリー美術館で、9/18まで、虫めづる日本の人々という展覧会があるようですね。

お近くの方は、ぜひ足を運んでみてください。

私も近かったら行ってみたかったな。

虫めづる日本の人々 展示構成 サントリー美術館 (suntory.co.jp)

 

 

大人も子どももごちゃまぜに!

子どもたちが夏休み中、地域の中で子おもと大人をつなぐチャンスなんじゃないのかな~と思い、今年は町内会と連携して、「大人と子どもをつなぐ」ということを意識してみました。

ベースは、子どもが楽しめる企画というところなのですが、そこに大人もお手伝いに来てもらったり、ということを始めてみました。

大人と子どもがごちゃまぜに

今年はなんと、主人が夏休み初日にアキレスけんを切ってしまいまして、波乱の夏休みの幕開けでしたが、今年は、町内会の中で私たちが企画した企画が目白押しでした。

主人が町内会で企画していたラジオ体操は今年で3年目。

私が代わって行くことにして、朝は健康的にラジオ体操からスタート!

ハンコ係の子どもたちが頑張ってくれて、無事、5日間のラジオ体操も終了。

お土産のある最終日に向けてちょっとづつ増えていく子供たち。

お孫さん連れた地域の方や、友達同士で声かけあって来てくれたり。

たまたまお散歩中のご近所さんにも、「一緒にラジオ体操しませんか?」って声かけて。

ここ数年、コロナもあって(コロナ前からですが)、町内の大人と子供の交流が途絶えてしまっていましたが、一年目は3人だった子供が、三年目には17人の子どもが来てくれました!

『ラジオ体操の歌』を毎回歌ってくださるご年配の方の素敵な歌声からスタートする朝。

全員にパンとジュース。そして子どもにはちょっとした景品付きです。

そして、同じく町内会で今年初めて企画したのが夏休みの寺子屋。

寺子屋といいつつ、お勉強を教えるわけでも、プログラムがあるわけでもありません。

冷房の効いた集会所を開けてるから、自由に来てねと、朝から夕方5時まで、三日間。

宿題やってもいいし、卓球やボードゲーム、カードゲームもできるし、おやつ作ってもいい。セルフかき氷や、駄菓子もあります。

初日は、子ども三人で、そのほか、大人がおしゃべりしに来たりして、アイスコーヒー飲みながら涼んでいきましたが、二日目からは、子どもがいっぱい来てくれました。

お手伝いに来てくれた大人と卓球してくれる子もいたりして。

おやつ作りたいというので、ホットケーキミックスとホットプレートでおやつ作り。

一日目はお絵かきホットケーキ。

二日目はクレープ生地焼いて、好きな具材入れて、セルフクレープまきまき。

集会所に来てくれたのは男の子ばっかりでしたが、「オレが混ぜたい」「卵割りたい」「自分でひっくりかえしたい」っていう子ばっかりで、材料だけ準備しt、後は子どもたちにお任せ。

セルフかき氷は、作った氷がなくなるまで、何度でもお替り自由!

ただし、自分で氷を削ること。

 

そして、八月のお盆過ぎには町内会の夏祭り!こちらも、今年初めての企画です。

直前間dの雨で、チラシで呼びかけただけで、どのぐらい人が来るのか、お手伝いに来てくれる人がいるのか、まったくふたを開けてみないと分からなかった企画ですが、赤ちゃんから80代?まで、たくさんの親子、子ども達、お手伝いの大人が来てくれました。

射的は常に行列。お手伝いの方も大忙し。

地域の科学工作好きな方が、自作クレーンゲームをもってきてくださり。この方、頼んだわけではないのですよ。当日急に持ってきてくれて、「これ、置くとこあるかな?」と。

ありがたいことです。

他にもストラックアウトや、うちわづくり、三本木小唄踊ったり。

お手伝いに来て下さった皆さん、「あなた一人でやらなくていいから、みんなに仕事振ってね」と、それぞれが、「じゃあ、私はストラックアウトの所にいるわ」「私は駄菓子の所にいるわね」「あら、フランクフルト、まだこんなに余ってるの?どんどん焼きましょう」って、皆さん自分から動いてくれて、さすがだな~と感心。

外では大人が焼き鳥、フランクを焼いていて、子ども達はマシュマロ焼きも。

薄暗くなってきたところで花火!

「こんなに(町内に)子どもがいたんだね~」

「子どもがいるっていいね~」と言う大人の声や、

「また来年もやる?来年もこようかな~」という小学生。

焼き鳥焼いてる主人に、「ありがとな!おにいちゃん!!」お声をかけてくれるおじいちゃん。

「あ!ラジオ体操の人だ!」と、顔を覚えてて声かけてくれる子。

こうやって、地域の中で、大人と子どもがごちゃ混ぜになることで、赤ちゃん連れのママや、子どもたちにあたたかく声かけてくれる町内の皆さん。

お祭りが終わった後の撤収も早かった!皆さんの連携のいいこと!素晴らしい!

 

こうしてつながっていくためには、「楽しい」がキーワードだな~、と、いろいろやってみて思っています。

やってる本人が楽しい事。なんか関わったら楽しそうだと思えること。やってみたら楽しかった!またやりたい!って、思えること。

どんなに大変でも、その大変さを上回る「楽しい」が大事だな~と思います。

そして、継続。

まだまだ試行錯誤ですが、つながりをとりもどして、安心できる町に、やさしい町にしていきたい。

人と人とのつながりこそ 万全な防犯対策

「人と人とのつながりこそ 万全な防犯対策」

ドラマの『ばらかもん』でも、そんなセリフがありましたが、地域のつながりがあるからこそ、いざというとき安心できる町であるし、困ったときに声かけあったり、助け合ったりできるのだと思います。

先日、民生委員として、地域の介護施設の方や包括支援センターの方とお話をする機会があったのですが、そのとき心に残ったのは、たとえ、お年寄りが徘徊して歩くようになったとしても、地域の中につながりがあったら、声かけてあげたり、ご家族に連絡してあげたり、地域でできることもあるんじゃないのかなということでした。

地域の中に、将棋仲間だったり、お茶を飲んで話せる友達がいたら、孤立せずに済むのになと。

子育ても介護も、それぞれの家庭の中だけで完結しようと思うと、とっても大変で、一人で子育てするママ、一人で介護する家族にものすごく負担がかかるのです。家族のことだから、人に迷惑はかけられないと、自分一人で頑張ってしまう方も多いのですが、その背負った一人の身になにかあったら、本当に孤立してしまいます。

そして、孤立してしまうと、他の人の目に触れにくく、大変であることが気づいてもらえないのです。

子育てでも、介護でも、

もっと、地域の中で見守る目があったらね~。

大変な時、助けて欲しいと言える人がそばにいたらね~。

というケースも多々あります。

 

町の中に、子どもの遊ぶ声が響かなくなってきた昨今ですが、子どもはいます。

プレーパークや子どもの居場所をやっている中で出会った子の中には、夏休みになると晩ご飯しか食べないという子が何人もいます。昨日の夜から食べたのは、自分が買ってきたカップラーメンだけという子もいます。

そんな時、ちょっとお中にたまるものを作ってあげたり、買ってあげたりもします。

 

子育てにつかれたり迷ったりしてるママから相談受けることもあります。

ちょっと話を聞いてあげただけで、すっきりした顔で帰っていくこともあります。

時にはお子さんをお預かりすることもあります。

民生委員で回ったお宅で、もうずっと誰とも話していない。話ができてよかったとおっしゃる方もいます。

つながることでできることが、もっともっとあるのではないかと思います。

助けてと言える人が地域にいる。そんなつながりがあること。

そういう世界を作っていきませんか?

 

 

何のために生きてますか?


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NHKの番組で、先日放送されていた哲学的街頭インタビュー。

「何のために生きてますか?」というのを、

NHKプラスで見ました。

いろんな世代の人に、

「何のために生きてますか?」と尋ねます。

「楽しむために生きてる」

「別に。ただ、生きていられるまで生きてる」

「忘れられないために」

などなど、いろんな答えがありました。

その答えを聞きながら、私だったら何と答えるかな?と考えていました。

それと同時に、最近観てきた宮崎駿の「君たちはどう生きるか」のことも頭の中にかけめぐっていました。

今回は、ちょっぴり哲学的に、いろんな視点から、

「私たちは何のために生きているのだろうか」を考えてみたいと思います。

自然世界を眺めると

子どもたちと森や川に出かけると、ほんとにびっくりするような生き物たちとの出会いがたくさんあります。

先日のキャンプのレポートでもお伝えしたような、

いろんな魚、いろんなトンボのほか、

この前も、別の子どもたち連れて同じ場所に行ったら、カナヘビやカマキリを見つけたり。

生き物ハンターのアンテナを持った子どもは、

それぞれ独自のアンテナを持っていて、

子どもによって、見つける生き物が変わってきます。

同じ場所なのに、人が違うだけで、出会える生き物が変わるのです。

不思議なものですね。

さて、そうやって出会うたくさんの生き物たち。

時には家に持ち帰って飼ってみたりします。

持って帰ったカマキリは、水が足りなかったのか、エサが足りなかったのか、残念ながら死んでしまいました。

去年連れ帰って飼い続けているカナヘビは、冷蔵庫の中で冬眠し、春になって暖かいところに出してあげてから、夏になって無事に卵を産んでくれて、7月には赤ちゃんが卵から生まれました。

ちいさないのちが生まれる瞬間は、もう、目が離せなくて、もう、感動でした!

生まれては、次に命を引き渡して死にゆく生き物たち。

トンボのヤゴはこの後羽化に失敗し、カナヘビのえさとなりました。

無事に羽化した蝶は、新たな世界へ羽ばたいてゆきます。

世界を自由に飛び回り、出会い、新たな命を生み出すことでしょう。

生命は、はかなくて、力強くて、美しくて、神秘的で、愛しくて。

羽化に失敗して死んでしまうものもいたり、

大人になる前に食べられて死んでしまういのちがあったり。

でも、すべてのいのちは、つながれた命をただひたすらに生き、

次に命をつないでその命を終えていきます。

大人になる前に死んでしまった命であっても、

別な生き物を生かすためのエネルギーとなったり、

土に返って、次なる命を生み出す栄養になったりするのと思うのです。

それは、同じ種を残すためだけの命ではなく、

あらゆる生物を生かすための命。

カナヘビを生かすためには、クモやバッタの命が必要で、

その、クモもまた、小さな命を奪いながら生きています。

バッタは草を食べますが、その草の下には土があり、土の中には無数の土壌生物や微生物がいます。バッタが死んだら、無数の小さな生物のえさになり、最後は草の栄養となります。

田んぼの水を汲むと、たくさんの微生物がいます。

小さくて、顕微鏡じゃないとはっきりとは見えないのに、それでも一滴の水の中に生きています。ただただ生きています。

そして、死んだのちは、その体が栄養となって、イネを育て、私達が食べるお米になります。

全ての命はつながって、他の命を生かしています。

生きるとは、そういうことなのかもしれません。

何のために生きるのか

再びこの問いを考えます。

生まれ落ちたその命、ただただ、生き続けるために生きる。

それも間違いではないでしょう。

せっかくこの地球に生まれ落ちた命、楽しまなければもったいない。

この地球を楽しみ、ありとあらゆることを楽しみ、

生を謳歌する。

生きてる実感を感じたい。

それも間違いではないでしょう。

ただ、生命の本質を自然の中から見たときに、

「他の命を生かすために生きる」

ということが、なんだか今の私の中で腑に落ちるのです。

母は、命を賭して新たな命を生み出します。

死んでなお、その体を子に食べさせる昆虫もいます。

人間だって、昔に比べて妊産婦の死亡率は低くなったものの、赤ちゃんを産むのは命がけです。2020年には、ほぼ 2 分に 1 回の割合で妊産婦死亡が発生しています。

そして、そんな命がけのドラマの中で生みだされたこの命。

私が生きているこの時間の中で、このいのちをどう使おうか。

それが、今回の宮崎駿の「君たちはどう生きるか」につながってくるのです。

君たちはどう生きるか

ネタバレになるので、多くは語りません。

ただ、この映画から私が受け取ったメッセージは、

今より、よりよい世界を築いていきたいということ。

それは、誰かが考え、作り上げられた今の延長線上にある世界ではなく、

争いや、嫌なこともいろいろある世界だけれども、

自分なりに自分が考えたよりよい世界を作っていくということ。

 

それぞれが、自分がこの世界が楽しい!

今よりちょっとだけ素敵な世界じゃないかと思える世界を作るために、

この命を使っていく。

 

そういうことなんじゃないのかな~、というのが、映画を観た私の感想。

 

それぞれに受け止め方は違うだろうし、「何のために生きているのか」という問いの答えも、それぞれの価値観、人生観で違うことでしょう。

「君たちはどう生きるか」も、答えのない問いです。

 

それぞれに思う、「私はこう生きたい」という人生を送ってゆくしかないのだと思っています。

 

 

夏の冒険キャンプは生き物がいっぱい!~その3(星空へと続くホタル)


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夏の冒険キャンプも、いよいよ日暮れ。

ちょっぴり薄明るさが残るころから、

焚火や花火をしながら

ホタルの出る時間まで待ちます。

木を楽器に楽しんでみたり

花火花火♪

ダブル!

キャンプ場にたまたまいた、他の家族も一緒に花火♪

そして、いよいよ暗くなり、ホタルを見に川へ。

いました!

ふわ~り大きなあかりはゲンジボタルで、大きいホタル。

パッパッとフラッシュのような小さな明るい光は森のホタルのヒメボタル。

大きさは、ゲンジの半分ほどなのに、とっても明るい光を発します。

今年は今までで一番ホタルがたくさん飛んでいました。

森の中は、ぴかぴかクリスマスツリーのようで、

水面を漂うゲンジボタルがふわりと空高く舞い上がると、

空には星が。

ホタルの光と星が一体となって、何とも言えず幻想的です。

夜も更け、眠気に襲われた子どもたちは、あっという間に夢の中です・・・

そして、焚火を囲んだ大人タイム。

こうして、生き物に触れ、星空とホタルが一体となったような夜空を眺めたり、

一方で暗闇の森を横目に、焚火の揺らめく炎を眺めていると、

自分が森の中に紛れ込んだ、ひとつの生命体であるという感覚におそわれます。

人間は、ただ、この森におじゃましているだけの、ほんのちっぽけな存在で、

森には無数の生き物たちが生き、いのちを謳歌し、いのちをつなぐ。

人間よりもはるかにたくさんの生き物たちのいのちを育む森と川。

 

そして、このホタルの森のすぐ横には、太陽光パネルの設置のために切られた森があります。

人間って、そこに住まう生き物たちの存在に対して、なんて無頓着なんだろうかと思います。