昨日、久しぶりに娘と二人で出かけました。
そこで実は、ハプニングがあり、目の上を切ってしまい流血してしまいました。
でも、そこで私たち二人は笑ってしまったのです。
笑い事じゃないんだけど、なぜか笑いが止まらなくて。
なんとか止血して、娘が持ってたカットバンを張り、顔についた血をぬれタオルで拭きとり、ホッと一息ついたら、また笑えて仕方なくて。
同じ出来事に対して、悲しむこともできたし、怒ることもできた。でも、選んだ感情、行動は、「笑うこと」。
ああ、人って、感情を選べるんだ~っていうことを感じた出来事でした。
与えられた運命に、自分の態度を選べる自由がある
「夜と霧」
というドイツ強制収容所体験記録を記した本があります。
皆さんもご存知かどうかわかりませんが、
言葉では言い表せない悲惨な事件だったわけですが、
その中にこんな一節があります。
「あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、
それは、与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、
自分のあり方を決める自由である。」
要するに「感情は選べる」ということです。
感情は選べる
冒頭の娘の怪我の話ですが、いろんなことが重なっての怪我でした。
雨が降っていたこと。
いつも車につけている傘を主人が下ろしてしまっていたこと。
仕方ないのでフードをかぶって駐車場から店内まで走ったこと。
ちょうど非常階段の下が雨が当たらないスペースがあったのが見えていたので、そこをあえて通りぬけたこと。(直前にそのルートで走り抜ける人を見ていた)
私が先に駆け抜け、その後を娘が駆け抜ける。
私はちょっとかがんで非常階段の下をすり抜けた。
ところが娘は、私より娘は背が高く、下を見ていて、フードのせいもあって、非常階段に額をぶつけてしまったのでした。
この出来事で、例えば、車から傘を下ろしたお父さんに怒ることもできた。
せっかく来たのに、何やってるの!!って、怒ることもできた。
なんなら、娘を先に店の前で下ろして、後から自分だけ車外に止めて走っていくこともできた。
娘だって、お母さんのせいでこうなったとか、お父さんのせいでこうなったんだと非難することもできた。
ああすればよかった、こうすればよかった、あれがあったら、これがなかったからだと、後悔することだってできた。
私があんなところを通ったからと悲しむこともできた。
そもそもこんな高さで非常階段作る店が悪いと店にクレームつけることだってもしかしたらできたかもしれない。
でも、なぜか私たちが選んだ感情、行動は「笑うこと」だった。
そのせいか、慌てることなく止血の処置をして、気持ちも落ち着いたので、それ以降は始終笑いながら、楽しく目的を果たした。
娘は厄年(前厄)だって、今年の正月話していたから、「これで厄が落ちたんだよ。もう大丈夫!」って話しながら、帰ってきてから病院に行った。
本当は縫ったほうがいいんだけどねってお医者さんが言うんだけど、「傷が残りにくいような処置でお願いしたい」と頼んだら、時間はかかるけど・・・って、縫わずにテープで寄せて止めてくれた。
処置をするのがまた痛かったらしいんだけど、それもあとから笑いながら話すことができた。
例えば、『怪我をして→病院に行く』という運命だったと考えてみよう。
先ほども言ったように、『怪我して→病院に行く』の間の、この→の部分で、怒ったり、批判したり、悲しんだりという感情を味わう。で、この→の間に、そのまま目的を果たさず即病院に行く、という選択肢もあったはず。
最初と最後の運命は決まっていたとしても、その間に味わう感情、行動は、自分で選べるんだと気づきました。
この→の間に、怒ったり批判したりすれば、きっと、帰宅した主人に、あなたのせいだと、今度はそっちでケンカになる可能性だってあった。
でも、笑って過ごしたおかげで、本来、店に行った目的は果たしたし、笑ったことで落ち着くことができたし、誰も批判せず、誰も非難せず、ああ、やっちゃったな~で済んでいる。目の上の傷の処置した奴が目立つし、目も腫れてるから、今日明日は学校休んでいいよと学校休めた娘は、それはそれでよかったと思っているようだ。
「うちって、普通じゃないよね」というのが私たち共通の認識。
普通がどんなのかももうわかりませんが、起こってしまった出来事はかわらない。でも、そのことに対して、どう感じ、どう行動するかは、私達次第だということです。
でも、そうは言っても、年頃の娘の顔に傷がついてしまったことは、申し訳ないな~と言う気持ちはあります。四人の子を育ててきて、三人男の子は、三人が三人、みんな頭や額を切って、縫ってるんです。
女の子だけ、骨折はあるけど、顔に傷がつくような怪我してなかったというのが唯一の救いだったんですが、とうとうやってしまいました。これも、我が家の運命なのか?