息ができない

昨日、『みんなの学校』の木村泰子さんのお話を聞いてきました。

冒頭で、「学校という牢獄」というこどもの声を紹介してくれました。

子どもから聞こえる声に、私たち大人はどう向き合ったらいいのでしょうか。

学校という牢獄に通うということ

木村泰子さんが紹介してくれた子どもの文です。

学校という牢獄に通うということ
何も悪いことをしていないのに刑務所行きだと言われること
「みんなと同じようにして学校にいなさい」
ほとんどの人にとって学校が刑務所でないからこそ気軽に言えること
当事者からするとありのままの自分を真っ向から否定される場所
「人に迷惑をかけるな」「周りと同じようにしなさい」
ありのままの自分でいることの罪を償えと言われているような、暗くて重いプレッシャーを背負いながら、学校に通い続けることがどれだけ難しいか
そのストレスはなにも学校に行かなくなったからといって消えるものでもなく
一人一人の意識から変わっていかないと、しんどい子はいなくならないと思う

 2022.11.20 「のあ」 

『そのストレスはなにも学校に行かなくなったからといって消えるものでもなく』という一文が胸に刺さります。

息ができない

今、『こどもを野に放て! AI時代に活きる知性の育て方 』という本を読んでいます。

登山アプリ「YAMAP」CEOの春山慶彦が、解剖学者の養老孟司、生命誌研究者の中村桂子、小説家・詩人の池澤夏樹の各氏と対談している本です。

その中の、中村桂子さんとの対話で、『「へんてこ」「無駄」「弱さ」があるから生きていける』という章があります。

「合理的に効率よくやろうとしていたら、生きものはとうの昔に消えていたと思います。それから、一つの価値基準で競争させて、いいものだけを残そうとしていたら、やはり消えていたでしょう。矛盾を組み込んで、『何でもあり』でやってきたからこそ、生きものは続いてきた」──中村桂子

多様であるからこそ、合理的で、効率的でなかったからこそ、変化に対応し、いのちをつないでこれた。

果たして、大人は、学校は、社会は、「へんてこ」「無駄」「弱さ」を認めてくれてるでしょうか?

みんなと違うと排除される学校。

無駄なことをしていると怒られる学校や家庭。

みんなに迷惑をかけず、みんなと同じであることを求められる学校や社会。

同調圧力で言いたいことが言えなくなる学校。

弱い者は、頑張れと言われる。

息苦しそうな子供たち。

 

私は、顕微鏡で微生物の世界をのぞくのが大好きです。

スポイトで吸った水を、一滴、スライドガラスの上に垂らします。

 

その一滴の水の中に、ふよふよと一生懸命生きている命があります。

でも、水が多いと、動き回って、視野から外れていくので、観察しづらいんです。

だから、あまり動き回れないように、余分な水分を吸い取って、動きを封じます。

ミジンコだったらミジンコが、ぎりぎり生きていける水をちょっとだけ残して、泳ぎまわれないようにするんです。

そうやってコントロールすれば、観察しやすく、かつ、かわいいその姿を堪能することができます。

でも、ミジンコにとっては、生き殺しです。動けないけど生かされてる。

うっかり、油断してると、そのちょっぴりの水が干上がって、ミジンコも死んでしまいます。

ミジンコには申し訳ない。

もちろん、観察を終えたら、干からびないうちに、ちゃんと水に戻してあげるけれど。

 

なんだか、息苦しいと言っている子どもたちのようだなと思います。

 

自由にさせると何をするか分からない。

どこに行くか分からない。

だから、自分の手中で子どもたちが何をしてるかわかるように、外れていかないように、人に迷惑をかけないように、大人が安心するためだけに、コントロールされ、行動を制限され、自由を禁じられ、ちょっぴり許された、かろうじて息ができる程度の自由だけを与えられ、飼い殺しの状態で、息も絶え絶えな子ども達。

ならば、少しでも息がしやすいところを求めて、家にとどまる選択をする。

家の中にも息が吸える空間がなければ、部屋の中に閉じこもってしまうのではないのかなと。

それは、生きるため。

 

息が吸える。

息が吐けなければ息は吸えない。

息を吐くためには、しゃべって、笑う。

喋れない、笑えないところでは息は吸えない。

 

目の前の子どもたちは、思いっきり息が吸えているだろうか。

問い直しの主語は自分

息が吸えない子どもたちが、息が吸えるようにするためにどうしたらいいのだろう?

息が吸いやすい空気って、どんな空気?

安心できる場所ってどんな場所だろう?

弱音を吐ける?

失敗が許される?

全ての子どもたちが安心して学べる学校ってどんな学校?

そういうことを、誰かがやってくれないかとただ待つのではなく、

自分事として、自分だったら、そのために何ができる?と、自分に問い続ける。

問い直しの主語は自分です。

自分が、子どもの周りに、安心して息ができる空気をどうしたら作っていけるだろうかと問い、こうすればいいんじゃないかと思うやり方を試していくこと。

これが絶対という答えはきっとありません。

試した結果、その子が笑えるようになったなら、それは、その子にとって、きっと有効な方法でしょう。

でも、この子に有効であったとしても、あの子に有効かどうかは分かりません。

BE THE PLAYER!

誰かのせいにせず、自分を主語に、自分事として考えてみませんか?

自分の窓を増やす

最近、ふと、NHKの高校講座の英語コミュニケーションを見ました。

その中で、「なぜ英語を勉強しなければならないんですか?」と聞かれたら、なんて答えるんですか?という問いに、

「日常過ごしている部屋は日本語の窓があります。そこからは美しい山の景色が見えるんです。でももし、後ろの壁に英語の窓があったとしたらどうでしょう?英語の窓からは、美しい海の景色が見えるのかもしれませんよね。」

「新しい世界が広がって見える窓をつくるのが、英語を勉強する意味なんですね」

という会話がありました。

ああ、すごくいい表現だな~と思ったのです。

英語はものすごく苦手だけど、英語に限らず、いろんな窓を持ちたいな~と思いました。

小さな窓から見える景色

よく、「妊娠すると、妊婦さんが急に目に入るようになる」と言います。

それまで、同じように生活していても見えなかった(全然気が付かなかった)妊婦さんが、妊娠したことがわかったとたん、ここにも妊婦さん、あの人も妊婦さん、あれ?こんなに妊婦さんいたんだ~!と気が付くんですよね。

前は、それをアンテナが立つと表現していました。

アンテナが立った途端、受信できるようになるんですよね。

アンテナは窓でもあります。

人間は、きっと、一度にたくさんの情報を処理しきれないから、窓を狭めて物事を見るようになっているのではないかと思います。

五感から入る様々な情報を、自分の日常でよく使う感覚、必要になる情報に限って受信できるように、あらかじめ窓を小さくして、方向を絞り、必要な情報を素早くキャッチできるようになっているのかなと。

膨大な情報の中から、自分に必要な情報を取捨選択するのって、時間がかかるでしょうから。

でも、一方で、狭めた小さな窓から見える景色が、自分の知っている世界で、それが世界のすべてだと思ってしまうようなところがあるのではないでしょうか。

たくさんの窓

春になると、ヨモギがたくさん生えてきます。

ヨモギがどんな葉っぱなのかを認識していなければ、散歩していても、まったく気づかないのですが、一度誰かとヨモギを摘んでヨモギ餅を作ったりする経験をすると、とたんに、

あ!あそこにもヨモギあったんだ!

なんだ、ここにもあるじゃないかと、ヨモギがやたらと目につくようになるんです。

自分の見えてる世界と、他の人に見えてる世界は違うのかもしれません。

そう思うと、他の人にはどんな世界が見えているのか、知りたくなってきます。

同じ景色を見ていながらも、自分がまだ知らない美味しいもの、楽しい事、素敵な世界を見ている人が、絶対周りに入るんです。

そんなたくさんの窓から、世界を見てみたいと思いませんか?

最初は、障子に指先で開けた小さな穴から覗いてみてもいいんです。

あれ?どうやら、こっちの窓からは、違う景色が見えてそうだぞ。って、気づくことが大事なんです。

そのうち、プスプスとたくさん開けた障子の穴から、自分が見たい景色の穴をもうちょっと広げてみるんです。そしたら、その穴の向こう側にいた人と仲良くなれるかもしれません。

例えば、障がいを抱えている人たちや、マイノリティの人たちは、分厚い壁で囲まれて、私達から見えないので、社会の中で、まるでいないかのように扱われてしまっていたのではないかと思うのです。

私たちがバスやタクシーに乗る時、何も不便を感じていないとしても、障がいのある方は、何日か前に予約しないとバスに乗れないとか、不便さを強いられているとか。

左利きの人にとって、世の中のすべての道具が右利き用になっているから、はさみが使いづらいとか、お玉が右利き用ばかりなので汁物をよそいづらいとか。

そういう不便が多々あるということを、その世界に通じる窓があるだけで、気遣うことができると思うのです。

ベビーカーを押して街を歩いてみて、ちょっとした段差に苦労したり、公共の乗り物に乗る時に苦労したりして、初めて、障がいのある方に対する窓の穴が開きます。

たくさんの窓を持つことで、世界は、自分が今まで知ってた世界より、意外ともっとずっと広いのだと思うことができるのではないでしょうか。そして、今まで知らなかった世界の人と話してみると、きっと自分の世界の見方が、がらりと変わるかもしれないのです。

自分の窓

私の窓にはなにがみえてるかな?

たまに自分の見えてる世界をちょっと遠くから眺めてみるといいかもしれません。

小中高と、子どもだった頃の私は、家と学校の世界しか知りませんでした。

大学に入って、探検部に入ったことで、自然に対する窓が大きく開かれました。

大学で学んだことで、農学部だったので、農業という窓も、ちょっぴり開きました。

結婚して子どもが生まれたことで、子どもの世界への窓が開き、

いつしか、「自然」と「子ども」の窓がつながりました。

最近は、教育の世界に関わるようになり、「学校」「教育」という窓がひらきました。

最近は、子どもの教育について考える日々です。

主人が町内会に関わりだしたことで、「地域」の窓が開かれつつあります。

地域と関わりながら、「子ども」と「地域」をつなぎたいと活動してます。

姪っ子が障がいを抱えていることもあり、「障がい」に対する窓も、まだまだ小さい小さい窓ですが、開いています。でも、まだまだ知らないことばかりです。

そしてきっと、まだまだ知らない世界の窓があるんです。

知らないのだということを自覚した上で、次はどの窓を開いてみようかと思いながら世界を見ています。

多様な視点で、たくさんの窓から世界を見ることができたなら、世界はもうちょっとやさしくなるんじゃないかと思います。

 

余白が大事


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子ども達を見ていて思います。

みんな、忙しそうだな~、と。

プレーパークやってたオンシーズン。

一週間に一度の校庭のプレーパークめがけて、

走ってランドセル家に置いてきて、

走って校庭にやってくる子もたくさんいました。

中には、プレーパークに集まる子を横目に、

「いいな~。オレ、今日塾・・・」

と言いながら、とぼとぼ帰っていく子もいました。

ああ、子どもたちに選ぶ自由があったらな。

『ほぼ日の学校』というアプリで、『不便益』の川上浩司さんのお話を聞きました。

ちょっと面白い発想だったので、息子に話したら、

中学の国語の教科書で『不便益』をやったよというのでびっくり!

今の教科書に、そういうことが載ってるんだ~!なかなかやるな~と思ったのでした。

不便益とは、不便の益 (benefit of inconvenience) 。
便利とは,手間がかからず,頭を使わなくても良いことだとします。そうすると、不便で良かった事や、不便じゃなくちゃダメなことが、色々と見えてきます。

ということで、不便なことの方が実は人間にとっていいことって、結構あるのではないか?と思ったわけです。

一見無駄に見えることや、無駄に思える時間にこそ、私たちの心を豊かにしたり、生き生きと生きるヒントが隠されて言うのではないかと思ったのです。

そのためには、一見、無駄な時間を過ごすための、余白が必要なんだと思うのです。

子どもの権利条約

余白の話の前に、子どもの権利について、ちょっとだけ。

子どもの権利条約の一部を見てみましょう。

3条

国やおとなから、その子どもにとって最も良いことを優先ゆうせんして考えてもらう権利けんりがあります。

12条

自分に関わるすべてのことについて意見をかれ、その意思いしを大切にされる権利けんりがあります。

31条

子どもには、休む権利けんり、自由な時間を持つ権利、遊ぶ権利があり、文化的・芸術的げいじゅつてきな活動に十分に参加する権利があります。

42条

おとなだけでなく子どもも、「子どもの権利条約けんりじょうやく」を知る権利があります。

こちらのサイトが比較的わかりやすいので、ぜひ、目を通してみてくださいね。

子どもの権利条約 | こどものケンリ | おやこのミカタ (savechildren.or.jp)

子どもたちは、遊ぶ自由を保障されてますか?

子どもたちは、ゆっくり休むことができてるでしょうか?

大人が与えたプログラムを、必死にこなす毎日になっていないでしょうか?

高校生や、大学生になって、進路の選択を迫られたときに、

自分の好きなこと、やりたいことが分からない、という子が多くいます。

そもそも、それまでに、好きなことに好きなだけ打ち込める時間はあったでしょうか?

3条の「その子どもにとって最も良いこと」は、果たして子どもの意見を聞いているでしょうか?

子どものためにと、次々と積み上げられた「その子のために良いこと」で、

その子の時間は、いっぱいいっぱいになっていないでしょうか?

子どもの時間に、余白はあるでしょうか?

自由に過ごす時間はあるでしょうか?

余白が必要です

車を運転する方は知っていると思いますが、車のブレーキには、「あそび」があります。

ブレーキを踏んだ時にガクンと急に効きすぎることがないように、ゆとりがあることで、より安全性が高まると言われています。

でも、あそびが多すぎると、ブレーキが利かなくて困るのですが。

人や、仕事も、同じことが言えるのではないかと思っています。

仕事をスケジュールいっぱいに詰め込んで、余裕がない生活、

分刻みの忙しさで休みがない日が続くと、

そのうち、体が悲鳴を上げて急停止してしまうということを

経験したことのある方もいるのではないでしょうか。

時間的、精神的にゆとりがないと、イライラしたり、

自分のやらなければならないことで頭がいっぱいで、人の話を聞けなくなったり、

その結果、そのイライラを周りにいる人、特に弱い存在に向けてしまうということが

往々にしてあると思うのです。

人も、車も、あそびが必要です。

ある程度のすき間があるから、違う考えを受け入れる余裕があるだろうし、

違う人の意見を取り入れて、よりよい方に、新しい道を見つけることもできると思うのです。

余白を楽しむ

そんな私も、いろんな方から、忙しそうよね~と、よく言われるのですが、

実は、ちゃんとスケジュールを入れない日や、何もない時間を作っています。

余白の時間に、本を読んだり、ドラマを見たり、

コツコツ作りたいものを作ったりしています。

今年もいろいろ作りましたよ。

夏に飼っていた蚕の繭から糸を紡いで

庭に自生していた茜の根っこを掘り上げ、紡いだ糸を茜染め。

うちにあるのは簡易な卓上織機ですが、機織りして

一枚の布に仕上がりました。

秋口には、種をまいて育てた藍の生葉でも染めてみました。

今年ハマったのは刺し子。急にやりたくなって、南部菱刺しに挑戦。

おにぎりを入れる籠の角に穴があいてしまったので、こちらはこぎん刺しで補強。

ちょっと不格好ですが、初めてなので、自分では満足。

今年の夏は暑すぎて、台所で足元を冷やしたくて、簡単な冷風機も作ってみました。

これは、モバイルバッテリーをミニソーラーパネルで充電した電気をためて使うので、電気代はゼロ円!そして、冷たい風がでて、今年一番作ってよかったものです。

何にもない休日は、焚火でゆっくり調理する時間も大好きな時間です。

紫根を漬け込んだオイルがたくさん余っていたので、クリームを作ったり。

暇な時間さえあれば、今日は何しようかな~と考える時間も楽しくて。

でも、それにはやっぱり、余白の時間がないとダメなんですよね。

やらなきゃいけないこともいっぱいあったりはするのですが、

そんな時に、今やらなくてもいいのに!というようなことが

やりたくなっちゃうものです。

現実逃避とも言います(笑)

ただ、そうやって、自分を満たす時間があれば、

ちゃんと、気分を新たに、やらなければならなかったことに取り組めたり、

ボーっとしていた、ふとした瞬間に、いいアイディアが浮かんだりするものです。

いっぱいいっぱいになってるときは、生産性が上がりませんよね。

子どもたちも同じで、余白があったら、いろんなことを考えます。

何をしようかな。

いいこと考えた!

子どもたちの、この、『いいこと考えた!』の瞬間に出あえることは、

とっても幸せな瞬間です。

『いいこと考えた!』って子どもが言えるような、

そんな時間が、すべての子どもたちにありますように。

子ども時代に挑戦してますか?

このブログでは、とにかく、子どもたちにリアルな体験を!

自由な時間が必要。遊びが大事!

そういうことを伝え続けてきました。

遊びの本質は、これやったらどうなるんだろう?

これをやったら面白いかな?

そういうドキドキとワクワクであると思っています。

知らない世界は「怖い」

子どもたちは、地域の自然の中で遊んでいますか?

そして、どのぐらい地域のことを知っているでしょうか?

 

どんな生き物がいる?

どんな花が咲いてる?

空気のにおいは分かる?

鳥は鳴いてる?

虫の声が聞こえる?

季節の巡りを感じられる?

田んぼの水はあったかい?冷たい?

川の水は、田んぼの水とどう違う?

庭や近所の草むらと、野山では見つけられる生き物に違いがある?

生き物がたくさんいるところはどんな場所?

食べられる植物、木の実を知ってる?

子どもたちは、そういうことが体験的にわかってくるぐらい、外で遊んでいるでしょうか?

身近な自然に触れ、自分の住んでいる地域が、どんな環境なのか。

心地いいのか。

危険なのか。

そういうことを、体で感じていくことが、生物として必要な感覚なのではないかと思っています。

子どもが発達する段階として、まず初めに五感で感じます。

見る

触る

なめる

匂いをかぐ

音を聞く

五感の中で使える感覚全てを動員して、自分が生きる世界は、心地いいのか、身の危険があるところなのかを感じ取っていきます。

さわったり、なめたりしながら、快か不快かを感じていきます。

最初は、ただただ五感で感じる時期です。

かたい、柔らかい、チクチク、ザラザラ、軽い、重い、冷たい、熱い、甘、辛い・・・など。

熱いものを触った時、お母さんが、「あ、あっちっちだね~。」という言葉がけをすると、感覚と言葉が結びついていくわけです。

そして、握る、振る、落とす、たたく、かじるなど、動作を表す言葉も同時に、お母さんの声掛けから覚えていきます。

体を使った感覚が、すべての根底にあります。

そして、人は、経験していないことを「怖い」と感じます。

それは、未知の世界にどんな危険があるかもしれない、危険から身を守るための本能です。

小さなころから草原で遊び、虫や生き物たちと触れ合ってきた子は、虫が出てきてもあまり「怖い」とは思いません。むしろ、コンクリートや、塀で囲まれた清潔な空間の中しか知らない子は、予測不能な動きをする虫が「怖い」と感じる傾向があると思います。

知らないものは怖いのです。

でも、それがどんな動きをするのか、刺すのか、刺さないのか、危険はないのかがわかっていれば、怖くないんです。

未知のことへの挑戦

昨年の秋、子どもたちがカナヘビを捕まえてきました。

実際捕まえてみて、カナヘビは噛まない。比較的おとなしい。

そして、案外かわいい。

私も、カナヘビを飼うのは初めてだったので、まずは、何を食べるのか、図鑑を見ました。

クモ、ミミズ、バッタ、コオロギなんかを食べるようだと分かりました。

子どもたちも、寒くなる前は、毎日草原で餌取りし、あげる日々。

クモは嫌いだという子もいるけれど、カナヘビのご飯だと思うと、嫌な顔一つしないでせっせとクモをとってきてくれていました。

でも、あげてすぐ食いつくエサと、中に入れててもちっとも食べないエサがあるんですね。

どうも好みがあるらしい。

そして、三匹いるけど、それぞれ、よく食べる奴と、あんまり食べない奴がいる。

個体差があるんですね。

そういうことは、飼ってみて初めて分かることです。

ところが、困ったのは冬場です。

さて、どうしたものか。

ヒーターやライトを入れて、冬場もエサやりし続けて飼うか、冬になる前に逃がしてあげるか。冬場も飼い続けるにはコストと手間がかかる。逃がしてあげるか。

そう思ったとき、ふと思ったんですよね。

野生のカナヘビは冬眠すると。冬眠中は雪の下の土の中で、できるだけ代謝を落として食べなくてもいいように眠って春を待つのだと。

ネットをいくら検索しても、冬眠させてる人の情報は出てこなかった。

でも、雪の中は、意外と暖かくて、0度以下にはならない。雪国では、雪室というものがあって、外気が氷点下であっても、雪室の中は0度前後をキープできるんですよね。

ということで、虫かごのまま外に出したら、氷点下で死んでしまうだろうし、冬でも0度以下にならない場所は・・・ってことで、冷蔵庫に虫かごを入れて冬眠させることにしました。

変わりがあるかどうかわからないけど、雪の中にいる感覚に近いように、プチプチで包んで、中にもプチプチ入れてみました。

ただ、調べてみると、冬眠中も、時々水分をとっているらしいということで、乾かないように時々お水をかけてあげながら、一冬・・・・。

お水をあげるときに、生存確認。丸まって、ちゃんと生きてるみたいです。

先日、雪も解けて温かくなった日に、冷蔵庫からだして、日光浴!

生きてました!

なんだか感動です!

これも、

①土の中で冬眠しているカエルを掘り起こしたことがある。(寒いところなら冬眠させられるかも?)

②雪で作ったカマクラの中は温かい(雪の中は0度以下にならない)。

③物置に置いておいたリンゴは凍ってる(氷点下に放置するのは危険)。

という経験があったから、外に置いといたら凍って死んでしまうかもしれないけど、冷蔵庫の中に入れてみたら冬眠できるんじゃないか?という発想に行きついたわけです。

さて、無事、冬眠から目覚めたカナヘビたちにはエサが必要です。

さあ、これからまた、エサ探しが始まります。

知らない世界は怖い、でも、ワクワクする!

たった、カナヘビの冬眠させる、という未知のことに挑戦するのも、実はちょっと怖いのです。もしかしたらこのまま死んでしまうかもしれない。

そしたら、冬の前に逃がしてあげた方がよかった。自分がこの小さな命を殺してしまうかもしれない。

でも、それ以上に、うまく冬眠させられるかもしれない。

そしたら実験大成功じゃないか。

冬眠中の様子も観察できるし、何より、春、冬眠から覚めた時のことを考えると、何とも言えずワクワクするのです。

やったことないことは怖い。

失敗を恐れるなら、やらないほうがいい。リスクもある。

でも、それより、挑戦したときのドキドキとワクワクを味わいたい、という気持ちが勝つから、挑戦しようと思える。

挑戦しようと思えるのは、この、

未知の領域に足を踏み入れるドキドキ(怖いもの見たさに近い)と、

挑戦したことによって得られるであろう達成感に対する期待のワクワク

を知っているからなんだと思います。

それには、小さなころから、小さくても、たくさんたくさん、未知のものへの挑戦と失敗と成功を繰り返している必要があります。

ハイハイしていた子どもが、つかまり立ちし、手を放して一歩踏み出すような、そういう瞬間をです。

一歩踏み出したときに、周りの大人が、手をたたいて、満面の笑みでその挑戦と成功を喜んでくれる。それは、小さな子どもにとって、この上なくうれしく、誇らしい瞬間なのだと思います。

またその瞬間を味わいたいんだけど、一度できてしまったことは当たり前になってしまい、喜びや感動がなくなってしまう。その後も、あの感覚を味わいたくて、たくさんたくさんいたずらという名の挑戦をするんだけど、あるとき、「あれ?これは喜んでくれないぞ」と気づく。

いろんなことに挑戦しようとするんだけど、「これはばっちいからダメ」「だめだめ、それは触らないで」「これはあぶないからダメよ」と、周りの大人から危険や、やってはいけないことを学習をしつつ、挑戦するものがどんどん目の前からなくなっていき、かわりに、安全で安心なものばかりで周りを埋め尽くされ、どっぷり安心安全な柵の中の心地よさに慣れていってしまうのです。案外、これも悪くないなと。

もちろん、命の危険に関わるものは、絶対だめよと守ってあげる必要はあります。

でも、その守りの柵が、あまりにも守られすぎてて、ちょっと自分の能力以上のことへ挑戦する機会すら奪われてしまってはないだろうかと思うのです。

プールで泳ぐのは好きだけど、海で泳ぐのは怖い。

予測できる範囲の中では安心だけど、予測不能な大海原の真ん中で海に飛びこむのは怖い。

そういう気持ちは分かります。本能ですから。

だけど、広い海に出て初めて見える世界があるのも確かです。

広い海だからこそ出会えるものがある。

プールの中で満足して終わるか、広い海に飛び出してみるか。

ただ、どちらがいいも悪いもありません。安心なプールで好きな時に泳ぎ、好きな時にドキドキを味わうために飛び込むことだってできるのですから。そのプールを、誰かを喜ばせるために美しいプールに仕立て上げ、誰かを喜ばせるドキドキとワクワクを味わうこともできるのです。

皆さんは、何にドキドキ、ワクワクしていますか?

皆さんのお子さんはどうですか?

未知のものに対する挑戦、できていますか?

 

 

リアルな体験を子どもたちに!


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小学生の約8割が外遊びをしていない――

そんな調査結果が、千葉大学園芸学部教授の木下勇さんの研究室による調査で明らかになっています。

わからないことは検索すれば、すぐに答えがわかる時代。

実際に虫捕りしなくても、昆虫採集の動画や、昆虫の産卵のさせ方、育て方のコツ。調べたらなんだって出てきます。

うちにカブトムシがいると話したら、「カブトムシはどこのホームセンターで買ったの?」と聞かれることも。

ほしい昆虫は、買う時代ですからね。

自分でカブトムシのいそうな木を探してみたり、ここならいるかも?って野生の感を働かせるような場面は少なくなってしまったのかもしれませんね。

なぜ外遊びが減ってきたのか

調査は、2016年10月から18年12月に実施されました。千葉市と宮城県気仙沼市、群馬県みなかみ町の3市町の小学生計2433人に平日に外で遊ぶ日数を聞きました。

都市の千葉市では78%が「0日」と回答。高学年では87%に上りました。平日放課後に遊ぶ友達の人数も聞いたところ、「誰もいない」が14%、「1~2人」が55%でした。

地方都市の宮城県気仙沼市でも、平日放課後に外で遊ぶ日が「0日」の子は76%平日放課後に遊ぶ友達は「誰もいない」が18%、「1~2人」が29%でした。

地方の農村部である群馬県みなかみ町では、平日の外遊びが「0日」の子は60%いました。遊ぶ友達が「誰もいない」は20%、「1~2人」が42%で、都市部以上に近所に気軽に遊べる友達が少ない状況が浮かびました。

外遊びをしない理由は、「塾や習い事があるから」がもっとも多く、34人。「通学に時間がかかるから」「外遊びをする友だちがいないので、遊びたくても遊べない」といった声もありました。

1・(塾や習い事で)忙しくて遊ぶ時間がない

2・遊ぶ友達がいない

3・都市化により、遊べる(騒いだり、走り回ったり、ボール遊びしたりする)場所がない

4・スマホやタブレット、ゲームなどが子どもたちの日常アイテムであること(一人でも時間を過ごせてしまう)

5・普段は学童保育に預けられている子が多い

6・地域とのつながりが希薄になっている

上位の1,2,3は、いわゆる3間がないというように言われています。3間とは、時間、空間、仲間のこと。

そのほかに、親世代がそもそも自然で遊んだ経験が少なく、自然の中でどうやって遊んだらいいのかわからないし、手っ取り早くテーマパークやワークショップなど、すべてお膳立てされているところに連れて行くほうが楽だし安心、という事情もありそうです。

リアルな自然体験が子どもたちにもたらすもの

世帯収入にかかわらず、自然体験の機会に恵まれていると、その後の経済状況に左右されることなく、その後の成長に良い影響がみられることが調査で分かっています。

自然体験の機会の多い子ほど、自尊感情が高い傾向にあるようです。

収入水準が高いグループ

・自然体験が少なかった子 27.9点

・自然体験がやや少ない子 28.5点

・自然体験がやや多い子 28.9点

・自然体験が多い子 29.5点

収入水準が低いグループ

・自然体験が少なかった子 27.4点

・自然体験がやや少ない子 27.6点

・自然体験がやや多い子 28.4点

・自然体験が多い子 29.6点

令和2年度 青少年の体験活動の推進に関する調査研究 報告パンフレット(概要) (mext.go.jp)

【資料6】青少年の体験活動の現状について (mext.go.jp)

自然体験が子供の成長にとってよいものであるということは、この追跡調査によっても明らかになっています。

自尊感情向上のほか、道徳観、正義感、コミュニケーションスキル、課題解決スキル、健康管理スキル、礼儀、マナーがある、という傾向がありました。

平成13年に出生した子供とその保護者を18年間追跡した調査データを用いて、時系列的な観点から、体験活動がその後の成長に及ぼす影響を分析した結果です。

リアルな体験の中で生き生きとする子供たち

この夏休み、毎日のように集まってきた子供たちは、午前中はだらだら友達としゃべりながら、時にはボードゲームやかくれんぼしながら過ごし、「午後どっか連れていける?」という日々。

「どっかって、どこに行きたいの?」「何がしたいの?」

「生き物探しなら、水の生き物か、昆虫か?」

「水遊びだったら、川か海か、湖か?」

「海だったら、ちょっと遠いけど、○○行けば、カニ捕まえたり、磯遊びもできるし、海でも泳げるよ」

「泳ぐだけでよければ、近い海もあるよ」

「小河原湖で湖水浴でもいいよ。浜台だったらカヌーだせるし、しじみ採りもできるよ。ヌマエビ捕まえるなら、道の駅近い方がいいかな」

「昆虫探しだったら○○の森がいいかな」

っていう具合に、子供たちに、今日は何をやりたいのか聞いて、虫捕りだったらあそこかあそこ。川だったらあそこかあそこ。川遊びと昆虫探しだったらあそこ。

そんな提案をしながら、午後行きたい場所を決めてもらっていました。

「今日は早く帰らなきゃないから、今日は近場で、駒っこランドでいいや」

「今日は温水プール行きたい」

そんな日もあります。

子どもたちが、今日は虫捕りの気分なのか、川遊びの気分なのか、海の気分なのか、プールの気分なのか、それによって行き先を決めるわけです。

磯遊びの海以外は、どこもだいたい家から車で30分程度で行ける距離。

午後1時に集まってきて、18時前に帰ってきます。

そんな風に、今年も遊びつくした子供たちの様子です。

★磯遊びで昆布を巻き付ける

★岩の上から海に飛び込み

★海の生き物探しでは、カニやおさかな捕まえる

★釣り

★川遊びで魚探し。モクズガニも発見したけど逃げられた。

★川で見つけたミヤマカワトンボ

★川遊び

★川で足がつかないほどの深みに飛び込み

★笹船作って流す

★湖水浴の後、虹を見ながら水切り

★初カヌー。右、左、右、左、左、左、左・・・

★カヌーからの飛び込み。みんなで前宙や、バク宙での飛び込みにも挑戦。

★寒くなったら焚火でマシュマロ焼き

★もぐってしじみとり。翌朝、砂出ししたしじみスープが激うま!

★キャンプ飯づくり(玉ねぎが目にしみる!一人は完ぺきな防御!)

★夜の雷。対岸の雷。ものすごく美しいけど、怖い。

★焚火で過ごす夜

★遊び疲れて早々にテントで眠る

★生き物探し・水の生き物編

★ミズカマキリにヒメゲンゴロウ、コオイムシやトンボのヤゴ

★カエルのビオトープには、アマガエルとトノサマガエルが五匹。餌にはコオロギやバッタ。

★アマガエルがめちゃくちゃかわいい

★脱皮したてのカマキリを庭で発見

★夏休み中に脱皮を何度か繰り返し、最後の羽化で成虫になったカマキリ

★クロスジギンヤンマが羽化したけれど、落ちて、羽化に失敗してしまった。

★羽化に失敗したクロスジギンヤンマは、カマキリのえさになりました。

★アブラゼミの幼虫が羽化するところをじっくり観察。

★虫捕りで木登りも

★3年ぶりのお祭りシーズン!!八戸三社大祭

★弘前ねぷた祭り

★青森ねぶた祭

★五所川原立佞武多

★花火大会

★地域のお祭り的な、おじいさんの実験ショー

★プレーパークでものづくり

★家庭科の宿題だけど、バンバンジーと、ご飯とみそ汁。息子一人でつくりました。

★新幹線と電車を乗り継いで、北海道日帰りプチ一人旅

こうやって見てみると、遊びつくして、いろんなことを体験しつくした夏休みでした。いっぱい笑って、いっぱい走って、いっぱい泳いで、いっぱい虫とって、いっぱいいきもの見つけて、いっぱい遊んだら「腹減った~!!」ってセルフかき氷やスイカ割りやおやつ食べて、おなかが満たされたら、「今度は鬼ごっこしようぜ~!」って、また走って。

17:55になったら、「やべっ!もうオレ帰る!」って帰っていく毎日。

子どもたちが、本当に楽しそうで楽しそうで。

虫捕り、海で磯遊び、湖水浴、カヌー、川遊び、釣りをして、釣った魚を食べる、しじみ採りしてしじみを食べる、生き物探し、焚火、料理する、キャンプ、雷を見る、水切り、虹を見る、木工、実験、地域のおじいさんおばあさんとの交流、お祭り、花火、スイカ割り、一人旅、昆虫や生き物を飼ってエサやりと観察、木登り・・・。

リアルな体験でいっぱいの夏休み。

青森の夏休みは短くて、今日で夏休みも終わりです。

「あ~!面白かった!」

って、夜はバタンキューで眠り、朝は6時には目覚める、健康的な毎日。

これぞ夏休みです。

今年は、6年生の友達はほとんど中学受験のために塾に行くようになり、去年とは違うメンバーで過ごすことが多かった夏休み。

ああ、子どもたちみんな、自由にしてあげたいな~。

こんな夏休みを過ごさせてあげたい。

塾通いのお友達を思うと、ちょっぴり切なくなります。

大人の役割

子どもたちに、リアルな体験をたくさんしてもらいたい。だけどどうしていいかわからない。

そんな親御さんもいるかとは思いますが、大人の役割として、こうであってほしいと思うことがあります。

それは、何をやるかは子どもが決めること。

そして、大人は、やり始めた子どもの邪魔をしないこと。

子どもが決めたら、できる限り、それを実現させる方法はないかと考え、サポートすること。

自分でできないときは、人に頼ること。お願いすること。

子どもの希望も聞かずに、自然の中にただ、自分の子どもを一人連れて行ったところで、「さあ、遊べ」と言われても、子どもも困ります。

友達を誘って一緒に連れていくとか、誰かにお願いして連れて行ってもらうとか、集団で遊べるようにしてあげることも実は大事です。

友達と一緒なら、どこへ行っても、何をしても、楽しいのです。

その場合、大人は、ただ見守るだけで大丈夫です。

自分の子ども一人だった場合は、親も一緒に楽しむ必要があります。こんな楽しみ方があるよ。こんなの見つけたよ。一緒にこれやってみようか。って、子どもとその楽しみを共有する必要があります。

 

子どもには、楽しさを分かち合う人が必要なのです。

感動を分かち合う。

怖さを分かち合う。

体験を共有することで、子どもたちの記憶に残っていきます。

 

親子で虹を見たら、一緒にきれいだね~と感動してください。

親子で昆虫を見つけたら、「お~!すごいね!かっこいいね!おもしろいね!」と、一緒に昆虫を観察してください。

大人は、子どもたちと感動を共有するために、見守っていてください。

 

 

 

 

 

子どもの未来に何を残したいのか?そのために何をするべきか?

この青森県も、どんどん子供の数は減っています。

2021年の出生数は6589人。2020年は7005人だから、416人前年度より出生数は減っています。その前の年は前年より318人減。さらにその前の年は620人減です。

息子の通う学校の今の子どもの数は343人だから、一年に学校一つからなくなってしまうぐらいの数の子どもが減っているということです。

毎年学校一つがなくなってしまうぐらいの世界。

にもかかわらず、児童養護施設などに入所している 社会的養護児童数は340人(平成31年データ)。

子どもの貧困や虐待も問題になっています。

困窮家庭、周辺家庭(低所得、家庭のひっ迫、子どもの体験や所有物の欠如の二つ以上該当が困窮家庭、一つ該当が周辺家庭)二つ合わせると31.4%の家庭が、何かしらの貧困状態を感じています。(子どもの貧困率とはちょっと違いますが)

昨年の青森県の児童虐待の相談件数は1700件

内訳は、暴言や子どもの前で配偶者に暴力を振るうなどの「心理的虐待」が929件

暴力を振るう「身体的虐待」が420件、

子どもの面倒を見ない「ネグレクト」が325件、

性的虐待が19件となっています。

そして、青森県内で令和三年の少年(20歳未満)の自殺者は7人

青森県だけ見ても、ため息が出るような世界。

子どもたちは大切にされているのだろうか?

 

子どもが走りまわって興奮して大声を上げることもある。だけど、子どもの声がうるさいと言われたり、ここで遊ばせないでと言われたり、そこは危ないから遊んじゃいけないと言われたり、子供が自由に奇声を発して思いっきり遊べる環境は、身近なところにはなくなってしまいました。

今どきの子供は、習い事も多く、自分だけの自由な時間がなかったり、だらだらしたり、ボーっとできる時間も少ない。遊びたくても自分と同じ時間に遊べる時間がある子がそもそもいない。

コロナのこともあって、ストレスもたまりがち。巷では子供のストレス発散グッズが人気だとか。

ただでさえ少なくなっていく子どもの数に、自由に遊べる場所も時間もない。仲間もいない。

子供だけじゃなく、大人も同じ。

ストレスフルな毎日に、癒し系動画やストレス解消グッズに頼らなければ心が休まらない。

私たちは、そんな世界を子どもたちに残したかったのかな?

本当に残したかった世界は、こんな世界じゃないよね?

子供の自己肯定感が世界的に見ても低い日本。

今、子どもたちはほんとうに幸せなの?

あなたが子どもたちに残したい財産は?

そんな質問に対して、多くの方がお金ではないものをあげています。(もちろん、家やお金という回答もありますが)

「思い出」「手紙」「日記」「人間力」「一人で生きていく力」「人とつながる力」「環境」

「愛情・平和・時間」「親の生きざま」「親としての姿」「火事や泥棒にあってもなくならない知識や教養」「地球と明るい未来」「笑顔」「生きる力」「田園風景」「丈夫な体」「文化的価値観」「愛すること、愛されることのすばらしさ」「信じること信じられることのすばらしさ」「人と人のつながりの大切さ」「この世に生まれたことを誇りに思って生きて欲しい」「自然の移ろいに心を動かされるような感情、当たり前のように過ごしている日々が実は大変幸せなこと」「何があっても立ち向かえる精神力」「小さな幸せ」「家族との思い出」「でっかい夢と大きな愛情、そして少しだけお金」「生きてるうちに伝承できるもの」「愛されていた思い出」・・・

そういう無形のものを残したいと思う親御さんが非常に多いんですね。

では、実際に、そういうものを子どもたちに残しているでしょうか?

残す努力をしてるでしょうか?

太陽光パネルや風力発電のための大規模な森林伐採で、地元の山は悲しい状態になっています。

海岸はプラスチックがいっぱいで、海も悲しい状態です。

美しい自然環境を子どもたちに残したいけれど、ちゃんと残せている?

子どもを信じてあげられてる?

目に映る子どもたちは幸せそう?

そうでないとしたら、何ができる?

何を変えたらいい?

「見たいと思う世界の変化にあなた自身がなりなさい」 
-マハトマ・ガンジー

こんな世界を残したい。という世界があるのなら、その世界を残すための行動をするべきです。小さなことでも。

愛された記憶を子どもに残したいなら、たくさんの小さな温かい家族との思い出を積み重ねていきましょう。

美しい地球を残したいのであれば、ごみを拾って、できるだけプラスチックは使わない生活を心がけたり、車を使わず歩いてみるのもいいでしょう。

笑顔を残したいのであれば、出会う人に笑顔を向けましょう。

小さな幸せを伝えたいなら、日々の暮らしをたのしみ、季節の移り変わり、日々の小さな変化を親自身が楽しみましょう。

明るい未来を残したいなら、明日は選挙です。自分が考える未来を実現してくれそうな政党をしっかり見極め、一票投じましょう。

嘆いてばかりいても何もしなければ、未来は変わりません。

行動しなければ、何も変わりません。

何も残せません。

未来を作っていくのは、今の私たち自身なのですから。

 

どうやったら地域に子どもたちが残りたいと思うのだろうか?


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皆さんの子ども時代は、どんなことをして遊んでいましたか?

私は、子ども時代、岩木川がそばにあったので、よく河原で遊んでいました。

草花遊びや水切り、きれいな石探しなんかよくしていました。

小学校で友達の家に行き来するようになってからは、友達の家までの人んちの塀の上を歩いたり、用水路でお花や葉っぱを流して競争して遊んだり、人んちに咲いてる花の花びらとって遊んだり、崖を降りて遊んだり、トンボの首にひも付けて飛ばして首がポロリとか、冬は屋根から下の雪山に飛び降りて遊んだりとか、わりと、今だとやめなさいと言われるようなことやってたな~と思います。

まだまだ私はおとなしい方なんじゃないでしょうか。

以前、この質問を投げかけた時、ものすごい強者達の声が集まり、みんな、子ども時代はいろいろやってたんだな~と驚きました。

過去の記事も、よかったら見てみてくださいね。

すごい武勇伝がたくさんあります↓

あなたは小さい頃何をして遊びましたか?

子ども時代に地域の中でたくさん遊んで、大人たちに心配や迷惑をかけながらも、時には叱られるけれど、ちょっとの悪さも温かく許容してもらっていたこととか、何か温かい記憶として残っていたりするものです。

そんな子ども時代を思い出しつつ、「どうやったら地域に子どもたちが残りたいと思うのだろうか?」という問いを考えてみたいと思います。

どうやったら地域に子どもたちが

残りたいと思うのだろうかか?

地方は、だいたいどこも、人口減少、少子高齢化、担い手不足の問題を抱えています。

インバウンドで外から人を呼び込もうとしたり、Iターン、Uターンで移住促進とか、ゆるキャラで地元アピールとか、考えられる地方再生への対策に、それぞれ、頭を悩ませている問題だと思うのです。

そして、この問題に対して、これが唯一の答えだとは思っていないのですが、冒頭の、『子ども時代、どんな風に地域の中で過ごしたか』ということが関わってくるのではないかと思っています。

「地域と、どれだけ交流しながらすごしたのか」ということが、残りたい場所、戻ってきたい場所になりえるかどうかと関連しているのではないかと思うのです。

ここに書いた「地域」の中には、地域の自然、地域の人、地域の食、地域の文化というものが含まれます。

 

<地域の自然>

草っぱらや林の中で、虫とりに明け暮れた。

暗くなるまで友達と遊びつくした。

釣りが大好きで、休みの日は友達と釣りばっかりやってた。

ドジョウ探しやザリガニ釣り、生き物探しに夢中になってた。

地域の美しい自然をよくみにいった。

<地域の人>

近所のおばあちゃんが登下校でいつも挨拶してくれた。

近所のお店に買い物行くと、いつも話しかけてくれて、時々飴をもらった。

近所のおじいちゃんと将棋して遊んでた。

畑にいたおばあちゃんから、トマトをもらった。

お父さんでもお母さんでもない、先生でもない人といっぱい遊んでもらった

<地域の食>

地域の特産品(野菜や果物、肉や野菜、魚介類、山菜など)がすごくおいしかった。

地域の特産品を使った料理を作って食べたらおいしかった。

水がおいしい

<地域の文化>

地域のお祭りに参加して、太鼓たたいたり、笛を吹いたり、踊ったりした。

地域の工芸品を作る体験をした。

などなど、ここにあげきれなかった、様々な地域との関わりが、複合的にたくさんあればあるほど、きっと地元に対して愛着を持つことができるだろうし、いつか帰って来たいふるさとになるだろうし、残りたい大好きな場所になっていくのではないかと希望を持っています。

故郷を大好きでいてほしい

地域に子どもは残って欲しいけれど、そうはいっても、一度は外の世界を見た方がいいだろうとも思います。

世界は広く、自分の知らない常識や、知らない素晴らしい景色、まだ出会っていない素晴らしい人達、新しい働き方など、知らない世界がたくさんあります。

若いうちに、多様な人に出会い、視野を広げることも大切だと思います。

でも、そうやって一度外に出てみると、何もないと思っていた地方が、故郷が、実はとても豊かだったと気づくものです。

「井の中の蛙大海を知らず」

「井戸の中の蛙(かわず)には、海のことを話してもわからない。それは蛙が狭い環境にとらわれているからである。夏の虫には氷のことを話してもわからない。それは彼らは季節というものは夏だけだと思いこんでいるからだ。視野・見識の狭いものには、真理を説いてもわからない。それはその人たちがありきたりの教えに縛られているからだ。今、あなたは狭い川の岸を出て、大きな海を見た。それであなた自身の愚かさを自覚したのだ。だからあなたには、大きな真理について語ることができるようになった。」

という、荘子の言葉があります。

一度、広い世界を見ることで、改めて気づくことは大きいと思います。

だから、一概に、地方に残って欲しいと子どもたちに言えないとも思っていて、でも、自分の生まれ育った故郷のことは、大好きでいてほしいとは思います。

何かあったとき、ふと帰りたくなる場所。

「ただいま」と言える場所。

「またあの人に会いたいな~」と思える人がいたり。

「また行きたいな~、あのお店」と思える、よく通ったお店があったり。

「お祭りだけはどうしても帰りたいな~」と思える地域のお祭り。

そんな、温かく、懐かしい、胸の底から沸き上がる思い。

そういうものを持ってさえいてくれたら、大人になったとき、どこに住もうか?どこで働こうか?と思ったときに、選択肢として故郷が浮上してくるのではないでしょうか?

 

私の場合は、弘前のねぷたが大好きでした。

弘前公園は、高校、大学に通うまでの通り道で、公園の四季折々をいつも目にしてきました。

小学生のころ、近所の駄菓子屋さんで買い物するのが楽しみでした。

学校帰りに団子屋さんに寄り道して、100円玉を握りしめて買った串団子が忘れられません。

両親は自営業で忙しかったけれど、山に山菜採りによく連れて行ってもらったり、年に数える程度ですが、キャンプに連れて行ってもらったことも忘れられません。

冬は、父がよく岩木山にスキーに連れて行ってくれました。

家の二階の窓からは、いつも岩木山が見えていました。

母と買い物に行くと、母は魚屋さんやお肉屋さんでいつも立ち話して、そのたびに「さっちゃんは芯がしっかりしてるね~」なんて話かけてもらったり、お菓子もらったりしてました。

大学在学中は探検部で白神山地に分け入り、岩木山を登り、岩木川を川下り、その後、マタギの工藤さんや、クマゲラ調査、岩木山を考える会など、自然保護活動を通じて、すばらしい人たちと出会いました。

そんな子ども時代、学生時代があって、弘前が大好きだったから、大学出た後も県外に出たいなどこれっぽっちも思いませんでした。

井の中の蛙ではあったかもしれませんが、この青森の、自然と人と文化に惚れてここに残りました。

「大海」は知りませんが、幸い今はインターネットで世界とつながれる時代になりました。世界中にできたつながりから、知らなかった世界を少しばかり垣間見ることができるようになりました。

私は、本当の生まれ故郷である弘前からは離れましたが、山が見える景色が大好きです。弘前では岩木山を眺めていましたが、今は十和田から八甲田山を眺めています。山と田んぼと川のある景色が、私の中の原風景です。

だから、子どもたちにも、心の中の原風景を残していきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子どもたちの幸せとは


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子どもにとっての幸せとは何でしょうか。

①衣食住が保証されていること

②安心できる居場所があること

この二つは最低限必要なことではないでしょうか。これらが満たされたうえで、

③自分で意思決定ができること(やりたいことを自分で決めてやれること)

④自由であること

そして、

⑤生きている実感を持てること

なのではないかと思っています。

子供の幸福度の調査

ユニセフによる子どもの幸福度の調査によると、

「身体的健康」は1位

一方、「精神的健康」は、37位と調査対象国中ワースト2位でした。

ユニセフレポートカード16

データを詳しく見ていくと、

15~24歳の自殺率は、先進国ワースト1位だし、殺人による死亡率が最も低いわりに、「困った時に頼れる人がいる」と答えた成人の割合は、下から10番目でした。

そして、子どもの自殺の原因について、文科省の調査によると、いじめよりも、家庭の不和、精神障害、進路問題が多く、一番多いのは理由が「不明」という、これといった理由が見つからないケースが半数を超えています。

子どもの自殺 初の400人超 不登校は19万人以上で過去最多

児童生徒の自殺の現状と予防のための方向性

自宅で安心感が得られないと答えた子の幸福度は低く、すべての国で、「サポートしてくれる家族関係である」と答えた子どもは情緒的幸福度がより高い傾向が見られた。

これには貧困も大きく関わってくるようです。

貧困の解決が子どもたちの幸福度を上げることにもつながることは確かですが、助けてと言える人がそばにいるか。そういう関係性が周りにあるか。困ったときに相談できる人、サポートしてくれる人が周りにいるかどうかも大きいと思います。

生きている価値を見出せない

「人生が空っぽに感じ、生きている価値を見出せない」というような、無力感、未来への漠然とした不安を抱えている子も少なくない。

不安という意味では、コロナによる未来への不安、環境悪化による未来への不安を感じている子もいると思う。

気候変動が改善されない限り、子どもを産みたくないという若者が出てきているというのも、未来への不安から。

そういう漠然とした不安を抱えながら、人との関わりが希薄になり、必要とされる実感が得られにくい現代の社会が背景としてあるのではないでしょうか?

自分は生きている価値がある。生きてていいんだ。そう思える時って、どんな時でしょう?

誰かに必要とされたとき。誰かにありがとうと言ってもらえた時。そういう、他者によって自分の価値を認める時。

もう一つは、自己肯定感や自己効力感のように、ありのままの自分を認めているときや、自分はやれるんだ!というような感覚を持てる時。つまり、自分が自分の存在を認める時の二つあります。

自分がやりたいことにチャレンジして、小さくても、成功体験があるとき。何かしらやった結果が見えた時や、誰が何と言おうと、これをやりたい!やってよかった!というような、自分の内側から沸き上がる、心のコンパスに従って行動した時に自分の存在を認められます。

感動すること、歓喜すること

自分なんて何の役にも立ってないし、別に特別何かできることがあるわけでもない、やりたいこともないし、という自分に、「生きてる価値がない」と感じてしまう人がいるのも事実です。

自分に何ができるとか、何ができないとかそういうことよりも、足りないのは「歓喜する気持ち、感動すること」なのではないかと思っています。

感動したり、歓喜するのは、自分の心が大きく動くことです。

すごくきれいな景色を見て心動かされるとか、おいしいものを食べて感動するとか、知らなかった世界を知って感動して喜ぶこと。

小さな子どもは、なんにでも歓喜します。

見るもの、触るものすべてが面白くて、新鮮で、日々、成長し、天井ばかりだった世界が寝返りしたり、ハイハイしたり、たっちすることで見える世界が変わってくることに歓喜し、遊びの中で新たな発見、新たな世界の広がりに歓喜します。

触りたいものを触り、やりたいことをやり、そのたびに歓喜するのですが、だんだんに、それは触ってはいけない、それはやっちゃダメと、目の前から歓喜できるはずの対象が取り除かれていきます。危ないからダメ、というのは、子どもをリスクから守るためにはある意味仕方のないことですが・・・。

でも、必要以上に取り除かれ、これはダメだけど、こっちは触っていい。これはやっちゃだめだけど、これはやっていい。そのうち、あれこれ触られると面倒だし、あれこれやられると面倒だから、これさえやってればいいのよと、やっていいことだけを目の前に並べられる。余計なことはしないでと怒られる。そんなの無駄なことだと言われる。

でも、子どもの世界って、無駄で無意味に思えることばかりで、なんでそんなこと!って思うこともたくさんあって。

でも、そういう一見無駄で無意味なことが、すごく大事なことだったりするのです。

安全に守られすぎた世界には子どもの選択の余地はなくて、だんだんに、安全で安心だけど、何事も変わったことは起こらない、予測できることしか起こらない、歓喜の少ない世界の中に子どもたちは押し込められて行っていないでしょうか?

歓喜は、変化の中に起こります。

いつもと違う風景。いつもと違う結果。いつもと違う、予想外の展開。

そして、歓喜は、自分で選択した結果によって起こります。

きれいな景色を見て歓喜した場合、誰かに連れて行ってもらったとしても、一緒に行くと決めたのはあなたです。そこに行くと決めたのはあなたです。

おいいしいものを食べて感動したとき、それを食べようと思ったのはあなたです。

知らなかった世界を知って驚き、感動し、歓喜したとき、そんな世界を知ろうとしたのはあなたです。

例えば、道端のコンクリートの割れ目から生えてくるタンポポに対して、日常的に見ていて何とも思っていなかったのに、ふと、このタンポポってすごいな。こんな何にもないところでも花を咲かせるなんてと感動する瞬間があったりします。そんなとき、道端の花に目を向けたのはあなたです。

自分が選択し、その選択によっていつもとは違うことが体験出来て、心が動くのです。

歓喜している状態を、子どもの感覚で簡単に言うと、

めっちゃ楽しい!!

すっご〜い!!

めっちゃ面白い!!

ってことです。

それが生きてる実感ではないでしょうか?

せっかくこの地球という美しい星に生を受けたんです。生きてる実感を、感動を、歓喜を、たくさんたくさん味わってほしい。

自由と束縛

自由と束縛、どっちがいいかと言われると、みんな自由がいいと答えるのではないでしょうか?

だけど、砂漠、あるいは森、海の大海原に一人放り出され、自由にしてもいいよと言われても、不安になって困ってしまうのではないでしょうか?

何をするのも自由というのは、良くも悪くも選択した結果が自分に返ってくるので、選択に責任が伴ってくるからです。

そういう意味で、誰かに決めてもらった方が楽だし、枠があったほうが安全だし、危険もない。ということで、人は自由を求めながらも、ある程度束縛があった方が安心という側面はあるようです。

例えば、いつもリードにつながれている犬は、何もしなくてもエサはもらえるし、散歩にも連れて行ってもらえる。その時はしっぽ振ってうれしい。でも、それ以外は寝て過ごす毎日。

でも、ある時リードが外れて、自分が自由であることに気が付いたその時、犬はものすごい勢いで走り回り、自由を謳歌します。それはそれは体全体で歓喜します。

でも、満足するまで走りまわると、また、餌をもらえる飼い主のもとに戻ってくるのです。

以前、割と親が厳しい家のA君が遊びに来た時に、お昼は必ず帰ってきなさいと言われていた。それは、学校でもきめられてるルールだし、守って当たり前なルールですが、その子の家はちょっと遠い。いったん家に帰ってまた来るのは面倒くさい。「よかったらうちでご飯食べていく?」という言葉に、他の子は、家に帰らずにご飯を頂くと決めました。迷った挙句、その子はお昼は自分の家に帰らず、我が家のご飯を食べることにしたのです。

その子は、親の言いつけを守らなかったのは初めて。

最初は怒られるかもしれないと、ドキドキしていた。

でも、一緒にご飯を食べ始めた瞬間、A君は

「やった~!!俺は自由だ~!!自由だ~!!」と叫んだのです。

怒られるかもしれない。でも、怒られてもいい。ここに残る!

自分で、自分がどうするかを選択したのは彼自身。

自分が選択した結果であれば、その結果を受け入れる覚悟ができた。

そのとき、彼は自由を感じた。大きく心が動き、自由を感じ、歓喜したわけです。

子どもたちは、日々、いろんな小さな束縛の中にいます。

それでも自由を求め、自由でいられたときに歓喜します。

歓喜する子どもたちの笑顔は最高です。

ちょっぴり、束縛の鎖を緩めて、子どもを信じて自由にさせて見てほしいと思います。

学校からの束縛。家庭の中での束縛。人に迷惑をかけてはいけないという束縛。

近頃の子どもたちには、束縛が強すぎますから。

 

悪ガキたちの秘密基地

2018年に出版した「悪ガキたちの秘密基地」。

ブログにAmazonのリンクを張り付けてありますが、近ごろ、中古が高値で出ているようです。

読みたい方がいらっしゃいましたら、手元にある本を定価(600円)でお送りしますので、お問い合わせください。(送料不要)

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メールにて、こちらからの返信がありましたら、1週間以内にお振込みください。

振り込みは

【PayPal】

または下記口座に振り込みでお願いします。

【ゆうちょ】記号18420 番号07138981
           シンドウサチコ

【他行からの場合】ゆうちょ銀行

           支店名 八四八 (読み ハチヨンハチ)
           普通預金
           口座番号0713898

子どもたちは、エネルギーを発散していますか?


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週末も、たくさん子供たちがやってきては、家の中だけでは納まらず、外で鬼ごっこしたりボール遊びしたり、卓球やったり、ボールの奪い合いしたり、所狭しと走り回る子供たちの姿があります。

そんな子供たちの姿を見るたびに思うのは、子どもは、エネルギーに満ち溢れているということ。

家の中でただゲームして過ごしたり、習い事で長い時間座りっぱなしだったり、じっとして一日を過ごしてしまっていたら、これほどのエネルギーはどこへ行くのでしょう。

あの、あふれんばかりののエネルギーはどこへ発散されるんだろうか?と思うのです。

幸せを感じるのはどんな時?

「幸せを感じるのはどんな時?」

こんな質問を息子にしてみました。

・食べられるとき

・遊んでいるとき

・好きなことをしているとき

・自由に動けるとき

これだけあれば十分幸せだと。

 

嬉々として走り、飛びはね、動き続ける子どもたち。

いのちの躍動そのものであるように。

それが子ども。

 

食べることと遊ぶことは子どもにとっては同じことなのです。

食べることは、生きるために必要なこと。

それと同じくらい、遊ぶこと、自由に動くこと、やりたいことをやることが子どもにとって必要なことだということなのです。

そういう意味で、子どもに「遊んでないでじっとしてなさい」というのは、どういうことか、想像がつくでしょうか?

孤独感の強い日本の子供

今日、E-project先生のいない勉強会で、「孤独」をテーマに調べました。

その時調べた資料の中に、日本の子供の孤独感が強いというデータがでてきました。

ちょっと古いですが2007年ユニセフの調べによるこの表。

日本が先進国の中でも突出していることに驚きます。

この孤独感と、幸福度の低さは関係あるのではないかと思うのです。

この、孤独感。なぜなんだろうか?と思うとき、一つには、日本の子供が家族と過ごす時間が少なくなっているということがあるように思います。

子どもの孤食も問題になる時代です。

家族一緒に食卓を囲む機会が減ってきているとも言えそうです。

食べる事が幸せだと息子は言ったけれど、息子にとっては家族と食べることが当たり前で、一人で食べることはほとんどありません。

毎日のように友達と自由に遊び、腹ペコになっては、家族と暖かい食卓で食べる事ができる息子は、食べて遊べる、ただそれだけで幸せを感じられるのだろうなと思うのです。

もし、一週間のうち、多くの時間を一人で食べていたなら、彼の感じる幸せはもっと低いのではないかと思っています。

以前、「弁当の日」の竹下さんのお話を聞いたときに、二組の一人親家庭のお話をされていました。

A君は、一人親家庭で育ち、お母さんは毎日仕事で遅いので、一緒にご飯を食べることはほとんどなく、お母さんが出掛けるときには、晩御飯これで食べるようにと、五百円玉が一枚テーブルにおいてある。A君はコンビニでご飯を買い、一人で食べる毎日。

B子さんも、同じように一人親家庭で育ち、同じようにお母さんは忙しいのだけれど、遅くなっても子供と一緒にご飯を食べたいと思ってくれている。忙しくてごはん作ってる暇はなく、お総菜を買ってきて、チンして温め、お皿に盛り付け、遅い晩御飯を一緒に食べる毎日。

A君は後に事件をおこし少年院へ。

そこで彼が語ったのは、「おれ、何のために食べてるのかわからない。ただおなかがすくから食べてただけ。飯なんて、何食っても一緒」と。

B子さんは後に、自分で簡単なごはんは作れるようになり、「お母さん、私のためにいつも大変だから、私が晩ごはん作るね」と作ってくれるようになる。

そんな二人のエピソードがありました。

お腹を満たすためだけに食べるんじゃない。誰かと、何気ない話をしながら暖かいご飯を食べる。お腹と一緒に、心も満たすために食べているんだと、その話を聞いて思いました。

そして、孤独感のもうひとつの原因は、「遊ぶ友達がいない」です。

遊びたくても塾や習い事が一杯で、遊べない。自分だけ暇でも、友達は忙しい。だからゲームでもて余した時間を消耗するしかない。

友達と遊ぶことができないというのは、つながりを保てない。一緒に笑いあうことができない。バカ言って笑ったり、くだらないことが話せたり、嫌なことを話したりすることができない。

子どもは、優しくて、親に迷惑をかけちゃいけないと、聞き分けよく親のいうことを聞いて、親には文句も言わず、塾や習い事に通いつづける。自由に遊んでる子を横目に、「いいな~。お前は遊べて・・・」と。

大人の忙しさによって、子供のそんな時間が奪われてしまっている。

孤独を感じさせているのは、私たち大人の忙しさなのではないかと思っています。

はじける子どものエネルギー

食べることと同じぐらい、遊ぶことが子どもたちにとって必要だと言いました。

遊ぶと言っても、子どものいう遊びとは、大人が考えた遊び、大人が用意した遊びではなく、やりたいことがやれる。自由な遊びの事を言います。

子どもの内側から沸き起こる遊びです。

内側から沸き起こる、これやりたい!っていう思いが、エネルギーの源です。

だから、子どもを野に放ち、自由に遊ぶことを許すとき、子どものエネルギーは底なしのように沸き続けます。

自由であるというのがポイントです。

子どものエネルギーの源は、食べること(誰かと食べるごはん)と遊ぶこと。

この二つのエネルギー源枯らしてはいけないと思っています。

このどちらか、又は一方が枯れるだけで、子どもの幸福度はグッと下がり、無気力になり、自分なんてどうでもいいとなげやりになるのではないかと思っています。

そして、沸いてきたエネルギーは、流す(発散させる)必要があるのです。

だから子どもは走るのです。

だから子どもは跳び跳ねるんです。

だから子どもは歌うんです。

だから子どもはじっとしてないんです。

どうか、できるだけ彼らの動きたい衝動を止めないでもらいたい。彼らが自由に動くこと、遊ぶことを、許して欲しい。彼らのエネルギーを枯らさないで欲しい。

切なる願いです。

今を後悔なく生きる

今日は3月11日。

東日本大震災から10年目。

あの日を振り返ると、今、私たちに与えられたいのちを、今ある時間を、今目の前にいる大切な人と過ごす時間を、大切に生きたいと思えます。

一日一日を懸命に生きたいと思うのです。

あの日

あのとき、幸い私たちは、大きな被害にはあいませんでした。停電が2日ほど続いただけでした。

末っ子はまだ6ヵ月。

地震があったあの時、私は赤ん坊だった息子を抱き、おばあちゃんの手を握り、寄り添いながら、いつもより強い揺れに不安に思いながらも、地震がおさまるのを待ちました。ドジョウの水槽が大きく揺れて水があふれそうな勢いでした。幸い、物が倒れたり落ちたりすることはなく、地震はすぐにおさまりました。

小学生だった娘と次男は、学校から帰る途中で大きな揺れにあいました。

近くで工事していたおじさんが、大丈夫か?と、声をかけてくれたと言います。

そのあと停電したこともあり、ラジオから流れるニュースで、東北地方が大きな被害にあったこと、津波が来ていたことを知ったけれど、のちに電気が復旧して、その映像を目にするまでは、それほど大変なことが起きていたとは想像もできませんでした。

停電中は、キャンプ用のバーナーで煮炊きできたし、食料も、乾物もあったし、そこそこ買い置きがあったので、それほど困ることもありませんでした。むしろ、ちょっぴり非日常を楽しむぐらいの気持ちでいたように思います。幸い、水は出ていたので、それほど困ることはありませんでした。

あの日、たまたま青森入りしていたアフタフバーバンの北島さんが、ホテルが停電になって体育館に避難するように言われたらしいんだけど、新藤さんちに泊めてもらうことはできないかと、ハピたのの中沢さんから電話をもらいました。もちろん、いいですよと即答して、その夜は北さんが我が家に泊まっていくことになりました。

停電した夜は、仲間を心配して、落ち着かないでいる北さんと、あったかいご飯を食べ、話をしながら過ごし、それぞれの部屋で寝るのも不安だったので、みんなで居間にごろ寝して、電気のない静かな静かな夜を過ごしました。

そして、皆がいるから、一人じゃないから不安が和らぐんだと感じました。

その後、被害の大きさに驚き、原発事故があったことで、今度は見えない放射能に怯え、不安を感じる日々が続きました。

地震、津波、原発事故。

被災地に対する支援をしたいという想いと、まだ赤ん坊を抱えているし、介護の必要なおばあちゃんがいることから、簡単に支援に向かえないもどかしさを感じながら、自分にできることはないかと模索し始めました。

ロケットストーブを作ってみたりもしました。

放射能に対する怖さを、もっとみんなに知らせなきゃとか、こんな危険な原発なんて、子どもたちに残したくないと、反原発運動に参加したり、あの日を境に、子どもたちの未来について深く深く考えるようになりました。

あなたがこの世で見たいと願う変化に、あなた自身がなりなさい

これから書くお話は、今までも何度か書いていますが、これは、私の原点なのです。

反原発運動も1~2年も続けたでしょうか。子育て中のママたちや、もともと原発に関する上映会をやっていたメンバーたちとグループを立ち上げ、情報誌を作って印刷し、配って歩くことをしました。原発の情報。放射能の勉強会。放射能に負けない体づくりとか、発酵食など、放射能を排泄すると言われている食べ物の情報とか、自然な食べ物とか、魚の選び方とか、情報発信するようになりました。子どもたちを守りたい。ただその一心でした。

ただ、それでも原発に対する不安はいつまでたっても消えず、この食べ物が、本当に大丈夫なのか?私たち大人はいいけど、子どもたちはさかんに細胞分裂している時期だから、DNAに傷がついたら、そのまま傷ついた遺伝子が増幅してしまうリスクがある。魚は好きだけど、わからないなら、食べさせない方がいい。野菜の産地も、とりあえず、県内産は大丈夫そうだ。不確かだけれど、リスクが高くなさそうな産地のものを選ぶ、そんな日々。

金曜行動と言って、金曜の夕方に原発反対と言いながら、街を練り歩くことも続けていました。口に出さないことは、賛成してると同じことだと思っていました。原発事故があってもなお、原発を再稼働させようとする人たちに、怒りを覚えていました。みんな、子どもたちの未来のためだと、その時は本気で考え、本気で行動していました。

でも、息子を連れて金曜行動から帰ってきたある日、晩ご飯支度を始めたそのそばで、ソファーの上でピョンピョン跳ねながら、無邪気に「げんぱちゅはんたい♪」と言っている息子を見たとき、私の中でぱちんと何かがはじけました。

ちがう。

私がこの子に見せたいのは、何かに反対したり、いがみ合ったり、憎しみあったり、戦ったりする世界じゃない。

私は、ただただ、この子に幸せな世界を見せたかっただけなんだ。

あなたの住む、この世界は優しいよ。

こんなにも美しいよ。

この世界は本当にステキな世界なんだよ。

ただそれだけだったんだと。

それから、金曜行動に出ることをやめ、発信することも、みんなが見てうれしくなることだけにしよう。優しい気持ちになることだけ発信しよう。優しい世界を子どもたちに見せたいなら、私が優しい世界を作っていかなきゃならない。

そう決意しました。

それから、いつしか、私の周りには、ステキな人たちが表れ始めました。

つながる人は、世界を良くしたいと思っている人たち。子どもたちを幸せにしたいと思っている人たち。地域を良くしたいと思っている人たち。

 

世界を良くしようと思っている人たちは、こんなにいたんだ!

いつのまにか、私の周りは、優しさであふれていきました。

優しい世界を作りたかったら、私が優しい世界を作る人になるんです。

 

ガンジーの言葉にもありますよね。

「あなたがこの世で見たいと願う変化に、あなた自身がなりなさい。」

「You must be the change you want to see in the world.」

すべては私から始まります。

今を生きる

震災から10年。

今日生きてる人が明日も生きていられるかはわかりません。

その時に、私たちは後悔しないだろうかと考えます。

自分が、やりたいことを後回しにしてこなかったか?

やらなければならないことで時間を使い果たし、私が本当にやりたかったことはできているのか?

 

そして、子ども達に対しても。

この美しい地球に生まれてきて、この地球の美しさを、私たちは子供たちに見せただろうか?

素晴らしい自然を、手で触れ、においをかぎ、転げまわり、全身で感じただろうか?

土のにおい

花の香、

鳥の声、

頬をなでてゆく風を全身で感じただろうか?

小さな虫や生き物に歓喜し、バケツをひっくり返したような雨の中、飛び出したことは?

この世界の喜びをどれだけ感じただろうか?

子どもに、やらなければならないことなんて、本当はないはず。

あるのはただ、この世界を感じる時間。

たっぷりの愛情を受け、信じられて、この世界を安心の中で探求する時間。

はたして、どれだけ感じることができているだろうか?

それらを感じることがないまま、この世界を旅立たなければならなかったとしたら、

私たちは後悔しないだろうか?

 

だから、私は、子どもたちが、やりたいと思っていることを叶えてあげたい。

応援してあげたい。

できないと言わずに、できる方法を考えてあげたい。

この世界を、たくさん感じ、たくさん味わってほしい。

この世界の喜びを、体いっぱいに感じてほしい。