自然のままに生きる

五月から、ほぼ毎朝、「世界が変わる学校」に出ています。

今日のテーマは「何をするために生まれてきたか」。

それぞれ、いろんな考え方があって、

「今、この瞬間に出会うため」とか

「幸せになるため」とか

「いろんな感情を味わうため」とか

「今、こうして雨の音を聞くために生まれた」

などなど、いろんな言葉が飛び交うのです。

正解はなくて、それぞれの中に答えはあるのだと思うのだけれど、

今の、私なりの考えは、「自然のままに生きるため」かなと。

この先、答えは変わるかもしれないけれど、今感じている私の答えです。

自然のままってどんな状態?

「自然のままに生きるため」と思ったのは、「雨の音を聞くために生まれた」という方の発言から。

ただただ雨の音に耳を傾けてると、自分が雨になったように感じる、そんな表現をして下さった方もいて、その言葉を聞いた時、季節外れであるけれど、雪の中を歩いていた自分を思い出したのです。

ふわふわと舞う雪降る夜に、天を仰ぎながら歩くと、雪が降ってきているのか、自分が天に昇っているのかわからなくなるような感覚を思い出したのです。

それは、不思議な感覚で、私が雪になったような、雪が私になったような、そんな感覚とも似ています。

その感覚を思い出したときに、私が自然の中に身を置いた時に感じる、さまざまな感覚を思い出していました。

風が頬をなでつけ、吹き抜けていく感覚。

木の葉が風に揺れて、ざわざわと枝を揺らす音。

森の中、あちこちで鳴きかわす鳥の声。

一筋のきれいな湧水が、いろんな流れと合流しながら大きな川の流れを作っていく様子。

森の中に息づく命。

川の中に息づく命。

自分も自然のいのちの一部であるという圧倒的な感覚。

 

自然は、そのまま命を育むもので、いのちそのものです。動物も植物も、子孫を残し、成長し続けます。

自然のままは、あるがまま。

余計な手をかけず、ただ生きる。そんな状態なのでしょうか。

 

囲われた子ども達

自然なままの状態では、動物も植物も人が手を加えることなく生きています。

 

一方、鉢植えの植物や、動物園の動物を考えたとき、囲った瞬間、お世話が必要になります。

エサをやり、水をやり、栄養を与えなければなりません。

でも、植物に水をあげすぎると、根腐れをおこします。動物にエサをやりすぎると、肥満になりすぎてしまいます。栄養が少ないと、うまく成長できません。

外から与えるものは、「ちょうどいい加減」が難しいのかもしれません。

 

でも、自然の状態の植物や動物たちは、自分で必要な水分をとり、必要なぶんだけの栄養をとります。それで、ちゃんと成長していくのです。

 

ここで、人間に置き換えて考えてみましょう。囲われた子供たちを想像してみてください。

 

まずは学校。

そこには、「こうあるべき」「みんな同じでなければならない」

「これをしてはいけない、あれをしてはいけない」という囲いがあります。

 

次に社会。

「人に迷惑をかけてはいけない」「迷惑をかけないように」という囲い。

 

家庭の中ですら、怪我をしないように、失敗しないように、安心安全の囲いがあります。

 

今の子ども達は、何重にもなった、たくさんの囲いの中にいます。囲いの中にいる子どもたちは、お世話されなければうまく育たなくなってきているのかもしれません。

でも、手をかけすぎたら根腐れをおこし、手をかけなさ過ぎたら愛情不足で心が枯れてしまいます。

ちょうどいい加減がわからずに、多くの親御さんは悩んでいるのかもしれません。

 

実は、大人も、囲いがないと不安になります。

プールで泳ぐのが好きでも、海で泳ぐと怖いと感じたり。

 

ただ、「思うようにやったらいいよ」「好きな事、やりたいことをやったらいいよ」と言われても、いざとなると何をしたらいいかわからなくなったり、そうするのはいいのはわかるけど、みんなと違うことをやるのは不安。人にどう思われるか不安。やったことないことやるのは怖いし、だったら、今のままがいい。みんなと同じでいいや。

 

私達も、長年、囲いの中にいたからです。

囲いの中は安心だった。安全だった。

こうすればこうなる、という事もある程度わかっている。予測がつく世界。

でも、その分冒険がない。チャレンジがない。ドキドキやワクワクがない。

海の真ん中に漕ぎ出してみたら、すばらしく新しい世界が広がってるかもしれないけど、未知の世界は怖いんですよね。

でも、囲いからでてみたら、意外と自由で心地いいかもしれません。

 

学校の中の「ねばならない」にしばられ、塾や習い事で自由な時間が無くなり、自分の好きなことが何かすら見つけられない子供たちは、死んだような眼をしています。

本来のキラキラした目の輝きが失われている子ども達にも時々出会います。

 

いのちの躍動を!

自然の中は、いのちの躍動にあふれています。

子ども達も、本来は、いのちの躍動感にあふれています。

いのちの躍動が何かと言えば、生きているということそのもの。

 

今朝、アゲハの幼虫が羽化しました。

それはそれは美しい蝶の姿になって、外の世界へ羽ばたいていきました。

自然の織り成す姿は美しい。

 

それこそ、いのちの躍動がそこにありました。

生まれてきたいのちそのものが躍動。

 

誰が教えたわけでもなく、誰が手を貸したわけでもなく、もくもくとエサを食べ、自分でさなぎになる瞬間を決めて、さなぎを作り、いのちが熟成したその瞬間、蝶になって生まれてくる。

いのちって、神秘的です。

桑の木だって、毎年ちゃんと実をならせ、子ども達を楽しませてくれる。

私は、この、いのちの躍動を感じたい。

だから、池の中の一滴の水の中の微生物にすら感動します。

顕微鏡の中の世界には、たくさんのいのちにあふれています。

私の願いは、

いのちあるものが、

いのちの躍動をもって生きて欲しい。

ただそれだけなのかもしれません。

 

自然なままに。

自然のままに。

 

 

 

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