年末に、桜ケ丘中学の元校長先生だった西郷さんのお話を聞きました。
その時、学校の先生もたくさん参加されていて、
西郷さんは先生方の質問に対して、とても辛口にコメントされていました。
例えば、「子どもたちを自由にさせていたら、声の大きい子が幅を利かせ、気の弱い子がいづらくなるといったようなことはないんでしょうか?」
というような質問に対して、
「そんなことはまったくありません」
「最初こそ、揺り戻しといわれる、一見荒れたような状態がみられますが、それも一時的なものです。」
「枠が取り払われて自由になり、自分をちゃんと扱ってもらえるようになると、反発する生徒もだんだん少なくなっていくんです」
というようなことをおっしゃっていて、
しきりに、「教育課程を学んでるときに、皆さんルソーを読んだでしょ?私はルソーの言うとおりにやっただけです!みなさん、読んでないんですか?!」とおっしゃっていたのが印象的でした。
ルソーの教育論。私は教育課程を学ばなかったので、聞いたことはあったけど、読んだことはなかありませんでした。そこで、改めて読んでみることにしました。
まとめてあるものをざっくりと読んだだけですが、
すごくいいことが書いてありました。
「子供を愛せよ、子どもの遊びを大切にせよ」と。
「不確実な未来のために現在を犠牲にする残酷な教育をどう考えたらいいか・・・
耐えがたい束縛を受け、徒刑囚のように、絶えず苦しい勉強をさせられ、しかも、そうした苦労がいつか有益になるという保証もない、かわいそうな子どもを見て、どうして憤慨せずにいられよう。」と。
ルソーの教育論について「エミール」から引用しつつ、今回は、子どもの遊びについて考えてみたいと思います。
自然のままに
ルソーの「エミール」の中から、気になるところを抜き書きしていきます。
生まれたときから十二歳ごろまで、書物などを読ませるべきではなく、もっぱら「肉体を、器官を、感官を、そして、力を訓練させるべきである」(エミール上133ページ)
「子どもの感覚は、すべて感情的なものだから、それが快い感覚であるなら、黙ってそれを楽しんでいる。苦しいときは、子どもはその言語でそれを告げ、助けを求める。ところで、目を覚ましている間、子どもは無関心な状態でいることはほとんどない。子どもは眠っているか、それとも何かに刺激されている」(上76ページ)
「部屋の汚れた空気のなかにじっと座らせておくことはしないで、毎日野原の真ん中に連れて行ってやることにしよう。そこで走り回って遊ばせることにしよう。一日百回転んでもいい。それは結構なことだ。それだけはやく起き上がることを学ぶことになる。」
「私の生徒はしょっちゅうけがをするだろう。それでもいつも快活でいるだろう。あなた方の生徒は、それほどけがをしないかもしれないが、いつも意思を妨げられ、いつも束縛され、いつも悲しげな顔をしている」
ルソーは、常に子供を自由にしてやることを要求している。その自由は、放任や甘やかし、過保護とは違い、厳しさを持っている。
「腕白小僧たちが雪の上で遊ぶとき、こごえて、ほとんど指を動かすことができない。火に温まりに行こうと思えばすぐにでも行けるのに、子どもはそうしようとはしない。それを強制すれば、子どもは寒さの厳しさを感じるより、百倍もひどい束縛のきびしさを感じることになる。子どもを自由にさせておくことによって、現在私は、子どもを幸福にしているのだ。子どもが耐え忍ばなければならない苦しみに対して彼を強くすることによって、私は、将来の幸福を準備しているのだ」(上118ページ)
「苦しみを味わうことのない人間は、人間愛から生まれる感動も、快い同情の喜びも知ることはあるまい。そういう人間の心は、何物にも動かされず、彼は人づきあいのいい人間にはなれず、仲間に対して偽物のようになるだろう」
「実のところ、たえずさしずをして、たえず、行きなさい、来なさい、じっとしていなさい、これをしなさい、あれをしてはいけません、などと言っていたのでは、子どもを愚図にすることになる。いつもあなたの頭が彼を動かしていたのでは、彼の頭は必要でなくなる」(上187ページ)
これらのことは、私が子供たちを観察していて、常々感じていることと一致します。
子どもはいつもどん欲に、何か面白いことはないかと、興味をそそられるものへと手を伸ばし、常にそれらから刺激を受けています。
そして、そのように刺激を与えるものは、室内よりも、戸外の方が比べ物にならないほど多様に存在します。
地を這う虫たち。
ピョンピョン跳ねるバッタやカエル。
ひらひら舞うちょう。
水の中に見えるオタマジャクシや様々な小さな生き物。
頬をなでる風。
流れゆく雲。
草原に揺れる野の花。
ズボンにくっつくひっつきむし。
水たまりはたまらなく楽しいし、
雨に濡れることすら楽しくて、外に飛び出してしまう。
流れる水は不思議で楽しくてたまらない。
泥んこに手を入れるのはぬるぬる楽しくおもしろい。
時においしそうな木の実があったり、
くさ~いカメムシがいたり。
子どもたちが外が大好きなのには訳があります。
そこは楽しく、不思議で、手を伸ばしたくなるものにあふれているからです。
その探求のためには、凍えるように寒かろうが、汚れようが、転んで多少けがをしようが、時にたんこぶつくろうが、構わないのです。そこに命の危険さえない限り。
それが生きるということに他ならないからです。
それが自然な姿であるからだと思うのです。
ルソーの言う「味わうべき苦しみ」とは、自分がやりたいことを遂げようとするときに伴う、自然の厳しさに対する苦しみであり、大人によって束縛される奴隷のような苦しみではないのです。そういった、奴隷のような苦しみは、いかなる苦しみも与えるべきではないと主張しています。
生きるということ
「人々は、子どもの身を守ることばかり考えているがそれでは十分ではないのだ。大人になったとき、自分の身を守るということは、運命の打撃に耐え、富も貧困も意に介さず、必要とあれば、アイスランドの氷の中でもマルタ島の焼け付くような岩の上でも生活していけることを学ばせなければならない。」
「死を防ぐことよりも、生きさせることがまずもって何よりも必要なことであり、大事なことなのである。生きるということは、それは呼吸をするということではない。まさに活動することなのだ。私たちの器官、感覚、能力を、私たちを存在せしめている体のあらゆる部分を用いて生かすことだ。もっとも長生きした人とは、最も多くの歳月を生きた人ではなく、最も良く人生を体験した人たちである。」(上33ページ)
ルソーは12歳までは本を読ませるなと主張する。その代わりに「実物」による教育の重要性を強調する。実物に対応する正確な「観念」を持っていないのに空疎な「ことば」だけ覚えても、何の意味もないどころか有害である。
自分の五感で自然を感じたことがない人々に「自然」ということばをぶつけても、なにも響かない。子どもは大量の空疎なことばを記憶するよりも、まず初めに少量でいいから正確な観念を持つべきだ(体感するべき)、というのがルソーの言う「自然による教育」の主張であると思うのです。
今日も氷点下で、暴風雪注意報が出るぐらいの風の中、「サスケ」で遊んでいる子ども達です。
一人は、手袋もしていません。最終的に、手が冷たすぎてロープがつかめないと気が付いて、手袋をとりに来ました。
体験するから学びます。
雪の中にジャンプしたり
スリルを求めて、雪の中、歩くことは苦にならない。
上った結果、こんなにスリル満点なジャンプコースがあるのだから。
田んぼの中をのぞけば、
そこはミジンコの世界。こんな顕微鏡で見なければわからないような小ささなのに、ちゃんと生きてる、その不思議さ。
川原でみつけた石の中に、水晶を見つけた喜び。
てこの原理を使って、大きな石を動かしてみる!
泥にまみれ
雪にまみれ
木に登り
命をいただく
時に力を合わせて大きなことを成し遂げる。
遊び疲れて眠りに落ち
大人にばからしいからやめなさいと言われるようなことも
危ないと言われそうなことも
でも、楽しくて
楽しくて
楽しくて
楽しくて
楽しくて
楽しくて
楽しくて
楽しくて
そんな、楽しくて楽しくて仕方のない子供時代を、どうか過ごさせてあげてほしい。
子どもたちの、この楽しくて楽しくて仕方のない瞬間を、たくさん共にしてきたからこそ、このことが、子どもたちにとっての本能であり、自然なことであると思うのです。
これこそが、子どもたちが、まさに「生きている」瞬間です。