子供時代に、どれだけやりたいことをやりたいようにやるか

子供時代、大人に、あれはだめ、これはダメ、○○しなければ××しちゃだめ、そんなことしてないではやくこれやりなさい、あなたはこれをやってればいいのよ・・・等々。

禁止、否定、行動の制限、条件付きの愛。

子どもにとって良かれと思い、ほぼ無意識に発してきた言葉で傷つき、大人になってなお、それらの言葉が根強く潜在意識に残り、心を痛めている方をたくさん知っています。

そういう方が苦しむことの一つに、自分の好きなことが何かわからない、自分の本当にやりたいことが分からない、ということもあるようです。

「好きなことをやりなさい。あなたはあなたのままでいい。」そう言われれば言われるほど、自分が好きなことが見つからなくて、よけいに苦しくなってしまう人もいます。

そう思うと、子供時代の大人の関りって、実はものすごく子どもに影響しているな~と感じています。

大人の言葉だけでなく、友達、兄弟、もしくは社会からも影響されています。

好きなことをやっていたら怒られた。

好きなことやってたら、そんなこと何になるんだとわかってもらえなかった。

好きなことやってたら、何それ、変なの、ってからかわれた。

いろんな他人の反応によって、傷ついたり、恥ずかしい思いをしたり、悲しくなったりすることで、もう二度とそんな思いはしたくないと、どんどん「自分の好き」を押し殺していってしまうのです。

自分軸で生きるか、他人軸で生きるか

大人になった今、自分の好きなことを、自分の気持ちに正直に生きている人、自分軸で生きてる人って、なんだか輝いて見えます。

一方で、やりたいことをやり、後悔のない人生を歩んでいるように見える人をうらやましく思い、自分は好きなことも見つからず、悶々として、なんだか自分は何のために生きてるのかわからなくなってしまうという人も、少なからずいます。

だけど、本来、だれしも好きなことをやり、生き生きとした人生を送れるはずなんです。

ただ、子どものころから、繰り返し繰り返し好きなことをやてたら怒られた、からかわれた、否定されたというネガティブな記憶から、人は、知らず知らずに好きなことをやっていてはいけないというメッセージを受け取っていくのだと思います。そして同時に、言われたとおりにやったらほめられた、というような記憶が重なり、だんだん、お母さんはこうすればほめてくれるだろう、とか、相手はこうしたら喜んでくれるはずだと、人がどう思うかを気にしながら、他人軸で行動するのが癖になってきます。

それが10年、20年と続くうちに、はたと途中で気がつくんです。

あれ?そもそも自分は何がやりたかったんだろう?って。

今、好きなことをやって生きている人の中には二パターンあるように思います。

一つは、子供時代から、思いっきり好きなことをやってきた人。それを許されてきた人。

虫好きで、むしとりに夢中になった子供時代を過ごしていたとか、モノ作りがすごく好きで、子供時代はあれこれ分解して中の仕組みを知りたがったり、自分で何か作ることに熱中していたとか、絵をかくのが好きで、時間を忘れて絵を描き続けていたとか、とにかく野山を駆け巡り、日が暮れるまで遊びつくしていたとか、寛大な親の元、何かに熱中してきた子供時代を過ごした人たち。

もう一つは、そんなことは無駄だからやめなさいと言われても、まったく親の言うことを聞かず、とにかく親に、大人に、怒られ続けながらも、自分は自分のやりたいようにやると、反骨精神が強く、困難を乗り越えようとする強い気性を持っている人。

ただ、もしかしたら、そんな人は今は一握りかもしれません。多くの子は、「そんなことやめなさい」と言われれば、素直に親の言うことを聞いてしまい、大人が喜ぶようにふるまってしまうでしょう。

親としては、言うことを聞いてくれる子の方が育てやすいのですが、実は、そうやって育ってきて、大人になって悩む方も少なからずいるのです。

好きなことをやる時間がない子ども達

子供時代に思う存分好きなことをやらせてあげてほしいと思うのだけれど、今の子供たちはとても忙しいのです。

学校が終われば、塾や習い事、部活がある。土日は部活で試合だったり、塾の試験や検定があったり。

子どもたちは、やらなければならないことで時間を埋め尽くされて、帰ったら宿題やってご飯たべて、お風呂入って、ちょっと息抜きにゲームでもして、そしたらもう、寝る時間です。

好きなことをやる時間って、子ども達にありますか?

ボーっとする時間、一日の中にどれぐらいありますか?

本来子どもというものは動き回るものです。

好奇心御旺盛で、気になったら、頭より体が先に動いてしまうような、そんな存在です。

やってみたいと思ったら、まずやってみる。

それで失敗したとしても、そこから何かを学んでいくものです。

ごみ袋で空が飛べるかもしれないと思って試してみたくなることもある。(ほんとに高いところから飛ぼうとするなら、全力で止めますが)

無意味に見えるんだけど、ただただ木をトンカチで破壊していく子もいたり。

とにかく深く穴を掘って、地球の裏側まで掘ってみようとしてみたり。

深く掘るのをあきらめて、横穴掘って秘密基地に代わることもある。

自分の限界に挑戦して、ちょっと怖いな、って思う高さから飛び降りて見たかったり

雨に打たれてみたり

そんな、大人からしたら、無駄だ、できっこない、なにやってるの?っていうようなことも、実は子どもにとっては自分な好きなことに気づいていく大事な体験だったりするわけです。

で、そういうことを許してくれる大人がいると、受け入れられてるという安心感の元、またさらに挑戦できるのです。

でも、気になるのは、最近、教育虐待という言葉も出てきているくらい、多くの子どもの時間が、やらなきゃいけないことで奪われているように思えてなりません。

『ルポ教育虐待』

という本の中に、教育虐待に陥らないためのこんな自問リストがあります。

(1)子どもは自分とは別の人間だと思えていますか?
(2)子どもの人生は子どもが選択するものだと認められていますか?
(3)子どもの人生を自分の人生と重ね合わせていないですか?
(4)子どものこと以外の自分の人生をもっていますか?

そして、「子どもの人権」の「三つの柱」があると伝えています。
(1)『生まれてきて良かったね』と言ってもらえる。
(2)『ひとりぼっちじゃないからね』と言ってもらえる。
(3)『あなたの人生はあなたしか歩めない』と認めてもらえる

子どもは自分の所有物ではなく、一人の人格を持った人として考えることが一つ。

そして、その存在を、ただただ認めてもらえることが一つ。

その上で、

あなたはどんなことに興味があるの?

どんなことが好きなの?

そう、そういうのが面白いと思うのね。

そうだね。すごくおもしろいね。

もっとやってみる?

そんな関わりができたなら、大人になったときに「自分のやりたいことが見つからない」なんていう悩みにはぶつからないのではないかと思っています。

自分がやりたいことが分からない

大人になって、はたと気づいてしまった人は、ひとつづつ、まずは子供のころの自分に戻って、そういえば、絵をかくのが好きだったな。とか、本読むの好きだったな~、そういえば最近本読んでないな~。ちょっと本屋に行ってみようかな。とか、思い出しながら、今の自分がちょっとやってみたいな、って思うことを実際にやってみるといいと思うんです。

人は、発達の過程として、まず感じることが先に必要です。

感じることを先にやらないと、地に足がついていない根無し草のように、ふらふらと、自分が分からないという状態に陥りやすいのではないでしょうか。

 

6歳ごろまでに脳の9割が成長すると言われていますが、それらは五感で感じ、感じたものを快か、不快か記憶の中にインプットしていくことで、この世界に適応した脳に発達していきます。

どれだけたくさん感覚をインプットしたかによって、その世界に対する視野が広がります。

子供時代にインプットした感覚があって、のちに知識として学習したときに、初めて自分の感覚と世界がつながりをもつのです。

例えば、虫は嫌い!という子の場合、小さな頃に、虫にかまれたとか、嫌な思い出がある場合もあるし、虫を触っていたらお母さんが悲鳴を上げて怖がる姿を見て、虫は怖いものだとインプットされた場合もあるでしょう。そういう場合、虫を触りたいと思わなくなるでしょう。

だけど、あるとき、「へ~!この虫、すごくおもしろいね!」なんて人に出会ったとき、え?そうなの?って、はじめて虫をよく観察してみたり、あ、意外ときれいかも、とか、ちょっとツンツンってさわってみたり、あれ?怖くない虫もいるかもしれないって気が付いて、後で調べてみたら、なんだ、ちょうちょの幼虫だったのか!それなら怖くないかも、ってなることもある。

平気な子なんかは、カマキリだって臆さずつかまえちゃうし、大人がいくら探しても見つけられないものを次々見つけちゃったりする。あの辺にいそうだ!という、何やら野生の感がはたらいてる子もいます。

でも、そうやって虫が好きになっていくと、虫がいそうな場所っていうのがわかってくる。

そしたら、草むらがないとこの虫は生きられないんだとか、森がないとこの昆虫は生きられないんだとか、きれいな水じゃないとこの虫は生きていけないんだっていうことを体感としてしっていく。

そういうことが、自然とつながる力になっていく。

自然とのつながりが感じられないっていうのは、こういうこともあるのだと思っています。

 

ちょっと話がそれましたが、大人になってからでも、

自分が心地いいと感じることに目を向け、心地いいを心行くまで感じてみる。

逆に、いやだな、って思うことは、ああ、自分はこういうことが嫌なんだな、って自分の感情に気づいてあげる。

そして、何でもいいからやってみて、これは心地よいのか、不快なのか、自分の感情を見つめてみる。

 

子どものうちは、やってみて、感じる中で無意識にそういうことやっているんだけど、なにせ、大人になってしまうと、脳の急速な成長はほとんど終わっているわけですから、子どもの頃より、はるかに時間がかかり、自分の好きなことに気づくまでには時間がかかってしまうのは仕方のないことです。

ですが幸い、大人になっても、「可塑性(かそせい)」と言って、脳は変化し続けることができるので、脳の発達の適期を逃したとしても、大丈夫のようなんですね。

ひとつひとつ、時間をかけてでも、感じる部分を取り戻していったなら、自分の好きなこと、自分がほんとはやりたかったことに、きっと気付けると思うんです。

自分探しで他に答えを求めるのではなく、自分の感覚に耳を傾ける。

そのためには、行動しなくちゃいけません。

感じるためには、やってみないとわかりませんよね。

 

大人になってからだとそういう感覚を取り戻していく作業は大変なんだけど、子どものうちなら、難なくできる。

そういう期間が、子供時代にはあるのだと知っていてほしい。

やりすぎ教育(武田信子 著)

という本もありますが、子どもにやらせる教育もほどほどに。

子供時代は、たっぷり遊べて、自由にできる時間を確保してあげてほしいと思っています。

夏休みの子供たち

そして、私が関わる子ども達は、毎日毎日、よく遊び続け、可能な限り遊べる時間を遊びきった夏休みでした。

セミ取りに夢中になり、偶然見つけたセミの羽化を見つめたり

セミを捕まえようと木に登ったり

時には海で砂まみれになり

波の音を怖がりながら、砂遊びするちびっこや

でも、ちょっぴり怖がりながらも海の水に足を浸してみたり

暑いけど遠くに行けない日は、近所の川で生き物探ししてみたり

身近な川に住む生き物を観察したり

夏休みのプレーパークでは自分の作りたいものを作る子、

巣箱作ってみる子がいたり、ただ、色をきれいに塗りたい子がいたり

トンボとりで大量のトンボを捕まえてくる子

庭で水鉄砲戦争したり

雨続きの後半は、家の中でいろんな遊び考えて遊んでたり

暑くてしょうがない日はセルフかき氷したり

揚げたてのジャガイモをおいしいおいしい言いながら食べたり

みんなで食べたパンケーキのおいしかったこと。

川遊びで天然のウォーター滑り台を楽しんだり

大きなトンボつかまえるのに夢中になったり

湖でしじみとりしたり

自転車でプチ旅行してみたり

家から3時間、自転車で湖畔のキャンプ場まで走り抜け

湖畔に映る月を眺めながら過ごした夜も。

たくさんたくさん遊んだ子供たち。

こんな子供時代に感じたことが、きっと、これからの子の子達の土台になっていくと信じています。

何のために生まれてきたのか?

今年も、デイキャンプとはいえ、川遊びとホタルキャンプができました。

じりじりと照り付ける太陽のもと、川の冷たさが足に心地よく、子どもたちは最終的には全身びしょぬれ。

ホタルの餌のカワニナに、ヤゴ、トビケラの幼虫、美しい瑠璃色の体のミヤマカワトンボ、小さな魚が泳いでいるのを見つけては、網ですくってみたり。生き物探しに夢中になっている間に、今度は逆にぶるぶる震えるぐらい寒くなり、川から上がると、再び太陽がじりじりと照り付け、冷えた体を温める。太陽の温かさがありがたい。

林の中でぴかぴか光るヒメボタルに感動し、満天の星空を眺め、天の川を見つめる。

流れ星だと思ったら、ふんわり飛んで行くホタル。

とても贅沢な時間。

生きてる実感。

そんなとき、ふと思います。

私たちは何のためにこの地球に生まれてきたのだろう?

この美しさを見ずに、この感動を味わわずにいるなんて、なんともったいないことだろう。

この地球に生まれてきたわけ

「何のために生まれてきたか?」と問われたなら、

きっとそれぞれ、いろいろな答えを持っていることと思います。

 

愛するために生まれてきた。

体験するために生まれてきた。

誰かの役に立つために生まれてきた。

成長するために生まれてきた。

幸せになるために生まれてきた。

ただ、存在するために生まれてきた。

正解はないのかもしれません。

それぞれの中に、きっと答えがある。

 

私はどうかと聞かれたとき、最近は、

「この地球のすべてを感じるために生まれてきたのかもしれない」

と思うようになっています。

 

こんなにも世界は美しい。

生き物たちの面白くもあり、神秘的なその生態。

驚きにあふれた地球の姿。

こんなに世界は面白い。

こんなにも地球はすごい。

こんなにも生き物たちの生きる戦略がすごい。

身の回りをよ~く見てみて。

私たちの周りには、実は見えていなかった驚きの世界が広がっている。

私は日々、そういうものに感動しています。

だから、子ども達にも、この感動を味わってほしいと考えています。

ネットで見るだけでは感じられない、

川の冷たさ、太陽の温かさ、木の葉をゆらす心地よい風、生き物たちの求愛のダンス、羽化する瞬間に立ち会った驚きと喜びと・・・

その瞬間瞬間の感動を。

セミが羽化する瞬間の透明なはかなさ。

この、淡い透けるようなグリーンも美しい。

川遊びで歩いた川の、山から合流してくる沢水の冷たいことと言ったら!

ダムでためた水に比べると、冷たくて、きりっとしています。

美しい川トンボたち

子どもたちは、思いもかけないものを捕まえたりします。

大きなオオルリヤンマの美しい青。

時には子どもが捕まえた野ウサギ

時には絶滅危惧種スナヤツメとか、

思いがけず川でモズクガニに出会ったことも。

 

いろんな生き物に出会うたびに感動を覚えます。

いつどこでどんな生き物に出会えるかわからないところがたまらなく楽しい。

 

こんなおもしろいこと、経験しないまま大人になっちゃうなんて、もったいない!

それが、私たちの原動力です。

地球を感じると・・・

こうやって、自然に触れ、そこに住む生き物たちに触れることで、私たち自身が、生き物たちと、彼らの住む世界とつながっているという感覚が、無意識にインプットされます。

私たちは自然から離れすぎていないでしょうか?

 

朝起きてから寝るまでの間、鳥の声を聴きましたか?

そよぐ風に揺れる梢の音を聞きましたか?

虫たちの羽音を聞いた?

身の回りに緑はある?

木陰は涼しくて気持ちいいでしょ?

あなたの周りで今、どんなお花が咲いてる?

お花にチョウやハチの姿を見つけた?

最近虹を見たのはいつ?

夜空を見上げてみた?

月を美しいと感じたのはいつ頃?

小さな命が生まれる瞬間を、見て!生まれたよ!!すごいね~!って、一緒に眺めたことはある?

私の住む青森は、自然豊かなので、比較的身近に自然を感じやすいのですが、それでも、ここにある自然は、面白くて美しくて、豊かなものであると認識していないと、ただの通り過ぎる風景としかとらえられず、「ここにはなにもない」と感じてしまう人も多いのです。

まずは、その豊かさを感じること。

感じないままに、本でいくら勉強したとしても、映像で、バーチャルで、自然や生き物の姿を見たとしても、リアルに見つけた、触れた、その感動は味わえないのです。

感じることなくして、自然と、地球とつながっているのだと感じるのは難しいと思っています。

赤ん坊は、まず、自分の手足を動かして、口に入れてみて、それが自分の一部であると知ります。

そして、見えるものすべてに触れ、口に入れ、確かめようとします。

感じることからしか、この世界を認識することができないのです。

それは、ヒトの脳の発達がそのようになっているからです。

 

自然での遊ばせ方が分からない

「子どもを自然で遊ばせたらいいというのはわかっているんだけど、どうやって遊ばせていいかわからないんです」と、よく言われます。

実は、自然で遊ばせる遊ばせ方なんて、ほんとはないんです。

私たちがやっているのは、子どもを自然の中に連れて行き、そこで、ただただ子供とそこにあるものを観察したり、面白がったりしてるだけなんです。

一緒に、川の音に耳を傾け、一緒に川の水に足を浸してみる。

一緒に、セミの鳴き声を聞く。

一緒に、トンボの姿を眺める。時につかまえてみて、じっくり観察してみる。

アリが、自分の体より大きな虫を運んでいく姿を眺める。

バッタを捕まえようとしたら、ものすごい跳躍力で飛んで逃げる。

つかまえた手の中のバッタがすごい勢いでピョンピョン跳ねる。

甘い蜜、甘くない蜜で、これは当たり、これははずれ、って言いながら花の蜜を吸ったり、

海辺で砂を掘ったら、砂の下は冷たくて気持ちよく、水がだんだんしみだしてくる。

砂を掘ってたらピョンピョン飛ぶ小さなハマトビムシを見つけたり。

海に入ったら、ざぶんとやってきた波が顔にかかって、しょっぱ~!!ってなったり、

そんな風に、この世界を、感じ、味わい、触れながら、この世界を探検していくことだと思うのです。

大人は、子どものそばにいて、

「ほら、こわくないよ。この世界はこんなに楽しいよ。」

「見て見て!ほら、こんな面白いんだよ!すごいね~!」

「よく見て見ると、すごくきれいだね!」

っていうように、率先して自然を楽しんで、子どもに伝えてほしいのです。

子どもが見つけた面白いものを一緒に喜び、ともに感動してほしいのです。

 

自然で遊ぶ力は、そうやって身についていくものだと思うのです。

子どもを自然で遊ばせようとするのではなく、

一緒に自然を楽しむのです。面白がるのです。一緒に感動するんです。

 

そうすることで、この地球とのつながりを体感するようになるのです。

私たちが、地球とのつながりを感じないまま、虫は嫌いだから自然は嫌いだと言い、

落ち葉が邪魔だからと木を切ってしまい、

草が伸びてきて邪魔だからと除草剤で枯らしてしまい、

木に虫がつくからと、殺虫剤をまいて虫たちを殺してしまう。

自然は人がコントロールするものだと思い込み、コントロール可能な自然に作り替えようとしてしまう。

そんな風に生き続けたら、7世代先まで地球は持たないのではないかと感じています。

7世代先まで考えたら、地球を感じることは必要不可欠だと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すべてのいのちが愛おしい


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私のFBの投稿は、日々、子どもたちのことや、我が家で飼っているカイコ、庭で見つけたアゲハの幼虫、庭にやってくる鳥から、自然の美しい景色、はたまた顕微鏡で見た微生物まで、いのちの躍動を感じ、感動したことを主に投稿しています。

なぜ、そんな生き物たちの投稿ばかりしているかというと、私は、日々、そういう生き物たちと共に暮らし、日々感動しているからなのです。

いのちの不思議さ、おもしろさ、神秘的な世界、美しさ・・・それらに触れるたびに、すべてのいのちが愛おしいと感じるのです。

神秘的ないのち

一滴の水の中に生きる無数のいのち。

顕微鏡でのぞかなければ見えない世界。

そんな小さな小さな世界にもちゃんといのちのドラマがある。

カマキリの赤ちゃんは、温かくなると一斉にこの世界に飛び出し

庭の山椒の木にやってきたカラスアゲハの幼虫は最初はこんなに小さいのに

脱皮を繰り返し大きくなって

さなぎを作るころにはエサから離れて、安全な場所を探して旅をします。

今年は、ナミアゲハの幼虫を背中にのっけて旅に出たカラスアゲハの幼虫。

あちこちで蛹になられても困るので、虫かごに入れて置いたら、ふたの裏でさなぎを作ることに決めたようです。

翌日にはしっかりさなぎの形に。

ナミアゲハの幼虫も似ているのですがちょっぴり違う。

最初は鳥の糞みたいな白と黒。

カラスアゲハより一回り小さくて、黒いVの字の二本線と、首のわっかが特徴。

ナミアゲハの幼虫も、昨日ここにさなぎを作ると決めたようです。

カイコの赤ちゃんは、ゴマ粒ほどの小さな小さな卵から生まれる小さな命。

それが、桑の葉を毎日たくさん食べて、脱皮を繰り返し、大きく育っていきます。

ひたすら桑の葉を食べ続けますが、カイコは、家畜として改良されてきただけあって、どんなにえさがなくなったとしても、箱から出てくることはありません。じっと、エサが放り込まれるのを待っているのです。

桑の葉集めが大変ですが、桑の葉さえ手に入れば、非常に飼いやすい生き物だと思います。

そうやって一か月半ほどかけて育ったカイコは、丸々と太り、体が黄色くなってきたら、いよいよ糸を吐き始めます。

糸を吐き始めると、一日いっぱい何も食べずに、ひたすら糸を吐き続け、きれいなまゆを作ります。その糸を吐き続ける姿はけなげで、いとしいのです。

卵をとるためにいくつか繭は残し、残りは糸をとるために冷凍してしまいます。

10日~2週間ほどで、カイコの成虫が繭から出てきました!

モスラのようでかわいい♡

白くてかわいいこの子は、羽はあるけど、体が重くて飛べません。

卵を産んだら数日で死んでしまいます。

冷凍した繭は、時間のある時に煮ながら糸を繰り出します。

繭から繰り出して巻き取った絹糸は、とても美しいのです。

そうやって繰り出した糸を、数本まとめてよりをかけながら使える糸にしていきます

よりをかけた絹糸。この量でだいたい繭70~80個分ぐらい。

糸ができてきたら、草木染。上から薄いあかね、紫根、よもぎ、桑の葉。

結構手間がかかるので、、ちょっとづつ、ちょっとづつ

糸を作りためています。

でも、ああやって糸を吐き出し続けたカイコちゃんのいのちをいただいて紡いでいると思えば、絹糸も愛おしく感じます。

そして、今年庭に巣を作り、ヒナが巣立ったモズ。

親鳥がヒナに一生懸命エサを運んでいました。

その一方で、スズメがおうちに巣を作っています。

親スズメがやってくると、ヒナが激しく鳴きます。

お父さんスズメとお母さんスズメが、かわるがわるエサをくわえてやってきます。

今年は、なんと上からヒナが落ちてきてしまい、一羽死んでしまいました。

見つけた息子が、土に返してあげました。

ただ落下しただけなのか、近くでカッコウが鳴いていたから、カッコウの托卵があったのか?巣の中の様子はわからないので、なぜヒナが落ちてきてしまったのかはわかりません。

この前は、モズがスズメのヒナを狙いにやって来たのか、コナラの木にとまると、親スズメが、「危ないぞ!モズが来たぞ!」と、警戒していました。巣の上と、コナラの木を挟んだ向こうの桑の木の上から、お父さんスズメとお母さんスズメが、残ったヒナを守ろうと必死に鳴いていました。

そんな鳥たちの巣の下では、暖かくなってきたら、メダカが次々卵を産んで、

産んだ卵を観察してたら、ちゃんと目玉ができていて、

次々メダカが生まれていくのです。小さな小さな子メダカのかわいいこと。

彼らは、水の中の微生物を食べています。

こうして、繰り返し繰り返し、生まれては次の世代に受け継がれていくいのちの営みを見ていると、神秘的で、面白くて、感動してしまいます。

ちゃんと毎年、日長や気温を感じながら、生まれるべき時に生まれ、暖かくなるととともに、一斉に命が輝きだす初夏のこの季節。

めぐるいのち。

素晴らしい季節です。

すべてのいのちが愛おしい

そして、小さな生き物たちだけではありません。

子ども達も、いきいきといのちを輝かせるのです。

湖の中の生き物探しに夢中になる子ども達。

救った網の中にはエビの赤ちゃんがいっぱい!!

ちょっとぐらい寒くたって、濡れたって、へっちゃらです。

暑い日の川遊びでは、魚を探したり、泳いだり、水を掛け合ったり、とにかく楽しそうです。

きれいな川辺にはきれいな川に住む美しいトンボが。

森では春から初夏にかけてエゾハルゼミが鳴きだし、

ぴょこんと出てくるかわいいカエル。

ちびっこちゃんたちとお散歩すれば、クルミやカタツムリ、いろんなものを見つけます。

カエルちゃんに興味津々。

そして、いきものばかりではありません。

植物も、それはそれは見事に、毎年実をならせてくれるのです。

庭のワイルドストロベリーも

庭のサクランボも

毎年毎年豊かな実りをもたらしてくれます。

子どもたちは木に登り、屋根に上り、サクランボ採りを楽しみました。

小さな小さな命から、鳥や、子供まで。

そして、毎年花を咲かせ、身をならせてくれる植物たちも。

ほんとうに、すべてのいのちが愛おしい。

この感動を子どもたちに

そして、思うのです。

これらのいのちの輝く喜びを、感動を、子ども達にたくさんたくさん味わってほしいと。

インターネットで調べたら、いろんな情報は得られるし、ちいさないのちが生まれる瞬間だって動画でみられます。

でも、本当に目の前でそのいのちに触れ、いのちを感じてほしいのです。

そこには、バーチャルでは味わえない驚きや、感動があるのです。
そして、その喜びは、誰かと共有することで、何倍にもなるのです。

 

夏の冒険キャンプ! 川遊び&ホタルキャンプ募集

今年も川あそびの季節がやってきました!
日中は川遊び。
夜はふわ~りふわ~りとぶ蛍を、眺めながらの暗闇探検。
着替えもたくさん持って、思いっきり川遊びしましょう!

冒険キャンプ詳細

【日時】
2021年7月10日13:00~11日15:00
【場所】
東北町(お申込みされた方に場所はお知らせします)
【対象】
6歳以上
(例年は子供だけの参加も受け付けておりましたが、夜は各家庭でテントや車中泊などをお願いします)
【料金】
一人5000円
【募集定員】
子ども5~6名程度になった時点で受付を締め切ります。
(すでにお申込みいただいており、あと1~2家族程度で締め切ります)
【持ち物】
川遊び用に濡れてもいい靴、またはかかとのついたサンダル(かかとのついてないビーチサンダルなどは不可。大人も同様)、
テント、テントマット、寝袋、食器、はし、水着(または多めの着替え)、長袖長ズボン、靴下(夜の虫刺され防止に)、バスタオル、フェイスタオル、歯ブラシ、虫よけ、虫刺されの薬、飲み水、懐中電灯、あればキャンプ用の折りたたみ椅子。
虫網虫かご、日焼け止め、帽子は各自必要と思われる方。
※キャンプ場は水は出ますが飲用不可なので、各自飲み水をご用意ください。
※テント、テントマットがない方は、2セット貸し出しできますのでご相談ください。(※残り1セット)
【その他】
お申し込み時に、参加者のお名前、生年月日、住所、電話番号、アレルギーの有無、何か注意すべき点があればお知らせください。

過去の夏の冒険キャンプの様子

川の生き物探ししたり

カワニナや川の生き物たちを観察したり

桑の実食べたり

川の奥に探検に行ったり

水切りしたり

魚を捕まえようとしたり

夜になったら川辺でホタルを鑑賞し

夜の虫に出会うことも

やたらとたくさんクワガタに出会えた年もあった。

木登りしたり

スイカ割したり

こんな大きなカニに出会えた年もあった。

石でダムを作ったり

ちょっと流れのある所では、みんなで助け合いながら

カエルを焼いて食べた子もいた

泳ぐ子もいた

自分で釣り竿作って魚を釣ろうとする子もいた
野うさぎ捕まえた子もいた
雨に降られながらも、サッカーして遊んだりもした。
何が起こるか、
どんな生き物たちに出会えるか、
それは、行ってみなければわかりません。
その年によって、出会うものが違うからです。
さあ、今年は何に出会えるでしょう?

2021春の冒険キャンプの様子

子どもの日に行った春の冒険キャンプ。

火おこしに挑戦する子、火が消えないように木をくべ、火の番を進んでやってくれる子、とって来た粘土で素焼きに挑戦する子、目玉焼き作る子、秘密基地を作る子、それぞれ、やりたいことをやりたいように過ごした二日間。

休みだからと子どもをあちこち連れて行ったのに、日記に書いたのは「友達と遊んで楽しかったです」みたいなことってありませんか?

あんなにいろんなことやったのに、それ?って。

それって、よくあることなのですが、子どもの楽しかった記憶の中に一番残るのは、実は、自分がやりたくてやったことだったりします。

 

2021春の冒険キャンプの振り返り

キャンプ場について、みんなが集まるまでの間、せっせと枝を集めてくれた子。

ちょっとその辺を散策して、タラの芽を探していたら、右手にブナ林、左手に杉林。

ブナ林の新緑が美しくて、ウグイスの鳴き声が聞こえてきます。

鳥笛でウグイスの鳴きまねをしてみました。

笹を見つけて、笹船をひたすら作ってみたり。

森の探検では水の生き物探し。

今年はヤツメウナギの影は見つけたけれど、つかまえることはできませんでした。

カエルの卵はいつものところにありました。

フキの葉っぱのコップで、オタマジャクシもすくってみました。

タケノコとおもったら、マムシグサ!毒草です。

マムシグサの根っこは、なんだかお団子みたい!

毒草と言えば、ここはトリカブトもいっぱい・・・

この辺りには、山菜のニリンソウと、トリカブトが並んで生えています。

手前の小さいのがニリンソウ。奥のちょっと大きいのがトリカブト。

これぐらい大きくなったら、ニリンソウには花が咲いてるし、見分けがつくけど、もっと小さいときは、葉っぱが似ていて間違えそうです。

コゴミ、タケノコ、リュウキンカ、ふき・・・大人たちは山菜採りに夢中です。

帰りは崖のところで粘土をとって帰ります。

今年は粘土で何か作りたいらしい。

とって来た粘土は、つぶして、練って、なめらかになるまでこねます。

粘土チームはひたすらこねこね

粘土を焼くために火おこしもします。

ある程度火が安定してきたら、灰の中で焼いてみます。

素焼きに挑戦!

器にしようと思ったけど、ちょっと水が多すぎてゆるくて広がってしまい、お皿っぽい形になったけど、初めての素焼きは、成功と言えるかな。

焚火の合間に、森で木登りしたり

スラックラインや

ロープブランコ

ハンモックで遊んだり

調理用の大事な焚火の火の番をしてくれる子がいたり

薪にする木を切ってくれたり

火の番しながら、大きな木でシーソー遊びがはじまったり

とって来た山菜は

大人の皆さんが天ぷらにしたり

コゴミのごまあえや、つくしのお浸しにしたり

ヨモギをゆでてすりつぶして、ヨモギ団子にしたり。

みんなで焼いたタケノコを皮向いてマヨネーズ付けてたべたり

森からクロモジ摘んできて、クロモジ茶飲んだり

食べ物作ってる間にテントを張るのを手伝ってくれたり

秘密基地作ったり

秘密基地の中にテーブルと椅子を運び込んで、お茶タイムしたり

夜は夜で焚火を囲み

おき火が美しい

みんなで焚火で煮込んだ料理をいただいて、ご飯の後は寝っ転がって満天の星空を眺め、流れ星や衛星を見て、暗闇探検で真っ暗闇の森を歩きました。

日中は半そででもいいぐらい暖かかったのに、日が落ちると途端に涼しくなってきて、夜になったら冬の防寒着が必要なぐらい冷え込みます。

朝は、朝露で靴を濡らしながら、朝日を眺め、お日様が高くなってくるとともに、朝露は乾き、暖かくなってきます。

朝一で焚き付けの杉の葉っぱをとりに行き、さっそく火をつけます。

それ、一度に燃やしすぎ!

朝ごはんの後は再び探検に。

つるのブランコ!
でも、二人で乗ったら、お尻ついちゃいそう。

大人はもう、完全に山菜採りモードです。

タラの芽は残念ながらみんなとられていてなくて、ハリギリをゲット。

リュウキンカも食べられる

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大人が山菜採りに夢中になっている間、何やら男子は戦っています。

ちょっと川に降りて歩いてみたい

ちょっとここ上がるの手かして!

ちっちゃいカエル見つけた

バイバイ、カエル君

この橋、はじっこと真ん中やばいよ!お父さん、大丈夫?

のどかな風景

水車小屋発見!

よし、あともうちょっと。

道路に出た~!!
最後は、じゃんけんグリコで遊びながら帰るよ。

お昼は、パンにはさむ目玉焼きを、子ども達に作ってもらいました。

目玉焼き、作りたい!という子にお任せです。

そうやって作ったご飯はおいしいおいしい♡

空いてる時間にはスケボーや野球やサッカー、バレーボールと、とにかくやりたいことをやって過ごした子ども達。

 

今回は長くなったので、冒険キャンプの振り返りだけ。

次回は、リアルな体験が子どもにもたらすものを、もう少しお話ししたいなと思います。

 

 

2021年春の森冒険キャンプ募集【募集終了しました!】

春の森は、芽吹きのエネルギーに満ちています。そんな春の森で、自分たちで山菜を採り、火おこしに挑戦したり、たき火をし、採った山菜を味わったり。

森の探検コースでは、オタマジャクシやカエルの卵を観察したり、生き物探ししたり。
小川で笹船流したり、崖を登ってみたり。

森の中では、秘密基地作ったり、木登りしたり。
夜は満天の星空を眺め、暗闇探検したり。

春の森の恵みを味わい、体全体で感じ、喜び、バーチャルな世界では体験できないリアルな体験を、子ども達に体験させてみませんか?

冒険キャンプの詳細

【日時】

2021年 5/4(火)12:00~

5/5(水)15:00解散

【場所】 東北町

※場所の詳細につきましては、お申し込みいただいた方に後ほどお知らせいたします。

【定員】子どもの人数が6名程度な達した時点で締め切らせていただきます。

【参加費】

①1泊2日(晩御飯、5日朝食、昼食)/

小学生以上5000円、幼児無料

 

②4日のみDayキャンプ(晩御飯付き)

③5日のみDayキャンプ(昼食付)

※②、③小学生以上3000円、幼児無料

 

 

【注意事項】

小学生のみの参加もOK。その場合は基本的に現地までの送迎をお願いいたします。

小学生以下のお子様に関しては、保護者の付き添いが必要です。また、プログラムによっては、参加できないものもございますので、ご了承ください。その場合は、キャンプ場の広場にて、親御さんとのんびり遊んで待っていただくことになります。

森の探検はやぶの中を歩くこともあります。幼児さんの場合は、基本的に一人である程度歩けるお子さん、小さなお子さんを連れて一緒に探検に行きたい場合はおんぶや背負子など、親御さんが背負って歩ける場合には一緒に同行できます。

※参加される方は、①1泊2日か、②4日Dayキャンプ、③5日DAYキャンプかをお知らせください。また、同時に、保険をかけるため、参加者のお名前、住所、電話番号と、テントの有無、アレルギーの有無(食べられないもの)をお知らせください。

ご家族で泊まりたいけどテントがない場合は一張りのみ貸し出しできますのでご相談ください。

小学生のみの参加の場合は、テントは必要ありません。寝袋を持たせてください。

キャンプする場合は、朝晩の冷え込みが予想されるので、しっかり防寒対策をしてきてください。朝は朝露で靴が濡れますので、長靴があるといいです。

キャンプ場は、水が出ません。また、トイレもありますが、決してきれいなトイレではありません。飲み水は各自持参してください。

持ち物

長靴、長袖、長ズボン、着替え(2~3セット以上必要です。子どもたちはかなり汚します。濡らす場合もあります。着替えは多めにお願いします)、防寒着(朝晩はとても冷えます。冬用の防寒があるといいです)、軍手、飲み水、はし、食器、コップ、歯ブラシ、タオル

大人でアルコール飲みたい方は各自持参。おやつは各自持ち込み自由。

※家族でキャンプする場合は、キャンプ用品一式(テント、テントマット、寝袋、懐中電灯等)。子どもだけの参加の場合は、寝袋だけでOK。

 

これまでのキャンプの様子

春の森キャンプでは、まずは森に親しむところからスタートします。

ハンモックや

ロープの綱渡り

ターザンロープなど、

子ども達が自由に遊べるように、ロープをかけていきます。

そのうち、木登りし始める子もいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

森になじんできたところで、森の探検に出発します。

途中、いい香りのする葉っぱを見つけてはにおいをかいだり、山菜見つけては採ったりしながら森を歩いていきます。

運がよければ、リスやヤマネに会えるかも!

 

 

 

 

 

下の水場に行くと、水たまりにはオタマジャクシの卵!

小川で笹船流して遊んだり

石をめくればヤゴや、水生昆虫に出会えるかもしれません。

春のカラマツは柔らかく、カラマツのブレスレット作りながら歩いたり。

森の探検では、歩きながら、山菜を収穫していきます。

途中、粘土がとれる崖で、粘土を取ってみるときもあります。下は、危なくないところなのですが、落ちたら泥だらけになるスリルがあります。

探検コースから戻ったら、再び森遊びする子ども達。

秘密基地作ったり

弓矢作ったり

弓矢ができたら試し打ち。

焚き火を焚くためにの火おこしチーム。

薪を集めたり、燃やしやすい長さに切ったり。

焚き火ができたらマシュマロ焼いておやつタイム。

テントもみんなで協力してたてます。

晩御飯したくをして

収穫した山菜は、天ぷらやお浸しに。

出来たてのてんぷらをつまむのも楽しみです。

晩御飯のおかずの一品です。

火の番も、大事な仕事。薪がなくなったら枝を取ってきて、火にくべます。

暗くなったら、暗闇探検に出かけ、満天の星空を眺め、暗闇の森がもつ怖さやドキドキ感を味わいます。

そうして、夜も更け、子ども達は夢の中へ。

そして迎える朝。

クロモジのお茶もさわやかな香りです。

森の朝は、鳥の声と、朝の凛とした空気に包まれて、特別な時間です。

子ども達にリアルな体験を!

今は、バーチャルの中でいろんなことが仮想体験できます。でも、分かっているつもりと、実際はまるで違います。
リアルな体験では、野原を駆け回り、森で遊び、森の木々のざわめきを聞き、森の香りをかぎ、森の生き物に触れ、心が躍動します。ワクワク楽しくて、時間がたつのを忘れるほど遊びこみます。

自分たちで焚き木を集め、燃やしやすい長さに木を伐り、自分達で火おこしして、焚き火をつけ、森の恵みである山菜をとって、自分たちで調理して食べる。そんな、自然の中でもたくましく生き抜く力を子ども達に経験させておきたい。そんな想いもあります。

ここは水の出ないキャンプ場なので、持ってきた分の水しか使えません。

だから、水を無駄にじゃぶじゃぶ使うようなことはしません。

水を無駄にせず、環境を汚さないような食器の拭き方、洗い方もあります。

箸がなければ、枝を削って、自分で箸を作ることもできます。

そんな、ちょっとした知恵やは、体験して身につくものです。

トラブルがあっても、あるもので代用したり、とにかく、今そこにあるもので何とかしなければならない。そんなことが起こることはしょっちゅうです。

そういう臨機応変に対応できる力は、リアルな経験からしかはぐくまれません。

リアルな体験が不足してきている今、思いっきり遊びこむことができない状況に置かれた子供たちもたくさんいます。
こんな時だからこそ、自然の中で、たっぷり子どもが遊びこめる時間を作りたいと思っています。

 

お問い合わせ、お申込み、スタッフ募集

お問い合わせ、お申し込みは、ブログ上記にあるお問い合わせフォーム、またはFBのメッセージにてお願いいたします。

①1泊2日か、②4日Dayキャンプ、③5日DAYキャンプかをお知らせください。また、同時に、保険をかけるため、参加者のお名前、住所、電話番号と、テントの有無、アレルギーの有無(食べられないもの)をお知らせください。

 

子どもの人数が6名程度になったら締め切らせていただきます。

また、当日、ボランティアでお手伝いいただけるスタッフも募集しています。お手伝いいただける方は、参加費無料でお食事提供いたします。

子どもが好きな方、子どもの自然体験に興味がある方、自然での子どもの遊び、自然の中にあるリスクなどを学びたい方は、ぜひお声がけください。

子どもたちは、エネルギーを発散していますか?


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週末も、たくさん子供たちがやってきては、家の中だけでは納まらず、外で鬼ごっこしたりボール遊びしたり、卓球やったり、ボールの奪い合いしたり、所狭しと走り回る子供たちの姿があります。

そんな子供たちの姿を見るたびに思うのは、子どもは、エネルギーに満ち溢れているということ。

家の中でただゲームして過ごしたり、習い事で長い時間座りっぱなしだったり、じっとして一日を過ごしてしまっていたら、これほどのエネルギーはどこへ行くのでしょう。

あの、あふれんばかりののエネルギーはどこへ発散されるんだろうか?と思うのです。

幸せを感じるのはどんな時?

「幸せを感じるのはどんな時?」

こんな質問を息子にしてみました。

・食べられるとき

・遊んでいるとき

・好きなことをしているとき

・自由に動けるとき

これだけあれば十分幸せだと。

 

嬉々として走り、飛びはね、動き続ける子どもたち。

いのちの躍動そのものであるように。

それが子ども。

 

食べることと遊ぶことは子どもにとっては同じことなのです。

食べることは、生きるために必要なこと。

それと同じくらい、遊ぶこと、自由に動くこと、やりたいことをやることが子どもにとって必要なことだということなのです。

そういう意味で、子どもに「遊んでないでじっとしてなさい」というのは、どういうことか、想像がつくでしょうか?

孤独感の強い日本の子供

今日、E-project先生のいない勉強会で、「孤独」をテーマに調べました。

その時調べた資料の中に、日本の子供の孤独感が強いというデータがでてきました。

ちょっと古いですが2007年ユニセフの調べによるこの表。

日本が先進国の中でも突出していることに驚きます。

この孤独感と、幸福度の低さは関係あるのではないかと思うのです。

この、孤独感。なぜなんだろうか?と思うとき、一つには、日本の子供が家族と過ごす時間が少なくなっているということがあるように思います。

子どもの孤食も問題になる時代です。

家族一緒に食卓を囲む機会が減ってきているとも言えそうです。

食べる事が幸せだと息子は言ったけれど、息子にとっては家族と食べることが当たり前で、一人で食べることはほとんどありません。

毎日のように友達と自由に遊び、腹ペコになっては、家族と暖かい食卓で食べる事ができる息子は、食べて遊べる、ただそれだけで幸せを感じられるのだろうなと思うのです。

もし、一週間のうち、多くの時間を一人で食べていたなら、彼の感じる幸せはもっと低いのではないかと思っています。

以前、「弁当の日」の竹下さんのお話を聞いたときに、二組の一人親家庭のお話をされていました。

A君は、一人親家庭で育ち、お母さんは毎日仕事で遅いので、一緒にご飯を食べることはほとんどなく、お母さんが出掛けるときには、晩御飯これで食べるようにと、五百円玉が一枚テーブルにおいてある。A君はコンビニでご飯を買い、一人で食べる毎日。

B子さんも、同じように一人親家庭で育ち、同じようにお母さんは忙しいのだけれど、遅くなっても子供と一緒にご飯を食べたいと思ってくれている。忙しくてごはん作ってる暇はなく、お総菜を買ってきて、チンして温め、お皿に盛り付け、遅い晩御飯を一緒に食べる毎日。

A君は後に事件をおこし少年院へ。

そこで彼が語ったのは、「おれ、何のために食べてるのかわからない。ただおなかがすくから食べてただけ。飯なんて、何食っても一緒」と。

B子さんは後に、自分で簡単なごはんは作れるようになり、「お母さん、私のためにいつも大変だから、私が晩ごはん作るね」と作ってくれるようになる。

そんな二人のエピソードがありました。

お腹を満たすためだけに食べるんじゃない。誰かと、何気ない話をしながら暖かいご飯を食べる。お腹と一緒に、心も満たすために食べているんだと、その話を聞いて思いました。

そして、孤独感のもうひとつの原因は、「遊ぶ友達がいない」です。

遊びたくても塾や習い事が一杯で、遊べない。自分だけ暇でも、友達は忙しい。だからゲームでもて余した時間を消耗するしかない。

友達と遊ぶことができないというのは、つながりを保てない。一緒に笑いあうことができない。バカ言って笑ったり、くだらないことが話せたり、嫌なことを話したりすることができない。

子どもは、優しくて、親に迷惑をかけちゃいけないと、聞き分けよく親のいうことを聞いて、親には文句も言わず、塾や習い事に通いつづける。自由に遊んでる子を横目に、「いいな~。お前は遊べて・・・」と。

大人の忙しさによって、子供のそんな時間が奪われてしまっている。

孤独を感じさせているのは、私たち大人の忙しさなのではないかと思っています。

はじける子どものエネルギー

食べることと同じぐらい、遊ぶことが子どもたちにとって必要だと言いました。

遊ぶと言っても、子どものいう遊びとは、大人が考えた遊び、大人が用意した遊びではなく、やりたいことがやれる。自由な遊びの事を言います。

子どもの内側から沸き起こる遊びです。

内側から沸き起こる、これやりたい!っていう思いが、エネルギーの源です。

だから、子どもを野に放ち、自由に遊ぶことを許すとき、子どものエネルギーは底なしのように沸き続けます。

自由であるというのがポイントです。

子どものエネルギーの源は、食べること(誰かと食べるごはん)と遊ぶこと。

この二つのエネルギー源枯らしてはいけないと思っています。

このどちらか、又は一方が枯れるだけで、子どもの幸福度はグッと下がり、無気力になり、自分なんてどうでもいいとなげやりになるのではないかと思っています。

そして、沸いてきたエネルギーは、流す(発散させる)必要があるのです。

だから子どもは走るのです。

だから子どもは跳び跳ねるんです。

だから子どもは歌うんです。

だから子どもはじっとしてないんです。

どうか、できるだけ彼らの動きたい衝動を止めないでもらいたい。彼らが自由に動くこと、遊ぶことを、許して欲しい。彼らのエネルギーを枯らさないで欲しい。

切なる願いです。

今を後悔なく生きる

今日は3月11日。

東日本大震災から10年目。

あの日を振り返ると、今、私たちに与えられたいのちを、今ある時間を、今目の前にいる大切な人と過ごす時間を、大切に生きたいと思えます。

一日一日を懸命に生きたいと思うのです。

あの日

あのとき、幸い私たちは、大きな被害にはあいませんでした。停電が2日ほど続いただけでした。

末っ子はまだ6ヵ月。

地震があったあの時、私は赤ん坊だった息子を抱き、おばあちゃんの手を握り、寄り添いながら、いつもより強い揺れに不安に思いながらも、地震がおさまるのを待ちました。ドジョウの水槽が大きく揺れて水があふれそうな勢いでした。幸い、物が倒れたり落ちたりすることはなく、地震はすぐにおさまりました。

小学生だった娘と次男は、学校から帰る途中で大きな揺れにあいました。

近くで工事していたおじさんが、大丈夫か?と、声をかけてくれたと言います。

そのあと停電したこともあり、ラジオから流れるニュースで、東北地方が大きな被害にあったこと、津波が来ていたことを知ったけれど、のちに電気が復旧して、その映像を目にするまでは、それほど大変なことが起きていたとは想像もできませんでした。

停電中は、キャンプ用のバーナーで煮炊きできたし、食料も、乾物もあったし、そこそこ買い置きがあったので、それほど困ることもありませんでした。むしろ、ちょっぴり非日常を楽しむぐらいの気持ちでいたように思います。幸い、水は出ていたので、それほど困ることはありませんでした。

あの日、たまたま青森入りしていたアフタフバーバンの北島さんが、ホテルが停電になって体育館に避難するように言われたらしいんだけど、新藤さんちに泊めてもらうことはできないかと、ハピたのの中沢さんから電話をもらいました。もちろん、いいですよと即答して、その夜は北さんが我が家に泊まっていくことになりました。

停電した夜は、仲間を心配して、落ち着かないでいる北さんと、あったかいご飯を食べ、話をしながら過ごし、それぞれの部屋で寝るのも不安だったので、みんなで居間にごろ寝して、電気のない静かな静かな夜を過ごしました。

そして、皆がいるから、一人じゃないから不安が和らぐんだと感じました。

その後、被害の大きさに驚き、原発事故があったことで、今度は見えない放射能に怯え、不安を感じる日々が続きました。

地震、津波、原発事故。

被災地に対する支援をしたいという想いと、まだ赤ん坊を抱えているし、介護の必要なおばあちゃんがいることから、簡単に支援に向かえないもどかしさを感じながら、自分にできることはないかと模索し始めました。

ロケットストーブを作ってみたりもしました。

放射能に対する怖さを、もっとみんなに知らせなきゃとか、こんな危険な原発なんて、子どもたちに残したくないと、反原発運動に参加したり、あの日を境に、子どもたちの未来について深く深く考えるようになりました。

あなたがこの世で見たいと願う変化に、あなた自身がなりなさい

これから書くお話は、今までも何度か書いていますが、これは、私の原点なのです。

反原発運動も1~2年も続けたでしょうか。子育て中のママたちや、もともと原発に関する上映会をやっていたメンバーたちとグループを立ち上げ、情報誌を作って印刷し、配って歩くことをしました。原発の情報。放射能の勉強会。放射能に負けない体づくりとか、発酵食など、放射能を排泄すると言われている食べ物の情報とか、自然な食べ物とか、魚の選び方とか、情報発信するようになりました。子どもたちを守りたい。ただその一心でした。

ただ、それでも原発に対する不安はいつまでたっても消えず、この食べ物が、本当に大丈夫なのか?私たち大人はいいけど、子どもたちはさかんに細胞分裂している時期だから、DNAに傷がついたら、そのまま傷ついた遺伝子が増幅してしまうリスクがある。魚は好きだけど、わからないなら、食べさせない方がいい。野菜の産地も、とりあえず、県内産は大丈夫そうだ。不確かだけれど、リスクが高くなさそうな産地のものを選ぶ、そんな日々。

金曜行動と言って、金曜の夕方に原発反対と言いながら、街を練り歩くことも続けていました。口に出さないことは、賛成してると同じことだと思っていました。原発事故があってもなお、原発を再稼働させようとする人たちに、怒りを覚えていました。みんな、子どもたちの未来のためだと、その時は本気で考え、本気で行動していました。

でも、息子を連れて金曜行動から帰ってきたある日、晩ご飯支度を始めたそのそばで、ソファーの上でピョンピョン跳ねながら、無邪気に「げんぱちゅはんたい♪」と言っている息子を見たとき、私の中でぱちんと何かがはじけました。

ちがう。

私がこの子に見せたいのは、何かに反対したり、いがみ合ったり、憎しみあったり、戦ったりする世界じゃない。

私は、ただただ、この子に幸せな世界を見せたかっただけなんだ。

あなたの住む、この世界は優しいよ。

こんなにも美しいよ。

この世界は本当にステキな世界なんだよ。

ただそれだけだったんだと。

それから、金曜行動に出ることをやめ、発信することも、みんなが見てうれしくなることだけにしよう。優しい気持ちになることだけ発信しよう。優しい世界を子どもたちに見せたいなら、私が優しい世界を作っていかなきゃならない。

そう決意しました。

それから、いつしか、私の周りには、ステキな人たちが表れ始めました。

つながる人は、世界を良くしたいと思っている人たち。子どもたちを幸せにしたいと思っている人たち。地域を良くしたいと思っている人たち。

 

世界を良くしようと思っている人たちは、こんなにいたんだ!

いつのまにか、私の周りは、優しさであふれていきました。

優しい世界を作りたかったら、私が優しい世界を作る人になるんです。

 

ガンジーの言葉にもありますよね。

「あなたがこの世で見たいと願う変化に、あなた自身がなりなさい。」

「You must be the change you want to see in the world.」

すべては私から始まります。

今を生きる

震災から10年。

今日生きてる人が明日も生きていられるかはわかりません。

その時に、私たちは後悔しないだろうかと考えます。

自分が、やりたいことを後回しにしてこなかったか?

やらなければならないことで時間を使い果たし、私が本当にやりたかったことはできているのか?

 

そして、子ども達に対しても。

この美しい地球に生まれてきて、この地球の美しさを、私たちは子供たちに見せただろうか?

素晴らしい自然を、手で触れ、においをかぎ、転げまわり、全身で感じただろうか?

土のにおい

花の香、

鳥の声、

頬をなでてゆく風を全身で感じただろうか?

小さな虫や生き物に歓喜し、バケツをひっくり返したような雨の中、飛び出したことは?

この世界の喜びをどれだけ感じただろうか?

子どもに、やらなければならないことなんて、本当はないはず。

あるのはただ、この世界を感じる時間。

たっぷりの愛情を受け、信じられて、この世界を安心の中で探求する時間。

はたして、どれだけ感じることができているだろうか?

それらを感じることがないまま、この世界を旅立たなければならなかったとしたら、

私たちは後悔しないだろうか?

 

だから、私は、子どもたちが、やりたいと思っていることを叶えてあげたい。

応援してあげたい。

できないと言わずに、できる方法を考えてあげたい。

この世界を、たくさん感じ、たくさん味わってほしい。

この世界の喜びを、体いっぱいに感じてほしい。

 

 

子どもの遊びと大人の遊び心は、生きるために必要なこと


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子どもには、食べることと寝ることと、もう一つ必要なものがあります。

それは、「遊ぶ」こと。

遊ぶことは、空気を吸うように、お水を飲むように、子どもたちにとって自然なことです。

子どもが自ら遊びたくて手を伸ばす。これをやったらどうなるのかな?という沸き起こる興味から始まる遊びは、子どもにとって、生きる世界に適応していくことそのものなのです。

そして、実は、大人にとっても、遊ぶこと、ことに「遊び心」が必要なのです。

遊ぶことは、この世界に適応していくこと

遊びは、この世界に適応していくために必要なことだと言います。

例えば、子犬のじゃれあいを思い浮かべてください。

子犬は、じゃれあい遊びをしながら、噛みつくこともあります。でも、あんまり強く噛んだら、相手にひどく怒られます。そうやって遊んでいるうちに、強く噛んだら怒られることを学び、遊び方が上手になっていきます。

野生動物の中でも、そういったじゃれつき遊びが見られます。

遊びに夢中になっている間に、命を狙われる危険性があるにもかかわらず、遊ぶのです。

野生の動物は、ある程度成熟すると、環境に適応し、遊ぶことをやめます。親が遊びほうけていたら、子どもに注意が向かず、捕食者から狙われやすくなってしまうからです。

 

では、遊びは、それほどまでに必要なものなのでしょうか?

必要なものだから「遊ぶ」ということが遺伝的にプログラムされていると思うのです。

よく遊ぶ動物ほど、生き残る確率が高いと言います。

成熟する前の遊びの中で、狩りやコミュニケーションを学んでいくといいます。

遊びで、体力、知識、経験を積んでいきます。

 

人もまた、遊びによって、この世界を知ります。

この世界は、どんな世界なんだろうか?遊びながら、少しづつ確かめているのです。

小さい赤ちゃんは、触って確かめ、口に入れて確かめ、お母さんの表情を見て確かめていきます。それは赤ちゃんにとっての遊びです。

目に見えるものすべてが遊びの対象です。

そのうち、大人の真似をして遊ぶようになり、関わり合いで遊ぶようになります。

遊びによって、コミュニケーションの取り方を学んでいくようになるのです。

遊んだほうが、賢明な選択ができるようになります。

環境の変化にも、適応できるのは、遊んだ者の方です。

いろんな状況に対して、より良い選択ができるようになるからです。

遊びの中では、それはあくまでも遊びでなので、リスクを伴いません。

失敗しても、間違えても、それは遊びの中だから大丈夫なのです。

 

そして、生き残るために「遊ぶ」能力は、脳が成長する幼少期から若い時期に獲得しなければならない能力なのです。

若い時期に遊ぶことは必要だと言いましたが、実は、人間は、進化を遂げた結果、遊ぶことで脳を成長させ続けることができるようになりました。

認知症の予防に、遊ぶことが取り入れられているのは、このためです。

お年寄りと子供が一緒にいると、お年寄りが元気になるのも、このためです。

人間も、大人になるとだんだん遊ばなくなります。

でも、「遊び」を忘れない人が生き生きとしているのを見たことはないでしょうか?

遊び心を持った大人は、いつまでも若く、いきいきとしているものです。

遊ぶことをやめた者は、強い反面、融通が利かず、トラブルや不測の事態に弱くなりがちです。

 

遊ぶことをやめると、死に向かい始める

この言葉は、『遊びスイッチ・オン」という本の中の一節です。

ホヤという生物がいます。

はるか昔からいる、人類のきわめて古い親戚です。

科学者によると、今から五億五千万年ほど前に現れた人間の初期の祖先は、現代のホヤのオタマジャクシ幼生と似ていた可能性があるといわれています。

ホヤの幼生は、脳機能のような働きをしていて、小さい脳で、栄養か、害のあるものなのかを選別して移動します。そして、幼若期は、遊泳生活を送りながら成長していきます。

でも、いったん成体になると、岩や、船などに付着して、死ぬまでそこで生活します。もう、幼若期のように周囲に目を配らせる必要もなく、潮に乗って流れてくる栄養分をとるだけで生きていける。生き方が完全に受け身になるのです。

まるで、ソファで寝そべってスナックばかり食べている人のように。

そして、あろうことか、自分の脳神経節をむさぼるように食べるのです。

「食事ばかりしていて遊泳しないと、ホヤは脳食いゾンビになる」といったところでしょうか。

ホヤの例は、使わなければなくなっていくという自然界の原理を示しています。

モグラも、使わない機能(目)は退化していきました。

使わないと不要になり、自ら捨て去るか、自然に消失していくのです。

ホヤほど極端ではありませんが、多くの動物は、そのように、遊ばなくなると、その機能を使わなくなると、脳の発達が止まってしまうのです。

もし、私たちが遊びをやめたなら、遊びを卒業したほかの動物たちと同じように、決まった行動しかとらなくなり、新しいことや変わったことに興味を抱かなくなり、周りの世界を楽しむ機会も少なくなっていくでしょう。

遊びをやめると、私たちの成長は止まります。

すると、エントロピーの法則が働き、破滅に向かっていきます。

最終的には、ホヤのように、食べて寝るだけとなり、一つのところにとどまり、周囲と交流をとらなくなり、死に向かい始めるのです。

遊び心に火をつける

「遊ぶ」ことが、動物にとって、人間にとって、必要なことだと思えてきましたか?

今、子どもたちの遊びが、とても軽んじられているように思うのです。

遊んでばっかりいないで勉強しなさいと言われる子も多いです。

遊んでないで宿題しなさいとかね。

でも、遊びって、本能的に、生物学的に備わった能力で、自然に発動してしまうんですから、しかたがありません。

でも、その遊びたい欲求を、「やらねばならないこと」で埋め尽くされ、遊ぶ時間のない子がたくさんいます。

塾や習い事。学童保育も。

学童保育の多くは、友達もいるし、遊ばせてくれるからいいでしょ?って思うかもしれませんが、多くの子供たちは学童保育を好まない傾向があります。

なぜなら、やらなくてはいけないこと、やってはいけないことがたくさんあるからです。

遊びも決められてしまっているし、今は何をやる時間と、時間管理から遊びまで、子どもは、管理の対象になっているのです。

全部がそうだとは言いませんが、そういうところが非常に多いと思うのです。

「遊ぶこと」と「「遊ばせること」は、違います。

「遊ぶこと」は、自分の内側から「やってみたい!」と思い行動に移すこと。

「遊ばせること」は、周りが用意してあげたものです。本人がやりたいかどうかにかかわらずです。

先ほどのホヤの話で、生き方が完全に受け身になり、脳神経節をむさぼるように食べ始める、というくだりがありましたね。

受け身になるということは、自分が考えて選択しなくてもいいということです。

待っていれば餌が来るのと同じ状態です。

子どもが遊びたいと思う前に、目の前に何かが用意され、用意されたものをなんとなくさわって遊び始めるけれど、遊びの終わりも、本人がまだ遊びたいにもかかわらず、突然遊びの終わりが宣告されます。

自分が選択することはありません。

時々、プレーパークなどの遊び場に、子どもを連れてきた親御さんで、「ほら、せっかくだから遊んできなさい」と、子どもを送り出す方がいます。いくら自由な遊び場とはいえ、本来遊びは、「ほら、遊んできなさい」と言われるものではないのです。

本人が、じ~っとみんなの遊ぶ様子を見て、なんか面白そうだな~。自分もやってみようかな~。と思えるまで待ってみてほしいのです。

そして、一番は、大人が楽しむことが一番なのです。

こどもに「さあ、遊びなさい」と言う前に、大人の方が、「なにこれ、おもしろそう!私もやってみていいですか?」って、子どもそっちのけで大人が夢中になるぐらいの方が、子どもはすんなり遊びに入っていけます。

特に、初めて行く場所の場合、子どもも不安です。ここは何をやってる場所なの?ここは安全な場所なの?って。誰しも、初めての場所は不安です。小さい子ならなおさらです。

だからこそ、まず、大人が楽しげに遊び始めると、「ああ、ここは、楽しい場所なんだ」「私もお母さんのマネしてみようかな」って思えると思うのです。

遊ぶのが上手な子は、親が遊びを楽しむ力を持っていることが多いように思います。

「ほら、遊んできなさい」という前に、「おかあさん、これやってみようかな~」って、まずは遊ぶ姿を見せてあげてほしいのです。こうやると楽しいよ!って、楽しんでる姿を見せてあげてほしいのです。

そしたら、子どもは、遊ぶのが大好きになります。

大人は、つい、子どもに楽しいものを用意してあげたくなります。

でも、脳が発達するのは、遊びを受け身で待っている時ではなく、自分から遊びに向かっていく時なのです。

子どもが遊ぶためには、子どもに遊ばせるのではなく、必要なのは、大人の「遊び心」です。

プレーパークでも、よくいらっしゃいます。

子どもそっちのけで、木工をに夢中になる大人が。子どもより楽しんでいる大人が。

それでいいのです。

そり遊びも、まず、大人が滑って、「なにこれ、めっちゃ面白い!」とか言ってみてください。

もう、こどもは、やりたくてやりたくてたまらなくなりますから(笑)。

子どもがやりたがっても、「ちょっとまって、もう一回滑らして!」かなんか言ったりして。

子どもの遊び心に火をつけるのは、大人の遊び心だったりします。

そして、遊びは、喜びをもたらし、ワクワクした気持ちを起こさせ、もっとこうやったら面白いかもしれないと、想像力が膨らみます。遊ぶことで得られるその気持ちの高揚感は、癖になり、もっともっと遊びたくなるものです。

そして、その高揚感は、大人になっても、忘れることはないのです。

大人こそ、遊び心を!

私だったら、受け身になって、死に向かうだけのホヤになりたくはない。

人生、これでもかと楽しんでいきたい。

なぜなら、たくさん遊んできて、あの、遊びのワクワク感や、ドキドキ感、達成感や喜びを、また味わいたいと思っているからです。

 

だって、この世界に生まれたのに、勿体ないじゃないですか。限られたこの世に生きる時間の中で、たくさんの喜び、たくさんの胸の高鳴りを感じ、時には悲しみや怒りも、感情豊かに生きた証になるエッセンスだと思えば、闇の中から見つけた光は、どれほどの喜びになるでしょう。

 

長いこと遊んでいなくて、遊び方がわからなくなってしまったなら、小さな子供や、子犬や子猫と遊んでみるといいのです。それがかなわないならば、動画で見てみるのもいいかもしれません。彼らが、どんな小さなことにも、体全体で喜びを感じている姿を見て、思い出してほしいのです。

そして、時にはいつもと違うことをしてみるのもおすすめです。

いつもと違う道を通ってみるとか、いつもは入らないお店に入ってみるとか。

見慣れた日常から、見慣れない非日常の世界に足を踏み入れた時、違う世界が見えてきます。

日常を遊ぶ。

それもまた遊び心です。

遊び心を持った大人の姿を、ぜひ、子どもたちに見せてあげてほしいのです。

 

 

 

 

 

 

 

子どもは自然のままに遊んで育つ

年末に、桜ケ丘中学の元校長先生だった西郷さんのお話を聞きました。

その時、学校の先生もたくさん参加されていて、

西郷さんは先生方の質問に対して、とても辛口にコメントされていました。

例えば、「子どもたちを自由にさせていたら、声の大きい子が幅を利かせ、気の弱い子がいづらくなるといったようなことはないんでしょうか?」

というような質問に対して、

「そんなことはまったくありません」

「最初こそ、揺り戻しといわれる、一見荒れたような状態がみられますが、それも一時的なものです。」

「枠が取り払われて自由になり、自分をちゃんと扱ってもらえるようになると、反発する生徒もだんだん少なくなっていくんです」

というようなことをおっしゃっていて、

しきりに、「教育課程を学んでるときに、皆さんルソーを読んだでしょ?私はルソーの言うとおりにやっただけです!みなさん、読んでないんですか?!」とおっしゃっていたのが印象的でした。

ルソーの教育論。私は教育課程を学ばなかったので、聞いたことはあったけど、読んだことはなかありませんでした。そこで、改めて読んでみることにしました。

まとめてあるものをざっくりと読んだだけですが、

すごくいいことが書いてありました。

「子供を愛せよ、子どもの遊びを大切にせよ」と。

「不確実な未来のために現在を犠牲にする残酷な教育をどう考えたらいいか・・・

耐えがたい束縛を受け、徒刑囚のように、絶えず苦しい勉強をさせられ、しかも、そうした苦労がいつか有益になるという保証もない、かわいそうな子どもを見て、どうして憤慨せずにいられよう。」と。

ルソーの教育論について「エミール」から引用しつつ、今回は、子どもの遊びについて考えてみたいと思います。

自然のままに

ルソーの「エミール」の中から、気になるところを抜き書きしていきます。

生まれたときから十二歳ごろまで、書物などを読ませるべきではなく、もっぱら「肉体を、器官を、感官を、そして、力を訓練させるべきである」(エミール上133ページ)

「子どもの感覚は、すべて感情的なものだから、それが快い感覚であるなら、黙ってそれを楽しんでいる。苦しいときは、子どもはその言語でそれを告げ、助けを求める。ところで、目を覚ましている間、子どもは無関心な状態でいることはほとんどない。子どもは眠っているか、それとも何かに刺激されている」(上76ページ)

「部屋の汚れた空気のなかにじっと座らせておくことはしないで、毎日野原の真ん中に連れて行ってやることにしよう。そこで走り回って遊ばせることにしよう。一日百回転んでもいい。それは結構なことだ。それだけはやく起き上がることを学ぶことになる。」

「私の生徒はしょっちゅうけがをするだろう。それでもいつも快活でいるだろう。あなた方の生徒は、それほどけがをしないかもしれないが、いつも意思を妨げられ、いつも束縛され、いつも悲しげな顔をしている」

ルソーは、常に子供を自由にしてやることを要求している。その自由は、放任や甘やかし、過保護とは違い、厳しさを持っている。

「腕白小僧たちが雪の上で遊ぶとき、こごえて、ほとんど指を動かすことができない。火に温まりに行こうと思えばすぐにでも行けるのに、子どもはそうしようとはしない。それを強制すれば、子どもは寒さの厳しさを感じるより、百倍もひどい束縛のきびしさを感じることになる。子どもを自由にさせておくことによって、現在私は、子どもを幸福にしているのだ。子どもが耐え忍ばなければならない苦しみに対して彼を強くすることによって、私は、将来の幸福を準備しているのだ」(上118ページ)

「苦しみを味わうことのない人間は、人間愛から生まれる感動も、快い同情の喜びも知ることはあるまい。そういう人間の心は、何物にも動かされず、彼は人づきあいのいい人間にはなれず、仲間に対して偽物のようになるだろう」

「実のところ、たえずさしずをして、たえず、行きなさい、来なさい、じっとしていなさい、これをしなさい、あれをしてはいけません、などと言っていたのでは、子どもを愚図にすることになる。いつもあなたの頭が彼を動かしていたのでは、彼の頭は必要でなくなる」(上187ページ)

 

これらのことは、私が子供たちを観察していて、常々感じていることと一致します。

子どもはいつもどん欲に、何か面白いことはないかと、興味をそそられるものへと手を伸ばし、常にそれらから刺激を受けています。

そして、そのように刺激を与えるものは、室内よりも、戸外の方が比べ物にならないほど多様に存在します。

地を這う虫たち。

ピョンピョン跳ねるバッタやカエル。

ひらひら舞うちょう。

水の中に見えるオタマジャクシや様々な小さな生き物。

頬をなでる風。

流れゆく雲。

草原に揺れる野の花。

ズボンにくっつくひっつきむし。

水たまりはたまらなく楽しいし、

雨に濡れることすら楽しくて、外に飛び出してしまう。

流れる水は不思議で楽しくてたまらない。

泥んこに手を入れるのはぬるぬる楽しくおもしろい。

時においしそうな木の実があったり、

くさ~いカメムシがいたり。

子どもたちが外が大好きなのには訳があります。

そこは楽しく、不思議で、手を伸ばしたくなるものにあふれているからです。

その探求のためには、凍えるように寒かろうが、汚れようが、転んで多少けがをしようが、時にたんこぶつくろうが、構わないのです。そこに命の危険さえない限り。

それが生きるということに他ならないからです。

それが自然な姿であるからだと思うのです。

ルソーの言う「味わうべき苦しみ」とは、自分がやりたいことを遂げようとするときに伴う、自然の厳しさに対する苦しみであり、大人によって束縛される奴隷のような苦しみではないのです。そういった、奴隷のような苦しみは、いかなる苦しみも与えるべきではないと主張しています。

 

生きるということ

「人々は、子どもの身を守ることばかり考えているがそれでは十分ではないのだ。大人になったとき、自分の身を守るということは、運命の打撃に耐え、富も貧困も意に介さず、必要とあれば、アイスランドの氷の中でもマルタ島の焼け付くような岩の上でも生活していけることを学ばせなければならない。」

「死を防ぐことよりも、生きさせることがまずもって何よりも必要なことであり、大事なことなのである。生きるということは、それは呼吸をするということではない。まさに活動することなのだ。私たちの器官、感覚、能力を、私たちを存在せしめている体のあらゆる部分を用いて生かすことだ。もっとも長生きした人とは、最も多くの歳月を生きた人ではなく、最も良く人生を体験した人たちである。」(上33ページ)

ルソーは12歳までは本を読ませるなと主張する。その代わりに「実物」による教育の重要性を強調する。実物に対応する正確な「観念」を持っていないのに空疎な「ことば」だけ覚えても、何の意味もないどころか有害である。

自分の五感で自然を感じたことがない人々に「自然」ということばをぶつけても、なにも響かない。子どもは大量の空疎なことばを記憶するよりも、まず初めに少量でいいから正確な観念を持つべきだ(体感するべき)、というのがルソーの言う「自然による教育」の主張であると思うのです。

今日も氷点下で、暴風雪注意報が出るぐらいの風の中、「サスケ」で遊んでいる子ども達です。

一人は、手袋もしていません。最終的に、手が冷たすぎてロープがつかめないと気が付いて、手袋をとりに来ました。

体験するから学びます。

雪の中にジャンプしたり

スリルを求めて、雪の中、歩くことは苦にならない。

上った結果、こんなにスリル満点なジャンプコースがあるのだから。

田んぼの中をのぞけば、

そこはミジンコの世界。こんな顕微鏡で見なければわからないような小ささなのに、ちゃんと生きてる、その不思議さ。

川原でみつけた石の中に、水晶を見つけた喜び。

てこの原理を使って、大きな石を動かしてみる!

泥にまみれ

雪にまみれ

木に登り

命をいただく

時に力を合わせて大きなことを成し遂げる。

遊び疲れて眠りに落ち

大人にばからしいからやめなさいと言われるようなことも

危ないと言われそうなことも

でも、楽しくて

楽しくて

楽しくて

楽しくて

楽しくて

楽しくて

楽しくて

楽しくて

そんな、楽しくて楽しくて仕方のない子供時代を、どうか過ごさせてあげてほしい。

子どもたちの、この楽しくて楽しくて仕方のない瞬間を、たくさん共にしてきたからこそ、このことが、子どもたちにとっての本能であり、自然なことであると思うのです。

これこそが、子どもたちが、まさに「生きている」瞬間です。