最近思っていること。
私たちは、他者と関わりあい、共生する存在であるということ。
今日はちょっと長文ですが、お付き合いください。
私たちは、「いきもの」ですよね?
ほかに「いきもの」をできるだけたくさん上げてください。
と言われたら、あなたは何を思い浮かべますか?
ゾウ、キリン、ライオン、クジラ・・・大きな生き物から、
犬、猫、馬、牛、豚、鳥・・・身近ないきもの。
タコ、イカ、サンマ、サケ、マグロなど、海の中のいきもの。
カブトムシ、クワガタ、バッタ、トンボ、カマキリ、蝶、アリ、テントウムシなどの昆虫。
カエル、トカゲ、ヘビなど、爬虫類、両生類。
ハエ、蚊、ゴキブリ、蜘蛛、ナメクジなど、嫌われ者。
ミミズやゲジゲジ、ダンゴムシ、ムカデ、ミルワームなど、土の中にいる生き物。
ミジンコやゾウリムシ、アメーバー、ミカヅキモなどなど、水の中にいる微生物。
植物だっていきものです。
カビ、酵母、キノコだっていきものです。
大腸菌や乳酸菌、ビフィズス菌のような最近だっていきものです。
「いきもの」とは何でしょう?
生物学という学問の中での定義では
(1) 外界と膜で仕切られている
(2) 代謝(物質やエネルギーの流れ)を行う
(3) 自分の複製を作る
それが「いきもの」です。
私たちも、いきものの一種ですよね。
冒頭でたくさんの「いきもの」を思い浮かべていただきました。
細菌や微生物から、虫や動物、植物まで、たくさんの「いきもの」がいましたね。
私たちも、その、いきものの中の、脊椎動物の中の哺乳類の中の人間です。
「私たち」とは、どこからどこまでか?
さて、そんな「いきもの」である私たちですが、
私たちが「私たち」というとき、どこからどこまでが「私たち」だと思っていますか?
私たち家族。
私たち学校の友達。
私たち職場の仲間。
私たち市民。
私たち県民。
私たち日本人。
私たち人類。
私たちいきもの。
おそらく、人それぞれ、その時々によって、「私たち」の定義は変わると思います。
けれど、「私たち」と言うとき、私は常にその中に含まれていますよね。
私だけこの丸の外にいて、丸の外から「私たちは・・・」などとは言わないのです。
もちろん、例えば、「私たち日本人」と言ったときに、「私」の数だけ、たくさんの「私たち家族」がそれぞれこの丸の中に存在します。
現代、「私たち」と言うとき、その、たくさんの「私」や、「私たち家族」が、それぞれ独立して分かれていて、そのつながりが見えない状態になっているのではないかと思っています。
それぞれの家族は核家族化しているし、家族の中ですら、「私」だけが孤立している場合もあります。
それぞれの国も独立してますし、貿易、交流してるとはいえ、他の国を脅かす戦争もなくなりませんね。
それって、それぞれが考える「私たち」の範囲が、とても狭いのではないのかと思うのです。
「私が良ければそれでいい?」
例えば・・・
*私は車で急いでいた。なかなか車が途切れず、吹雪の中、道路が渡れなくて困っている人がいた。私は車を止めてその人を渡してあげる?それとも、誰かが止まってくれるだろうと、自分は急ぎ通り過ぎる?
*のどが乾いたら、自販機でジュースを買った。歩きながら飲んでたけど、カバンがないからゴミ持って帰るの面倒。ゴミ箱もないし、いいや。ここに置いちゃえ。きっと誰かが片付けてくれるでしょ。・・・誰かって、誰?そのまま風に飛ばされて、川に落ちたら、そのまま海へ・・・。
「私」の考える「私たち」のなかに、地域の人は含まれている?
「私たち」のなかに、海や川で暮らす生き物たちは含まれている?
ゴミを片づけてくれる誰かは、「私たち」に含まれていない?
「私たち日本人が良ければそれでいい?」
例えば・・・豊かな暮らしが当たり前で、100均や、安売りは家計にも優しいよね。でも、その安い商品の裏側で、安い賃金で過酷な労働をせざるをえない人たちがいるのも知ってる。環境を破壊していることも知ってる。
でも、安い商品は、経済的にも助かるし、仕方ないとも思ってる。
ほんとにそれでいい?
「私」の考える「私たち」のなかに、他の国の人は含まれていないの?
「私たち」が便利で快適に暮らすために、見えない他の国の人が困っていても、関係ない?
一方的な関りではダメなんです
それぞれが、一方的ではなく、相互に関わりあえる関係になった時、私たちは心地よさを感じたり、楽しさを感じたり、幸せを感じたりするのではないでしょうか?
例えば、私たちが楽しいと感じたり、ワクワクしたりするときは、「私」の中からやりたいことが沸き上がって、実際やってみたら楽しいですよね。
でも、反対に、「私」の外側から、他人があれをしなさいこれをしなさいって、命令されてやるのは楽しくないですよね。
ベクトルが、自分から外に向いてるときは楽しくて、外から自分に向いてるときは楽しくない。
でも、ベクトルを常に外に向けてばかりだと、それぞれのベクトル同士が反発しあって、対立してしまうこともあります。あっちのやりたいことと、私のやりたいことが正反対だったら、対立しますよね。
「私は遊びたい」⇔「お母さんは遊んでないで勉強しなさいと言う」というように。
「私が楽しい」という状態になるには、「私たち」それぞれが相互に関わりあって、お互いの心地よい着地点を見つける必要があるのだと思っています。
あくまでも、自分の内側から外にベクトルは出ているのですが、気持ちの中では、相手はどう思っているのかな?自分がベクトルを向けたその先に、困っている人はいないかな?と、「私」の外側の世界に思いを向ける必要があるのです。もし、そこで対立が生まれるようだったら、やり方を変えたり、折り合いをつけたり、歩み寄ったりする必要がでてくるのです。
どちらかにだけ不利益が生じないように。
相手に不利益を生じれば、いつか自分に痛い思いとして帰ってくるでしょう。
例えば、私たちは、木を伐り、森を削り、経時的に発展してきましたが、それは、森の木々や、そこに暮らす動物たちにとってはうれしくないことですよね。その結果として、土砂崩れの多発や、温暖化の加速にもつながっているのかもしれないし、森が水を貯える能力を失うから、夏に水不足が起きたりする。森の食べ物がなくなるから、熊が里に下りてきて、獣害にあったりもして、結果的に私たちが困ることになっています。
でも、もし、木を切るときに、そこに住む生き物たちも、この地球に暮らす「私たち」の仲間だよねって思えたなら、森を皆伐することはしないだろうと思うのです。「私たちが使う分の木を、ちょっと分けてくださいね」っていう、宮沢賢治の世界のような心持ちを持っていたなら、こんな世界にはなっていなかったのだと思うのです。
私たちは一つのいのち
私たち人類の起源をたどってゆくと、アフリカにたどり着くという説があります。
でも、人類の始まりが、アフリカのホモ・サピエンスからだだったとして、アフリカの人類の始まりの、さらにその前にず~っとさかのぼっていくと、今から46億年前に地球が誕生し、38億年前に、突如海の中に生命が現れました。
32億年前に光合成をおこなうシアノバクテリアの誕生。その後、シアノバクテリアが大量発生し、地球には酸素が大量発生します。その頃、酸素は小さな細胞にとっては毒でした。
21億年前、酸素を使うことができるミトコンドリアや葉緑体をその体内にとりこみ、酸素の毒から身を守る大きな細胞が生まれました。ほかの細胞と共生した真核生物の出現です。
そうやって、酸素を利用できる細胞を取り込みながら、どんどん大きな細胞が出来上がっていきます。
細胞が集まり大きくなると、目に見えるようになります。
カイメン、貝やヒトデ、エビの仲間の登場。目ができ、海の中は、食べるもの、食べられるもの、追うものと逃げるものが一緒に生きる世界になっていきました。
次に背骨を持つ生き物が生まれ、
今から5億年前、水から陸へ上がる大冒険が始まります。
そうやって進化してつながってきたいのちは、今の私たち自身につながっています。
生命の誕生から地球の命の歴史を振り返ると、私たちは、みんな、どのいのちも、一つのいのちから始まったことになります。
私とあなたは、昆虫も犬も、ゾウも、鳥も、魚も、微生物も、細菌も、おなじ地球上のいのちとして、たったひとつのいのちから始まったいのち。
ここで再び問います。
「私たち」とは、どこからどこまでが「私たち」なのでしょうか?
私たちは、異なる細胞と共生する道を選んできました。
言い換えれば、共生することで生き延びてこれたわけです。
共生するためには、他者と、一つの共同体になる必要があり、助け、助けられ、思い、思われ、つながり続ける道を選んできた生命が、私たち人類であると、思えないでしょうか?
私たちは自然の一部であることを感じてほしい
私たちは、地球の一部であり、自然の一部であり、生き物の一部である。
今回、こうやって文章として見てみて、
あぁ、そうだよな。
と、感覚的に腑に落ちる人と、言ってることは分かるけど、きれいごとだよと思う人がいるのではないかと思っています。
この感覚が分かる人は、少なからず、自然の中に身を置いて遊んだり、楽しんだりした経験のある人ではないかと思っています。
ネットの情報、教科書や本のなかで勉強してきただけの知識ばっかりだと、感覚として腑に落ちることはないのではないかと思うのです。
この感覚は、やはり、自然の中で遊んできたから感じる感覚です。
自然と共に暮らしてきたからこそ感じられる感覚です。
移り変わる季節。食を通して感じる季節。遊びを通して感じる自然。自然の中に息づく命との出会い。
五感を通して感じることは真実です。
頭で理解することには間違いもたくさんあります。
自然とつながる体感を、どうぞこどもたちに味合わせてください。
わたしたちは、切り離された、独立した存在ではないのです。
私たちは自然の一部であることを感じてほしいと願っています。