子どもの自然体験で大切な事

先日、子どもの自然体験活動として、川遊びをしてきました。

大人の見守りは必要ですが、小さな子でも遊べる川で、みんなで石の裏をひっくり返して、生き物探しをしたリ、水切りしたり、ばしゃばしゃしたり、寒くなったら焚き火であったまり、虫取りや草花遊び、落ち葉遊びで一日たっぷり遊びました。

私達がこんな活動をするようになったのも、「自然で遊ばせたいけど、自分一人ではどうしていいかわからない」という声がチラホラ聞かれるようになったから。

川遊びは、水の事故の心配や、安心して遊べる場所がわからないなど、特に、自然遊びの中ではハードルが高いのかもしれません。

自然で遊ばせるうえで、そういった、危険の予測や、場所選びなどのポイントの他、子どもに対して、どんな関りをしたらいいか、ということをお話ししたいと思います。

自然の中の危険を回避すること

自然で遊ぶうえで、100%安全である、ということはありません。

でもそれは、家の周りにおいても、同じことが言えます。

子どもが道路に飛び出さないか。

ポイ捨てされたたばこを食べちゃわないか。

家の周りにだって、危険なことはあります。

でも、それは、あらかじめ、道路は車がビュンビュン通るから危ないよと、手をつないで歩いたり、拾ったものを口に入れないようにとか、そばについてあげながら、話して聞かせることで、ある程度回避できるでしょう。

それでも100%安全ということはありませんよね。

最近の事故でも、歩道を歩いていたのに車が突っ込んできてしまうことだって、あるわけですから。

でも、だからといって、お散歩しに、外へ出ないなんてことはないですよね?

では、自然の中では、どんな危険があるでしょうか?

川遊びの場合、なんと言っても、水の事故です。溺れないだろうか。流されないだろうか。

それも、道路と一緒で、大人がそばについてあげていることと、あらかじめ、どこが深いか、流れの早いところはどこか、確認して、子ども達にも伝えることも大事です。

同時に、小さな子にはライフジャケットをつけるなど、もしもの時のための備えもあるといいですね。

季節や場所にもよりますが、アブや、ブヨなど、刺す虫もいることもあります。虫よけをするとか、暑い日でも、長袖を着ることも、時には必要になってきます。

そして、足回りは、しっかりかかとが固定されている靴をはくことが、ごろごろ石が動く不安定な川の中を歩くのに必要なことになってきます。

川によっては、ガラスの破片が落ちていることもあったり、裸足では入らないようにしたいものです。

そして、川遊びの場合、濡れて遊ぶことも楽しく、転んで全身びしょ濡れになるのも、いい経験です。でも、濡れたままで長時間遊んでいると、体温が急激に奪われてしまうので、濡れてしまったら、がたがた寒くなる前に着替えることも大切です。子どもは、寒くても、まだ遊びたいと思えば、大丈夫!と言って、なかなか水から上がらないものです。でも、そこは、大人の声掛けで、一度上がって着替えたり、焚き火であったまることも必要です。

起こりうる危険をある程度予測しておけば、ある程度は回避できるものです。

ただ、これもやはり、100%安全だというわけではありません。

かつて、川遊びに行ったとき、近くの草むらで次男がマムシに咬まれたことがありました。その時は、即救急車を呼んで血清を打ち、一週間入院することになりました。

ただ、それも、ホタルを捕まえようと、真っ暗な草むらに入っていったことが原因だったので、そのことがあってからは、夜の草むらにはむやみに入らないようにと声をかけています。

木登りしようと思った木に、ツタウルシが絡まっていることもあります。

登って手をかけた木が枯れ枝だったら、ぽきんと折れて落ちてしまうでしょう。

そんな危険も、自然の中にはやっぱりあります。100%安全はありません。

でも、だからと言って経験させないのは、とてももったいないことです。

木登りの危険は、葉っぱのついている枝かどうかを見てから手をかけることで、回避できます。枯れてる枝があったら、わざと折って、下に落としてしまうといいでしょう。

そうやって自分で登った高い所から見る景色は、最高です。自分で登れた誇らしさで、自信に満ちた顔をしています。高い所から見下ろす大人は小さく見え、万能感を感じたりもします。

自然の中では、とても面白いものに出会えます。自然で遊ぶと、子ども達はイキイキしています。

どれだけ遊んでも遊び足りないぐらい、まだ遊んでいたいと子どもはいいます。

危険やリスクを知った上で自然に向き合うことが、大切なんだと思います。

自然の中で遊ぶ子どもを見守ること

先日、ある記事が目にとまりました。

それは、子どもの言葉の発達の遅れを気にしていたママのお話しでした。

その子は3歳で、同い年の子より、言葉が遅かったようです。

ある時ママはハタと気づきました。

私、他のママより口数が少ない方かもしれないと。

自分の言葉がけが少ないから、子どもは話さないんじゃないかと。

ある日、子供と自然の中に行ったとき、子どもがカエルを見つけ、観察していました。

ママは、この時とばかりに、子どものそばにしゃがみ込み、「カエルだね~。このカエルはね、初めはオタマジャクシと言って、水の中の卵から生まれるの・・・。」と、カエルについて説明しはじめました。

そしたら、急に子供が「ママ!だまって!ぼくはいま、かんじてるんだ!」と、ママのおしゃべりを止めました。

このママは、このことがあってから、言葉が遅いのを気にしなくなったそうです。ゆっくりと、その子なりの成長を見守ってやろうと思えるようになったそうです。

この記事を読んだとき、まさに子どもは、自然を全身で感じているんだよな~と、改めて思ったのです。

川に入った時、「つめたい~!!」って、身がぎゅっと縮こまるような感覚を思えたり、

ひたすらばしゃばしゃしてびしょ濡れになって喜んだり、全身で感じています。

小さくたって、水を感じています。

ガサガサした枯葉の感覚や、葉っぱの中のあったかさを感じたり。

花冠作りながら、葉っぱのやわらかさや、お花のにおいを感じています。

草相撲しながら、茎の固さを確かめています。

木登りしながら、枝の広がりを感じています。

高い所から眺める景色やスリルを感じています。

一方で、どこか、木に守られているような、そんな感覚も味わっています。

全身で自然を感じ、感覚の扉を開いている子供たちのことを、せかすことなく、そっと、でも、温かいまなざしで見守ってあげたい。

そう思います。

 

センス・オブ・ワンダー

レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』の中から、紹介したい1文があります。

********************

わたしは、こどもにとっても、どのようにして子供を教育すべきか頭を悩ませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。

・・・・

美しいものを美しいと感じる感覚、

新しい物や未知なものに触れたときの感激、

思いやり、憐み、賛嘆や愛情などの様々な形の感情がひとたび呼びさまされると、次はその対象についてもっとよく知りたいと思うようになります。

そのようにして見つけ出した知識は、しっかりと身につきます。

もし、あなた自身は自然への知識をほんの少ししか持っていないと感じていたとしても、親として、たくさんの子どもにしてやることができます。

 

たとえば、子どもと一緒に空を見上げましょう。

そこには、夜明けや、黄昏の美しさがあり、流れる雲、夜空にまたたく星があります。

子どもと一緒に風の音を聞くこともできます。

それが、森を吹き渡るごうごうという声であろうと、家のひさしや、アパートの門出ひゅーひゅーいう風のコーラスであろうと。そうした音に耳を傾けているうちに、あなたの心は不思議に解き放たれていくでしょう。

雨の日には外に出て、雨に顔を打たせながら、海から空、そして地上へと姿を変えていく一滴の水の長い旅路に思いを巡らせることもできるでしょう。

あなたが都会で暮らしているとしても、公園やゴルフ場などで、あの不思議な鳥の渡りを見て、季節の移ろいを感じることもできるのです。

さらに、台所の窓辺の小さな植木鉢にまかれた一粒の趣旨さえも、芽を出し、成長していく植物の神秘について、子どもと一緒にじっくり考える機会を与えてくれるでしょう。

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私達は、周りの世界のほとんどを視覚を通して認識しています。

しかし、目にはしていながら、本当は見ていないことも多いのです。見過ごしていた美しさに目を開くことは、しばらく使っていなかった感覚を呼びさますことでもあります。目、耳、鼻、指先の感覚を、今一度、子どもと一緒に取り戻すのです。

子どもと一緒に、自然を感じることです。

一緒に、おもしろいね~!すごいね~!きれいだね~!と、感動を分かち合うのです。

生き物や植物の名前を知らなくてもいいんです。わからなければ、後で一緒に図鑑をめくって調べてみたらいいんです。

調べてみたら、例えばカゲロウだったら、大人になったらどんな虫になるのか、知りたくなったりします。知りたくなったら、さらにそういうことも調べたらいいと思うのです。

今は便利な時代ですから、検索すると、すぐに答えを得ることができます。

でも、だからこそ、なんで?どうして?これ、何なの?って、不思議に思ったことを大事にしてください。興味がわいて調べたものや、実際に探して見つけたものに対する知識は、ずっと忘れないものになるでしょう。

たとえ、そのものの名前を忘れたとしても、あそこで、あんな色の虫がいた。あんなにおいの物を見つけた。って、後々思い出して、なんだったっけ?って、もう一度調べてみたくなったりもします。

好奇心の種は、ちょっとしたきっかけで、むくむくと芽を出し、伸びていくものです。

見守られる安心感の中で育っていく

何家族かで一緒に遊んでいると、我が子じゃない子を見守ってくれる人が必ずいます。

この二人も、親子じゃないけど、気づくと、すっと、誰かが小さな子の傍らについてくれます。

あたたかいまなざしで見守る大人は、自分の子に対してだけじゃなくてもいいのです。

自分の子も、よその子も、関係なく、こんな体験ができたなら、子ども達は、安心して感覚の扉を開くことができます。

いろんな子が、わらわらと木登りしようとするそのそばには、誰かが見守っています。

どの子がどのお母さんかわからないぐらい。

抱っこされてる赤ちゃんのママは、別な人。

こうやって、みんなに見守られているから、安心してイキイキあそぶ子ども達。

時には、見守るだけじゃなく、大人はこんなにすごいんだぞ!って、本気で子どもと勝負してみたり。

ぐるぐるして~!!っていうリクエストに答えたり。

子どもが、「もうのぼれない~!」ってなったときに、どれどれ、こうやるとのぼれるぞ~って、見せたり。

時には憧れられる存在であるように、時には頼りになる存在であるように、時には横にいて一緒に寄り添ってくれる人であり、一緒に感動してくれる人として、子ども達の傍らにいたいな、と思っています。

 

 

子どもの見て見て!は、温かい目で見てあげて


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週末、子ども達のリクエストで、近所の子供たちをあちこち連れて歩くことも多いのですが、必ず、どこに行っても、「新藤さ~ん、見て見て~!!」という場面があります。

そんな時、可能な限り子ども達を見ています。すごいね、なんて言わずに、ただ笑ってみていることが多いです。

子ども達は、高学年であっても、見ててほしいようです。特別、褒めてもらいたいとか、そういうわけじゃなく、ただ、見てほしい。

暖かいまなざしを向けてほしいようです。

そこには、認めてほしいという承認欲求があります。そして、ちゃんと見てくれる人がいるという安心と、ともに一緒に過ごしてくれる人がいる、誰かと関わりたいという欲求があることを感じます。

それらの欲求をマズローの欲求5段階説といいます。

マズローの欲求5段階説

子どもが親や、周りの大人に「見て見て!」という時期は、幼いころによく見られます。

『できた!』『どう?すごいでしょ?!』『こんなことできるんだよ!』『すごくいいこと思いついたの!』

自信にあふれた子どもの「見て見て!」攻撃、皆さんも経験があるのではないでしょうか?

ほんとに「すごいね~!!」「おもしろいね!!」って思えることもあれば、大人からすると、大したことのないようなことや、くだらないな~と思えるようなことも多々あります。

でも、そのどれもが、子どもにとってはすごいことで、すごい発見で、すごく面白いことを共有したかったり、自分の思う『すごいこと』を共に共有し、共感して欲しいのです。

子どもの「見て見て!」が叶えられる状態というのは、マズローの欲求5段階説のうち、認めてほしいという承認欲求と、いつでも見守ってくれる安全欲求と、その場を共に共有、共感できる居場所としての所属と愛の欲求が満たされた状態であると言えます。

マズローの欲求5段階とは

①生理的欲求

②安全の欲求

③所属と愛の欲求

④承認欲求

⑤自己実現の欲求

で、1番から順に基本的欲求が満たされていくと、次の欲求が現れてくる、というものです。

①生理的欲求

①の生命を維持するための、食べることや、睡眠が満たされていないと、精神的にも不安定になってくるものです。

もし、お腹がすいてたら、持ってたお金を夢の実現のために使うより、食べ物を買うことに使うでしょう。

②安全の欲求

生命維持の欲求が叶えられたなら、次は、安心して暮らせる場所や、安全な事を望むようになります。健康なくらしや、経済的な安定も望むようになるでしょう。

生きていくための食べ物が満たされると、安心して暮らせる家や、金銭的な余裕を求めるようになります。

家庭の中は、安心できる場所でしょうか?「ただいま~!」と、帰ってきた時、ホッとできる場所でしょうか?

③所属と愛の欲求

安定的な土台が出来上がると、次は、集団に属したい、仲間や恋人がほしいなど、所属と愛の欲求が立ち上がります。

孤独を感じたり、仲間外れにされたりすると、不安になり、心が不安定になっていきます。

また、家庭が安らげる場所でない場合も、孤独を感じることになります。

人とつながることで、自分の存在意義を持つことができたり、自分を確立していきます。

SNSなど、インターネット上でつながりを持とうとするのも、所属と愛の欲求があるからです。

誰ともつながりを持てない孤独感は、心の土台を大きく揺らがせることでしょう。この時、「死」の一文字が頭をかすめたとしても、一線を越えるか超えないかは、その下の土台である安心できる居場所があったか?心の中に、安心、安全の基地がちゃんとあったか?というところが大きいのではないでしょうか。

④承認欲求

そうして、他者とつながりを持つようになると、こんどは、そこで、「認められたい」という欲求が出てきます。同時に、自分もやればできるんだ、というような自尊感情も承認欲求の1つです。

承認欲求が満たされることで、自分の存在価値を認め、自分に自信が持てるようになり、逆に、承認欲求が満たされないと、劣等感や無力感を持つようになります。

インスタやフェイスブックでいいねがたくさん集まるような投稿をしたい、というようなことも、承認欲求からくるものです。

⑤自己実現の欲求

①~④まで満たされると、初めて自己実現の欲求が満たされることになります。

自分の限界に挑戦したり、あるべき自分になりたい、という欲求、成長したいという欲求です。

でも、ここで、承認欲求が他者からの承認されることに依存している場合、何をやっても、認めるのは他者なので、本当に自分が満足することはありません。

ここでは、自分が自分を認めていけることが大切になってきます。

量子力学の観点から思うこと

ここでもうひとつ、違う観点から子供の「見て見て!」を考えてみたいと思います。

小難しいかもしれませんが、ここをなんとなく頭に入れておくと、ものの見方が変わってきます。

量子力学では、物質はすべて原子でできています。

そして、原子は、原子核と電子でできています。

そして、電子は波であり、その、電子の波が原子核の周りをまわっている、と考えたのが量子論です。

ところが、この電子の波の性質は、とても不思議で、見ていないときは波として広がっているのに、「見よう」としただけで、1点に収縮して発見されるというのです。

つまり、見ていないときは波として存在し、見た瞬間そこに現れる。見ようとするまでは、確定した事実は存在しないというのです。

そして、二重スリット実験によって、電子は観測者の意思により、何らかの変化がもたらされる、ということもわかっているようです

見ようとするからそこに存在し、観測者の意思により、結果が変化するというのです。

とても不思議な事ですが、どうも、量子の世界ではそういうことになっているようです。

量子論については、私もまだまだ知らないことが多すぎるので、詳しく語ることはできませんが、引き寄せの法則や、自己啓発で語られるいろいろな方法、言霊、すべて、切り口は違うけど、量子論と同じことを言っているように思うのです。

自分が発した言葉で未来が変わる。

自分が見たい世界をリアルに想い描く。

観察者(自分)の意思によって結果が変化する量子の世界。

不安を感じれば、不安に思ったことが現実になる。

自分が自分を認めることは、自分が自分の観察者であること。

自分が自分の観察者であることは、自己決定の主体性は自分であること。

他者が自分の観察者であることに依存した承認欲求は、自分が自分であることが、他者の観察にゆだねられているので、自己が確立しないということ。

思うままに書きましたが、子どもの「見て見て!」は、まだ、自己が確立していない時期の、自分という存在を確立するための大事な過程なのではないか、ということを感じます。

これは、私の感覚です。

この、「見て見て!」をないがしろにされてきた子供たちは、自分というものが揺らぎます。

他者によって、なんとか自己を確立しようと、問題行動を起こしてみたり、ウソや偽りで自分を大きく見せようとしてみたり、成長してから、異性に依存することで自己を確立しようとすることもあります。

そして、この、「見て見て!」に対する、観察者の私たちの意思も、子ども達を形作っていくのではないかということも、気を付けたいところです。

「面倒くさいな~」とおもって見ていると、その面倒くさいな~というものが子どもに影響するかもしれない、という可能性です。

可能な限り、愛のある温かい目で、子どもの「見て見て!」を見てあげられたなら、自分という存在に、自信を持っていけるのではないかと思うのです。

もちろん、面倒だな~と思うことも、私も正直あります。

でも、「見て見て!」と、行ってくれる子ども達が、かわいらしく、愛しいな、という想いは持っています。

だから、笑顔で子どもたちの見て見てに、可能な限り付き合います。

量子力学的にこうだからと、はっきりしたことは私にもわかりませんが、そういう影響もあるかもしれないということだけは、心にとどめておきたいと思うのです。

この子は育てにくい、大変な子供なんだと思って接する子供は、本当にいつも大変なことばかりやってくれますし、この子は天才かもしれない!すごいよね!って思って育てた子は、自分の能力を発揮して育っていくものです。

親の想いが、子どもに少なからず影響を与えているとしたら?

ある本で、子どもな2歳から6歳までにシータ波という脳波をたくさん出していると書いてありました。シータ波が出ている時には、よりたくさんの情報をインストールできる状態なんだとか。

その時期に、親のマイナスな思いが影響を与え、子どもの潜在意識に、自分はダメなやつだ、という情報がインストールされていたとしたら?

逆に、この時期、自信が持てるようなプラスのイメージがインストールされていたとしたら?

一度インストールされたものを書き換えるのは、大変らしいので、できることなら、この時期に、いいイメージをインストールしておきたいですよね。

とにもかくにも、「見て見て!」は大切に

ちょっぴり小難しく書きましたが、とにもかくにも、子どもが「見て見て!」と言った時は、できる限り温かい心で「すごいね~!」「面白いね~!」「ほんとだ!!」って、子どもに寄り添ってあげたいものです。

そして何より、「見て見て!」って言える大人がそばにいる環境をつくってあげたいです。

今後のはぴちる

★ちとせ小学校放課後プレーパーク(15:00~17:40)

10月いっぱいの毎週水曜まで毎週(雨天中止)

※夏休みは8/14をのぞく水曜13:00~17:40

 

★6/15㈯ 自然体験DAYキャンプ(10:00~15:00)

【内容】川遊びと焚き火 ※雨天中止

【参加費】親子(子ども一人)で2000円

    子供一人追加につき+500円

【定員】親子5組

【持ち物】川遊び用の靴又は濡れてもいい靴、着替え、タオル

おむすびなどの昼食(汁物は準備します)、虫よけ、(あれば虫網や虫かご)

 

※締め切らせていただきました

 

★7/14㈰~15㈪ 夏の冒険キャンプ(11:00集合~翌日15:00終了)

【内容】川遊び&ホタルキャンプ

【参加費】※小学生以上は子どもだけの参加もOK

DAYキャンプ・・・大人3500円、4歳以上2500円、3歳以下500円

一泊二日キャンプ… 大人7000円、4歳以上5000円、3歳以下1000円

【定員】子ども10人程度に達した時点で募集終了いたします。

※締め切らせていただきました

★7/20㈯10:00~15:00

若葉公園プレーパーク(どなたも参加無料)

 

 

友だち追加

はぴちるは、皆様からの寄付によりプレーパークの材料費や交通費をあて、活動しております。

活動費のお振込みも随時受け付けております。

今後もこのような活動を続けていくために、どうぞ、ご協力をお願いいたします。

【ゆうちょ銀行】記号18420 番号07138981

シンドウサチコ


11月に出版した私たちの本もよろしくお願いいたします。Amazonでも購入もできます。どうぞ、手に取ってごらんください。

ある日突然やってきた、悪ガキたちとのやり取りを綴った『悪ガキたちの秘密基地』。後半は、子どもたちに伝えていきたいこと、私たち夫婦の子育て、大事にしてきたこと、これからの時代を生きる子どもたちへ。そんなことが書いてあります。

アマゾンで購入された方、よろしければ、読んだらレビューを書いていただけるとうれしいです。

皆様のお声が、励みになります(*^-^*)。よろしくお願いいたします。

『悪ガキたちの秘密基地』

 

 

 

 

 

 

無条件に安らげる居場所

川崎の無差別殺傷事件の犯人の背景が徐々に明るみになった来た中で、両親の離婚後伯父の家に引き取られ、21歳から引きこもるようになってから30年、引きこもり続けていたということ。

親から得られなかった愛情。

家族として差別があったとみられる伯父の家。

他者とうまく関われなかった子供時代。

こんな痛ましい事件は二度と起きてほしくない。そう思う時、私達にできることは何だろうかと考えさせられるのです。

児童精神科医・故佐々木正美先生の言葉より

子どもの頃に十分に勉強したとはいえなくても、健全な社会人になって、立派に人生を全うしたと言える人は、数限りなくいます。

 しかし子ども時代に、友だちと十分に遊ぶ経験をもたないまま大人になってしまって、健全な社会人になることができず、ひきこもりのようになって苦しんでいる人は、非常に多くいます。

 これまでに診療や相談で、そういう人やそのご家族にどれほど出会ってきたのかは、とても一言では言い表せません。

 そして私は、そういう人たちに出会うたび、ゆっくりと時間を掛けた話合いのなかで、子ども時代の「友だち」との「遊び」が不足していた事実を、教えられてきました。

 私たち人間は、日々、人と交わりながら生きることを運命づけれた存在です。

 子どもたちは、まず家族、そして友だちや先生たちと、家庭、地域、学校などで、豊かな交流を繰り返して生きていくことが大切です。

 そのために、周囲の大人たちは熱心に、かつ本気で考えることが、今日のわが国では求められているのです。

・・・以上

 

また、佐々木正美著『完 子どもへのまなざし』の中で紹介されている神谷信之さんという弁護士の方が書いた『犯した罪に向き合うこと』という本の中の引用が心に残ります。

「重罪事件の少年の家族を見ていると、これらの少年たちは、自分の本当の<居場所>を持たず、自分の中にため込まれた負のエネルギーに突き動かされて人を死に至らしめたという感が深い。これらの少年に<居場所>があったら、事態は相当変化していたのではなかと考える。」

逆説的に考えると、家庭の中にやすらぎの居場所をしっかり持てるような育児ができれば、不幸な犯罪を犯してしまう子供にはならない。これだけは事実のようです。

・・・以上

家庭が安心できる本当の居場所であったら一番いいのだけれど、そうではない家庭の子どももいるのが現状のようで、それであっても、第二第三の<居場所>として、友達であったり、地域というような、無条件で自分を受け入れてもらえる、無条件に安らげる<居場所>があったなら、今回のような痛ましい事件にまで発展することはなかったのかもしれないと思うのです。

子どもが育つには順序がある

エリクソンのライフサイクル・モデルというものがあります。

健康で幸福に生きていくためには、人生の節目節目に解決しなければならない重要な課題があると言っています。

乳児期・幼児期・学童期・青年期・成人期・壮年期・老年期という節目節目に、解決しなければならない発達段階とは何でしょうか?

それぞれの発達段階をその時期に解決しないまま大きくなり、社会に適応できずに苦しむ子も多くいます。

不登校や引きこもりになってしまう子供の多くが、子どもの時の課題が未解決なままで苦しんでいるのではないかというのです。

それぞれの時期の解決すべき課題とは何か、今回は、学童期までの子どもについて述べていきたいと思います。

<乳児期:基本的信頼関係>

赤ちゃんは、お母さんから与えられる愛情に安心すると、お母さんとの関係の中に安全感を抱きますそして、その安全感をベースに、心理的安全空間をつくります

お母さんとの愛情に安心して安全感を持った子供は、お母さんから多少離れても不安を感じないで他の人と交われるようになります。

泣いたらお母さんに抱っこしてもらえる。すぐにおっぱいがもらえて、おむつを取り替えてもらえる。赤ちゃんが望むように育てられることで、生きる希望が湧いてくるのです。

最初に出会ったお母さんをはじめ、何人かの人に、自分が望むように愛された子供は、人を信じることができるのです。人を信じることができて初めて自分を信じることができるのです。

親が望むような子供にしようとするのではなく、子どもがしてほしいことをするのです。

夜泣きしない赤ちゃんになってほしい。離乳食をちゃんと食べる赤ちゃんになってほしい。おむつを汚さない赤ちゃんになってほしい。

そういう感情が強いと、時に思い通りにならなくなると、虐待にまで至ってしまうこともあります。

この、基本的信頼感は、3歳ぐらいまで持続して発達しますので、乳児期は、その子が喜ぶことをぜひたくさんやってあげて下さい。

そして、お父さん、お母さんを通して、おじいちゃんおばあちゃんを通して、親が周りと親しい交わりをしている、信頼を寄せている人の中で育てられる、そういう人たちの中で育てられた子どもは、多くの人を信じることができるようになります。

そして、動き出した赤ちゃんは、あちこち動き回り、未知のものに手を伸ばします。そのとき、振り向くとお母さんの顔があり、「だめよ」「イタイイタイするよ」とか、「あっちっちだよ」と言うように声をかけてくれます。

このように、振り返ったときに自分のことを守ってくれるお母さんが見守ってくれている安心感があることで、恐れや不安の感情は振り払らわれるのです。

振り向いた時にお母さんがいなかった、という経験を繰り返してしまうと、幼い赤ちゃんであっても、「見捨てられるかもしれない」という感情を抱いてしまうそうです。

<幼児期は自律性>(2~4歳くらい)

自立ではなく自律です。自分を律することができる。自分の感情や衝動のコントロールする力を身に着ける時期が幼児期です。だいたい、幼稚園に入る前後くらいまでに育つ力です。

普段のしつけのなかで、「そんなことをしてはいけませんよ」「そういうことはがまんしなくてはね」「ご飯の前には手を洗って」「おしっこやうんちはここでするんですよ」というようなことを、一つ一つ教えていきます。

ところが、この時期の子どもは、教えられたからすぐにその通りできるわけではなく、失敗したり、うまくいかなかったりしながら、何度でも教え、何度でも手伝う必要があります。保育園などでも、友達と仲良くできないなど、手のかかる子もいますが、「こういうことは我慢しなくてはいけませんよ」というように、根気よく、繰り返し繰り返し言っていくていくことが、衝動や欲望をコントロールする力を育てていきます。

乳児期の基本的な信頼感を持てるような関りを続けながら、子どもの存在を否定することなく、大切なことを伝えているのだよというスタンスで、伝えていくことが大事です。

<児童期は、遊びを通して育つ自主性>(4~7歳ぐらい)

好奇心旺盛で、絶えず動き回り、いたずらにしか見えないことをします。でも、子供たちにとっては、好奇心や探求心を満たすことであり、その過程は、自主性を促す重要な活動です。

自主性とは、子どもが遊びの中で育てるものです。

絶えず創意工夫し、昨日できなかったことを今日こそはできるようになりたいという積極的な遊びです。

木登りできなかった子が、大きい子がのぼるのを見て、自分ものぼってみたいと挑戦する、そんな、自分がやってみたい、挑戦したいからやるというような、積極的な遊びです。

雨の日に、長靴で深い水たまりに入って、長靴の中に水が入ってしまったり、水が入った長靴が、ぐちゃぐちゃ、ぶかぶかするのを面白がるといったこともします。

いたずら遊びをして、しかられても、また同じことをして、ご近所に迷惑をかけてしまうこともあります。そんなときも、親が、「ごめんなさい」と、あやまって歩いてあげたらいいのです。

この子は、面白いことをやってきたんだと、面白がってあげられたら一番いいですね。

「幼児期から、小学校低学年までの様々な遊びは、人間が成長していく過程で、倫理観とか、道徳観、社会的な人格を成長させていくうえで必要不可欠である」と、心理学者レゴ・ヴィゴッキーは書いています。

<学童期~学び合い、教えあうことで育つ勤勉性>

「小学校時代の過ごし方によって、将来、社会人として勤勉に生きていくことができるかどうかを決定的に左右するものがあります」と、エリクソンはいいます。

勤勉せいというとピンと来ないかも知れませんが、要は、社会のルールを守り、社会的役割、責任を果たしながら生きていく力のことを言います。

小学校時代に仲間と日々の体験を分かち合いながら、友達から学び、時には友達にものを教えるというような豊かな体験が、勤勉性の基盤になります。

大人になり、職場で仲間からものを学んだり、仲間にものを教えたりする場面がやって来たとき、小学校時代に友達と遊び会う経験をしてこなかった子は、そういうコミュニケーションがうまくとれない、ということになってきます。

友達と遊びあうなかで、教えたり、教えられたりということは、子供にとって大きな喜びです。

そして、友達と遊びあうとき、必ずルールを作ります。

足の遅い子でも不利にならないルールとか、より、みんなが楽しく遊べるルールを考え、友達に承認されながら、遊びを作り上げていきます。

相手を大切に思いあう感情は、こういう友達との遊びの中で育まれます。

まとめ

以上、乳児期から学童期までに必要な発達課題を見てきましたが、こういうことを抜かしたり、飛ばしたり、先送りすると、社会的人格が育たないままの大人になり、社会に適応できずに苦しんだり、精神的に病んだりしてしまう傾向があります。

人生の第一歩として、ひとを信じる力が備わります。基本的信頼です。

人を信じることが、自分を信じることになります。人を信じないのに、自分に自信をもって生きることは難しいのです。

人生の第一歩に、信じられる人に出会う必要があります。お母さんをはじめ、多くの信じられる人に出会って、基本的信頼感を得たあとは、小学校にはいるまでに、遊びを通して自律性や自主性を身につけます。そして、学校にいくようになると、友達と遊び会うなかで、学びあい、勤勉なものを習得できる準備が整うのです。

何か、社会的な不適応があったとき、振り返り、どこか、飛ばしてしまった発達課題はないか、考え、まずは、その発達課題にたち戻る必要があります。

基本的信頼感を根っこに持てていない子は、まずは、何歳になっていたとしても、その子が望むように愛される必要があります。

短い時間でも構わないので、膝にのせてえ本を読んであげたり、添い寝したり、子どもを受け入れてあげる必要があります。

子供が喜ぶことをしてあげる。

それが、親にとっても喜びであるように。

根っこを育ててあげなければなりません。

だから、私たちが、今回の事件から学ぶことは、犯人を責め立てることではなく、身近な子ども達の、基本的信頼感を育ててあげることであり、友達同士遊びあい、学び会うことができる環境を作ってあげることではないだろうかと、私は思うのです。

プレーパークで大事にしている、子供がやりたいと思ったことを、自由にできる環境であったり、子どもを信頼して見守る大人に出会うことだったり、まだまだ、私たちにできることはあるのではないかと思っています。

乳児期から学童期までに獲得しなければならない発達課題をクリアできる環境を作ってあげたいと思っています。

だから私は、子ども達が無条件で安心できる居場所を作っていきたいし、そういう場所であり続けたいと思っています。

出会った子ども達が、幸せな未来を生きられるように。