すべてのいのちにリスペクトを

先日、グレートジャーニーの関野吉晴さんの新作映画「うんこと死体の復権」が、青森県立美術館で無料上映ということで、行ってきました。

ざっくり言うと、うんこと死体に集まる小さな虫たちを通して、いのちの循環を追っていく、そんな映画でした。

始終新鮮なうんこの映像が、4Kスクリーンに映し出されるという、衝撃的?な映画ですが、うっかり最後の言葉で、涙が。

うんこの映画で、泣くとは思いませんでした(笑)

と、いうのも、直前に、県美の展示で、おじいちゃんと孫の写真を見ていたら、じいちゃんのことを思い出して泣けてしまい、そのことと、映画のラストの言葉が重なって、うるっときてしまったわけで。

いのちの循環。

すべてのいのちがつながっていること。

孫の世代に何を残せるか。

じいちゃんばあちゃんに大事にされながら、つながってきたいのち。

あたたかい記憶。

すべてのいのちにリスペクトする想い。

確実に、何かが心のなかでうごめいています。

でも、きっと、うんこの映画で涙が出たのは、私ぐらいじゃないかと思います。

すべてのいのちが大切にされた縄文時代

この映画をみて、私の中から湧き上がってきた言葉は、

『すべてのいのちにリスペクトを』です。

この春、縄文の話を聞きたいという方とともに、櫛引八幡の春季大祭にを見学させていただきながら、奉納される舞やお囃子を聴き、是川遺跡にも行ってきました。

長い長い間、五穀豊穣を願い、豊かな食べ物をいただけることに感謝し、これからも子々孫々が食べ物に困らぬように願い、神様に喜んでいただけるように、舞い、歌い、楽器を奏でてきたのだろうなと思ったのでした。

もしかしたら、縄文の人々も、いのちがつながることを願い、同じように、食べ物に困ることがないようにと、歌い、踊ってきたのではないかと。

縄文の人々は円環思想を持ち、大切な人の死から、いのちの再生を願い、太陽や月を眺め、祈ってきたのではないかと思っています。

いのちをつなぐことこそが、一番の関心事で、

季節に応じて、春は山菜や魚や貝を中心に食べ、夏は海で漁をし、魚や貝を中心に食べる。秋になると、再び山で採れる木の実や、川を遡上してくるサケを食べ、冬になると狩りをして動物をとる。

季節に応じて変化する食料資源を、長期保存できるように加工しながら、次の巡る季節を待ち望む。一日に狩猟採集時間は2~3時間程度と言われ、それ以外の時間を、石器や土器、布を作る、保存食をつくるなど、クリエイティブな時間に充てていたのではないかと言われています。

年がら年中、必死に狩猟採集し、取りつくしたわけではなく、自分達が食べられる分、集落でみんなで分け合って食べられる分だけ採り、次の季節までみんなで食べられるように保存、貯蔵する。

豊かな食べ物を育んでくれる、豊かな森と豊かな海や川があり、成り立ついのち。

森で生きるいのち。

海や川で生きるいのち。

それらを育む水。

すべてのいのちにリスペクトしている世界。

いのちを生み出す女性が大切にされ、みんなで新しいいのちを慈しみ、育てた時代です。

縄文からいのちを考える

縄文時代のお墓を見たときに、いろんな埋葬の仕方があるのですが、

遺体を一度土葬して、再びその墓を掘って骨を取り出し、それを甕形かめがた土器に入れて再埋葬するもので、考古学ではそのように埋葬された墓を、『再葬土器棺墓さいそうどきかんぼ』という埋葬の仕方があります。

『再葬土器棺墓』は、土器を母親の胎内に見立て、人骨を胎児の姿勢に組み立てて再埋葬していることから、縄文人が、死者の再生を希求した行為という説や、石を抱かせて埋葬しているものもあることから、死者の魂がよみがえり、悪さをするのを恐れてのことではないかという説もあるようです。

ですが、肉体を一旦土に還し、骨だけを土器に入れて再埋葬するというのは、やはり、いのちの循環を願ってのことではないかと、私は思うのです。あくまでも、私見です。

特に、子どもの遺体は、それ用の土器に収め、住居の入口の下に埋葬されたものが見つかっています。甕は子宮、女性が入口をまたぐことで、子どもの魂が再び女性に宿ることを願っての埋葬の形ではないかと思っています。

冒頭に紹介した、『うんこと死体の復権』という映画で描かれているのは、一見、汚いもの、忌み嫌われるものに集まる小さな命が、それらを土に還していく様子や、それらによって育まれる、小さな命から、野生動物、そして、それらを栄養に芽生えていく木々まで、すべてがつながりをもっていることです。

『縄文』と『うんこと死体』。

一見、関係なさそうな話なのですが、『循環するいのち』というところでつながるのです。

縄文時代から、ずっとずーと、つながってきたいのちがあって、私がある。

おじいちゃんに大事にされてきた私の中のあたたかい記憶が、

ふと、どの時代でも、こうやってあたたかく育まれてきたいのちが、

つながってきて今にあるのだなと感じます。

いのちを支えてくれた豊かな自然、豊かな水がある。

そして、すべてのいのちに対するリスペクト。

死と再生を願い、月や太陽を眺めた縄文人

子どもたちのいのちはリスペクトされているか

羽化に失敗して死んでしまったトンボ

そう思ったとき、今の時代は、ずいぶん自然から切り離されてしまったなと感じます。

排泄物は、目に触れぬように水で流され、死を目撃することもずいぶん少なくなりました。

身近なところでは、おじいちゃんおばあちゃんの死。

子どもたちにとっては、虫やペットの死。

 

小さな虫の死は、いのちが土に還るのを目撃するチャンスなのですが、

虫は気持ち悪い者。不快なものとして、殺虫剤で殺されたり、たたいて殺されたりしますよね。死を悼む存在ではなくなってしまいました。

死を悼み、感じることは、生を感じること。

そこが抜け落ちてしまったがために、自然と切り離されてしまったのではなかと思っています。

 

自然は人間の都合のいいようにコントロールされたもののみ許容され、コントロールできない自然は、コントロール可能なように作り替えられてきたのが現代のように思います。

本来、自然はコントロール不能なものです。

豊かな食べ物と水といのちを育むものである代わりに、ときには荒ぶり、すべてを飲み込み破壊してしまう一面もある。

だからこそ、人は感謝し、祈りつづけてきたはずです。

今日も無事に生きられたことに感謝してきた。

今日を生きるいのちが、喜びであふれる姿に歓喜してきた。

子どもたちは、自然そのものです。

人間は本来自然の一部であり、子どもたちは、今を歓喜して生きています。

 

私たちは、子どもたちの目の輝きを奪っていないだろうか。

今、喜びを感じ、笑い転げ、走り回り、いのちを躍動させている、

そんな子どもの時間を、大人の都合で奪っていないだろうか。

将来を心配するあまり、今の子どものいのちの輝きを押さえつけていないだろうか。

言うことを聞かない子どもにイライラしてしまうことは、あるでしょう。

私も、まったくないとは言いません。

でも、「自然は、美しく素晴らしいもの出る半面、コントロール不能なものである」ということも、私は知っています。

彼らの本来のエネルギーは、はかり知れません。

子どもをコントロールとするのは、大自然に抗うことと同じです。

押さえつけたら、溢れます。

溢れないようにと、固めすぎれば、自然は死んでしまいます。

どうか、子どもたちは、自然の一部、自然からの贈り物だと、

そのいのちをリスペクトして欲しい。

子どものいのちが輝き続けられるように。

 

 

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