Happy childrenは夫婦で子供たちのために始めました。自然体験やプレーパーク、創作体験など、子供たちが生きる力をつけるための活動をしています。
四児の父として、夫婦でお互い足りない部分を補いながら、幸せな家庭を作っていきたいと思っています。夫婦でやるので、ダイナミックに遊ぶ部分や力仕事、人前でしゃべることは父が、食のことや、子供たちの細やかなケア、書いて発信することは母が、自然な形でお互いの得意な分野を役割分担しながら活動しています。
新藤潤一の略歴
私は、群馬県の自然豊かな山あいの町で、年の離れた弟と二人兄弟で育ちました。小さい頃は、友達と毎日日が暮れるまで目の前の山で遊び、洞窟探検や秘密基地づくりをしたり、川で遊んだりしていました。
自分の父は、幼い頃からミシン会社の仕事を営み、土日もなく毎日夜が遅く、家族で夕食を共にした記憶も少ししかありません。あるとき、知人の借金の保証人になっていたことや、信頼して雇っていた人の使い込みなどが原因で多額の借金を背負うことになりました。家には返済を迫る脅しのような電話や、借金取りが直接やってくるようになり、家族で夜逃げをして父の友人宅に逃げ込み、倉庫の二階で隠れるように暮らしていました。そんなある朝、高校生だった自分の目の前で、悪化していた持病のせいで父が突然亡くなりました。父が亡くなった後も、父の知人は何も言わず、私達親子三人を住まわせてくれました。
その後、高校を卒業し、大学で弘前に。そこで探検部に入部し、白神山地や岩木山に魅せられました。そして、同じ探検部の後輩として妻と出会いました。
大学院まで進み、昆虫学を研究して、卒業後は東京に就職しました。でも、そこでの仕事や東京での生活が肌に合わず、体を壊してしまいます。そんな時、私を心配した大学の昆虫学教室の先生が声をかけてくれて、結局二か月で退職し、先生の紹介で大学の助手として弘前に帰ってきました。そして妻と再会し結婚しました。
ところが、新しく働き始めた職場も、3年半がたった頃、教授の退官と共に様々な事情で教室が解散することになり、公務員試験を受けなおし、青森県の職員になりました。今は県職員を退職し、研究所職員として、大学時代の学びが生かせる害虫の研究をしています。
こうして経歴を眺めていると、人から見たら波乱万丈な人生だったと思うのですが、全く大変だったとは思っていません。いろいろな困難があったときに、必ず救いの手を差し伸べてくれる人、自分を理解してくれる友人がそばにいました。白神山地で語りあった仲間もいました。
いい父親になりたい
私は、高校生の時に父を亡くしています。子供の成長した姿を見ることができなかった父は無念だったろうな、と思っていました。だからなのか、結婚したとき、まず思ったのは、「いい父親になりたい」ということでした。
子供のころから自然の中で遊ぶことが好きで、探検部時代の多くの時間を白神山地や岩木山で過ごしました。自然の楽しさを知っているので、子供たちを自然の中で遊ばせたい、という思いがありました。
自然の中で遊ぶ子供たちは本当に生き生きしていて、生きる力があふれていました。この、生き生きした子供時代をすごすことが、自分の子供たちだけではもったいない。たくさんの子供たちにも経験させてあげたい。
いい父親になりたいという思いは、ほかの子供たちにも向かいました。
夫婦の形
家庭の中では、どうしても母親が多くの時間を子ども達とすごします。そんな中、父親に何ができるだろうかと、考えたとき、育児で大変な母親を支えてあげることが、大事なんじゃないかと思うようになりました。また、自分自身も子供と接する時間を少しでも多く持ちたいと思い、子供をお風呂に入れたり、寝かしつけしたり、自分ができることを自然とやるようになりました。子供たちと川の字になって絵本を読んだ幸せな時間は、自分にとってかけがえのないものになっています。