プレーパークで子どもたちが自由に遊んでいるときは、これ以上ないぐらい大笑いし、駆け回り、時には喧嘩して怒り、いつの間にか仲直りしてまた遊び始め、ほんとに楽しそうで、びっくりするぐらいの創造性を発揮しています。
一方で、プレーパークで楽しそうに遊ぶ友達を横目に、塾や習い事に向かう、なんだか窮屈そうな子どもたちもいて、ああ、あの子達に遊ぶ自由な時間があったらいいのにな〜と思うのです。
子どもに期待しすぎていませんか?
私達は、子どもに期待しすぎていないだろうか。
子どもがこんな風に育ってくれたらいいな。
これを今身に着けておけば、将来役に立つに違いない。
今これを頑張れば、将来すごい人材になるだろう。
未来の輝かしい子どもの姿を想像し、期待し、そのためには、今のうちからこれをやっておかなければと、気持ちは焦り、なかなか思い通りにならない子どもにイライラしたり、怒ってみたり。
このままじゃだめな人間になりはしないかと不安になり、そんな不安から、さらにあれもやっておこう。これもやっておいた方がいい。こんな経験も必要だと、どんどん習い事が増えていく。
そんな状況に置かれた子どもたちも、少なくない気がしています。
一方で、経済的余裕の無さからや、親の忙しさや心の余裕のなさから、早くあれしなさい、これしなさいと言われ続けていたり、ご飯が十分与えられていなかったり、子どもに関心が向いていないのかなと思えるようなご家庭もなくはない状況で、心がギュッと苦しくなるときもあります。
いろんなご家庭があり、それぞれのご家庭の、どうにもならない事情があったり、それぞれに価値観がある中で、子どもたちは、大人たちにコントロールされて、友だちと遊ぶ放課後の時間がない。
ほんとはお腹が空いてるけど、お母さん頑張ってるし、食べなくても平気という子。
ほんとは、話をいっぱい聞いてもらいたいんだけど、忙しそうだからと、話せないでいる子。
子どもに期待するのは、親として、大人として当たり前の感情なのかもしれません。でも、それを押し付けてしまうのは、かわいそうな気もします。
だって、常に、今のあなたじゃだめなのよ。あれも足りない、これも足りない。
もっと、これもできて、あれもできなきゃいけないのよ。もっと頑張らないとと、言葉にしないまでも、言われているに等しいから。
逆に、子どもに無関心な場合は、あなたのせいで、こんなに大変。あなたにご飯を作ることすら面倒。
それって、自分のことなんてどうでもいいんだという、無言のメッセージ。
どちらも、今の自分を否定されてるに等しいのではないかと思うのです。
子どもは全て持っている
我家の庭に、大きなどんぐりの木があります。t
長男が2、3歳の頃に、公園で拾ってきたどんぐりを、庭に埋めたら、、今ではもう屋根より高くなる勢いです。
子どもたちが木登りしてもびくともしない、立派な木に育ちました。
この木を見上げるたびに思うのです。
たった一つのどんぐりの中には、こんなに大きく立派に育つ遺伝情報やプログラムが、全て詰まっていたのだと。
足りないものなど一つもなく、時期が来れば、花を咲かせ、身をつけます。
たくさん実をつける年もあれば、全然実がならない年もあります。
去年は家のどんぐりも大豊作でしたが、今年は一個も実を落としていません。
山のどんぐりも、今年は大不作のようで、熊が里に降りてきて、あちこちニュースになっていますよね。
あ、話が横道にそれました。
そうやって、実をたくさんつける年、実をつけないでエネルギーを蓄える年。そんなことも、きっと、このちいさなどんぐりは、はじめから決めて実になっているわけです。
どんなふうに枝を伸ばすか、日当たりが悪ければ、おひさまを求めて曲がることもあるでしょう。
枝を伸ばした先に障害物があれば、障害物を避けて枝を曲げていくでしょう。
他の木があれば、お互いおひさまがちょうどよく当たるように、譲り合いながら、お互いちょうどいいように伸びていくのです。
そんなどんぐりの木を見ていると、子どもも同じように思えるのです。
子どもたちは、はじめから、いつ花を咲かせるか、どんな花を咲かせるか、どんな実をつけるか、全てはプログラムされて生まれてきていて、ただ、どんな枝ぶりになるか、太く丈夫に育つか、ひょろひょろで今にも折れそうになるかは、環境によるのだと。
いい土と、太陽と、水と栄養。
それさえあれば、本来持ってるものを最大限に発揮して、より良い形になっていく。
場合によっては、最初こそ添え木が必要になることもあるでしょう。でも、しっかり根を張り、ある程度育てば、もう、自然の太陽と雨と、自らの落ち葉だけで、どんどん育って伸びてゆくのです。
そういうものなのではないかと思うのです。
あなたはどんぐりのままでいいはずがない。あなたは栗の木のように人の役に立ち、頑張って実をつけなさいと言われたって、どんぐりはどんぐりでしかないのです。
ほら、隣の桜を見てご覧なさい。あんなに美しい花を咲かせて、みんなを楽しませている。あなたもあんなふうに美しい花を咲かせなさい。と言われても、どんぐりはどんぐりの花しか咲かせられないのです。
時には接ぎ木で、違う特徴の木にさせられてしまうこともあるでしょう。うまく行けば、美しい木になるかもしれません。でも、本来の姿ではないものになってしまいますよね。
私達は、どんぐりに(子どもに)、何を求めているのでしょう。
毎年たくさん実を成らせるように、遺伝子組み換えしたり、栄養や水を管理し、たくさん実を成らせることは可能かもしれないけれど、無理をさせすぎて、寿命より早く枯れたり、エネルギー切れになってしまわないか心配です。枯れて死ぬまで、管理し続けるのでしょうか。
添え木をいつまでも外さず、伸びたいのに、育ちたいのに、窮屈でぎちぎちになり、十分伸びられないでいられないということはないでしょうか。
水や栄養のやり過ぎで、根腐れ起こしていないでしょうか。
伸びた枝をどんどん切って、盆栽のように、美しいけど、小さくまとまっていないでしょうか。
大事にしすぎるあまり、屋根をかけ、ヒョロヒョロになって、台風でポッキリ折れてしまわないでしょうか。
管理された姿も十分美しいけれど、自然な姿、自然な枝ぶり、そのエネルギーに溢れた姿は、野山のそれとは、比べ物になりません。
大人は、子どもに、求めすぎてはいないでしょうか。