悪ガキと言われる子供たちの心の奥

数年前、子供たちの居場所を作りたいと思い立ち、庭を近所の子供たちに開放することにした矢先、乱暴で、口の悪い、全く大人の言うことを聞かない悪ガキ三人組が庭にやってくるようになりました。

その子たちとかかわる中で、悪ガキと言われるような子供達に、ある想いがあるのを感じました。彼らに必要なのは、どんな言葉なのか?どんな態度なのか?だんだんにわかってくるようになりました。

悪ガキたち

ケンカっ早くて、それまで平和に遊んでいた子ども達を押しのけ、ここは自分達の遊び場だぞ!って言わんばかりに好き勝手にする。ものは壊すし、大工道具は出しっぱなし。ケンカして馬乗りになって殴る蹴る。きっといつも怒られなれているからでしょう。怒っても、大人の言うことなんかまったく聞かず、説教も右から左へ抜け、説教が始まると思うと、さ~っと逃げ去り、ほとぼりが冷めるまで寄り付かなくなる。大人が居ないときに、勝手に火をおこしてたき火してたり、とにかくすごい子ども達でした。

でも、一方で、なんだか憎めない子どもらしさがあり、遊びを作り出すことに対しては天才的な才能を発揮するのでした。

ドジョウを大量につかまえて来て焼いて食べたり、おこずかいで野菜や魚介類を買ってきて、「鍋パーティーなるから火を起こして」と言ってきたり。その辺の木の枝と輪ゴムでモリを作って「魚取りに行ってくる!」と、駆け出して行ったり、「ペットボトルとガムテープをありったけちょうだい」というから渡すと、いかだを作り、水路に走って行ったり、大人では到底考えつかないアイディアをつぎつぎ出して、いつもびっくりするようなことをする子達。
彼らがいることで、遊びは飛躍的におもしろくなり、刺激的になるのでした。

怒りのコントロール

そんな愛すべき悪ガキ達ですが、腹が立ったり、自分の思い通りにならないと、すぐに手や足が出ます。
でも、「顔を蹴るのはやめなさい!」というと、「だって、俺のお父さんだって、おこると顔蹴るよ」って言います。怒ったときは、殴ったり蹴ったりすればいいってからだで覚えてきたんだとおもいます。怒りを表現する方法が暴力だとしか体験してなければ、当然子供もそうなります。その子が、口汚く友達をののしるなら、ほとんどの場合、家庭でも、親や兄弟に口汚くののしられています。

彼らが取っ組み合いのけんかを始めるたびに、怯える息子を安全なところに離し、殴りかかりに行こうとする子供を抱きとめ、なんでそうなったのか、話を聞きます。怒りが収まらないときには、

「頭に来たからって、殴っていいわけじゃないよ。少なくとも、うちでは誰も、怒っても殴ることはしないよ。怒って殴るのが当たり前じゃないんだよ。ほら、ちっちゃい息子も怖がってるじゃない?怒ったときは殴っていいなんて、この小さい息子に教えないでほしい。そんな時は、相手とちょっと離れていたらいいよ。気持ちが収まったら、一緒に遊べばいいじゃない。」

そう話しかけました。庭の小屋の中で、ふてくされてゲームを始めるその子も、そのうち、気持ちが収まったのか、いつの間にかまた一緒に遊びだしたりしています。

そうやって、何度も話ていくことで、怒りをコントロールする方法を、少しづつ、少しづつ身に着けていってくれた悪ガキたちは、それから二年後には、口はまだまだ悪いけれど、ほとんど殴る蹴るはしなくなりました。

乱暴物だって、本当は甘えたい

昔のお父さんはよくげんこつで殴ったりしたものです。でも、子どもを思えばこそという気持ちもよくわかったように思います。お父さんは多少威厳がある方がいいのかもしれない。でも、今の子供たちへのそれが、かっとなって振るうげんこつでないことを祈ります。ただ、彼らの話から、自分のお父さんはこんな仕事してるんだぞ、すごいんだぞ!と、父親を誇りを持っているようにも思います。
そして、そんな彼らも、お母さんのことは大好きなのがわかります。当時4歳の息子が私に甘えておんぶしてくると、
「いいな~。でも、おれ、あかちゃんいるから、甘えないんだ。お母さんにくっつくと、あっちいってって言われるし。」ってつぶやいたときがありました。
悪ぶってたって、本当は甘えたいし、自分のことを見てほしい、気にかけてほしい。きっと、これは、この子達だけじゃない。どんな子でも、特に、みんなに乱暴しちゃうような、やんちゃな子ほど、本とは心の中ではそうなんじゃないかと思うのです。

だからこそ、その子に気持ちをかけてあげられる大人が、周りにいてほしいのです。