最近、立て続けに、「自己責任論」という言葉が目に飛び込んできます。
そんな中、『生きることは頼ること』という本に出会いました。
まだ全部は読んでいないのですが、途中まで読んで、思ったのは、
弱くたっていいじゃないかということ。
子どもの居場所や遊びの活動をしている中で、
「なんでそんな活動をしているの?」
「ボランティアでやってるの?すごいね~」
そんなことをよく言われます。
そのたびに言うのは、
4人の子育てしていく中で、出会った子ども達の声を聞いていて、
自由に遊ぶ場がなかったり、家がホッとできる場所でなかったり、
いろんなストレスを子どもたちが抱えていることを知って、
せめて、ここだけは自由でいられる場所に。
せめてここだけは、子どもたちのセーフティネットになるようにと、
そんな思いでやっている。別に偉くなんかない
好きでやってることだから。というような話はするのだけれど、
ホントはそれを目的にやっているわけではなくて。
実は、ただ、目の前にいる子が、なんかストレス抱えているみたいで、
子どもの声にただただ耳を傾け、おなかすいた?ご飯食べる?
そうやって、一緒にご飯食べて、一緒に笑って、
彼らの問題を解決はできないけれど、
ほんとは家でできたら一番いいのだけど、
のんびりしたり、だらだらしたり、おなかを満たしたり、笑ったり。
ただそれだけで、ちょっぴりエネルギーチャージされていくようで。
そして、彼らと時を過ごしてると、こちらは体力的には、消耗するのですが、
不思議と、ワクワクのエネルギーは、チャージされていくようなのです。
冒頭紹介した本の中で、
通勤中、駅のホームで子どもが泣いているのに気が付いたあなたは、
子どもの前にひざまずいて、「どうしたの?」と、声をかけます。
どうやらおかあさんとはぐれてしまった子どもを横目に、
「そうなんだ、お母さん見つかるといいね」と、自分も急いでいるし、
誰かがきっと助けるだろうとその場を立ち去ったとしても、
責任は問われないかもしれません。
でも、放っておいた後で、連れ去られてしまったら?
間違った電車に乗って、さらに遠くに行ってしまったら?
ホームから転落する可能性だってあります。
お母さんからはぐれてしまったのは、その子の責任でしょうか?
子どもの手を放してしまったお母さんの責任?
見て見ぬふりして通り過ぎて、何か事故や事件が起きた場合、私の責任ではないでしょうか?
見つけてしまった私の責任として、迷子の子どもを駅員さんに引き渡したところで、私の責任は、駅員さんに引き継がれ、私はある種、責任を果たしたことになりますよね。
たぶん、私達が子どもたちにしていることは、目の前に、見過ごせない子どもがいるから、大丈夫だよ。安心していいよ。親御さんが帰ってくるまで、ここにいてもいいよと、彼らが家に戻るまでの間、どうせなら、楽しく笑って過ごしたいよね。おなかすいたら、おやつやごはん食べて。
ただ、それだけなんだよなと。
自分は、そんなの自分の責任じゃないと見過ごしておいて、その子に何かがあった時に、そもそも子どもをちゃんと見ていない親が悪い。駅員は何もしなかったのかと、犯人探しをし、そいつの自己責任だ、というのは、すごく無責任なことのように思います。
自己責任にしてしまえば、私に責任がなくなるからです。
では、おうちで具合の悪いお母さんがいて、家事や下の子の面倒を見ている子がいたとします。
その子が、宿題をする暇がなくて宿題をしていかなかったとしたら、それはその子の責任でしょうか?
お母さんが一人で子どもを育てていて、夜遅くまで仕事をしていて、ご飯を食べるのがいつも夜遅くて。寝る時間がいつも遅くなってしまう。そんな子が、毎日遅刻をしてしまうのは、その子の自己責任でしょうか?
夜のお仕事しているおうちの人が、朝ご飯を用意できない。朝ご飯をいつも食べない子が、午前中はやる気が出なくて、だらけている。それはその子がやる気を出さないからなんでしょうか?
おうちの人が洗濯する余裕がない。新しい服をなかなか買ってやれない。いつも同じ服を着ている。その子の責任でしょうか?
毎日毎日塾通い。友達と遊びたいけど遊ぶ時間もない。家でダラダラしてたら怒られるし、90点取ってても、なんで100点取れないんだとほめてももらえない。いつもイライラして、友達につい意地悪してしまう。それは、その子の頑張りが足りないからでしょうか?
ここに例として挙げたことの中には、実際に、今までいろんな子どもたちの声から垣間見えた、いろんな子どもたちの背景もあります。
勉強ができて、運動神経もよくて、お友達と仲良くして、やさしい人になりなさい。それができないのは、あなたの頑張りが足りないのよ。ほら、もっと勉強して。運動ももっと上手にできるように、習い事も増やしましょう。ボランティアも積極的に参加して、困った人を助けてあげなさい。
さあ、もっと頑張って。
そんなことを、家でも、学校でも、常に強いられている子ども達は、自己責任という名のプレッシャーに押しつぶされてしまいます。
完ぺきになれない自分。
成績が思うように上がらない。
試合で負けちゃった。
頑張っても頑張ってもレギュラーになれない。
人にやさしくできない自分。
友だち関係もうまくいかない。
頑張りが足りないんだ。もうこれ以上頑張れない。できない自分が悪いんだ。できない自分に価値はない。消えてしまいたい・・・。
一年間に527人もの子どもが死を選んでしまう国。
さきほど、自己責任は無責任だと書きました。
できないのは、頑張りが足りないあなたのせいだと、自己責任にすり替えるのは簡単です。
でも、弱さは、誰かによって、何かによってカバーしてもらえれば、生きていくのに困ることはありません。
私は、メガネがないと視力が0.01と、ド近眼です。最近は老眼も始まり、細かい字を見るのはストレスです。でも、目が見えないのは頑張りが足りないんだ。もっと頑張って見なさいと言われても困ってしまいます。でも、メガネがあれば、日常生活に困ることはありません。
私は記憶力がとても悪くて、新しい事を覚えると、昔の記憶がどんどん失われていきます。忘れっぽいので、スマホのカレンダーに、予定を書き込んだり、記録用に写真撮ったりして、忘れないようにしています。スマホ様様です。
それでも時々抜けているので、いつもお知らせがぎりぎりになってしまったり、ご迷惑をかけることもあるのですが、適当で抜けている私を知っている人には、笑って許してもらい、助けてもらっています。
できないことはできない。失敗したけど、ま、いっか。
でも、自分の責任として、できることは精一杯やろう。
それでもできないときはもちろんあって、そんなときは助けてもらおう。
助けてと言える関係性が持てるように、弱くても、つながりをたくさんつくって、私が助けられるときは力になります。
弱い自分だから、完ぺきじゃない自分だから。
でも、弱い自分だからこそ、人の弱さに気付けるのかもしれなくて、
完ぺきじゃないからこそ、完ぺきになれなくて苦しんでる子の声が聞こえてしまうのかもしれない。
完ぺきな人は、助けがいらないだろうと思われがちです。完ぺきを装っていると、助けてと言えなくなる。
弱いことは、助けてもらえるし、最強なのかもしれないと、最近ちょっと思っています。
そういえば、弱いロボットって知ってますか?
できないからこそ、助けたくなっちゃうロボット。
〈弱いロボット〉から学ぶ幸せのかたち
~「ありあわせ」がイノベーションを生む!~
イノベーションは、弱さから生まれるのかもしれませんね。