今を後悔なく生きる

今日は3月11日。

東日本大震災から10年目。

あの日を振り返ると、今、私たちに与えられたいのちを、今ある時間を、今目の前にいる大切な人と過ごす時間を、大切に生きたいと思えます。

一日一日を懸命に生きたいと思うのです。

あの日

あのとき、幸い私たちは、大きな被害にはあいませんでした。停電が2日ほど続いただけでした。

末っ子はまだ6ヵ月。

地震があったあの時、私は赤ん坊だった息子を抱き、おばあちゃんの手を握り、寄り添いながら、いつもより強い揺れに不安に思いながらも、地震がおさまるのを待ちました。ドジョウの水槽が大きく揺れて水があふれそうな勢いでした。幸い、物が倒れたり落ちたりすることはなく、地震はすぐにおさまりました。

小学生だった娘と次男は、学校から帰る途中で大きな揺れにあいました。

近くで工事していたおじさんが、大丈夫か?と、声をかけてくれたと言います。

そのあと停電したこともあり、ラジオから流れるニュースで、東北地方が大きな被害にあったこと、津波が来ていたことを知ったけれど、のちに電気が復旧して、その映像を目にするまでは、それほど大変なことが起きていたとは想像もできませんでした。

停電中は、キャンプ用のバーナーで煮炊きできたし、食料も、乾物もあったし、そこそこ買い置きがあったので、それほど困ることもありませんでした。むしろ、ちょっぴり非日常を楽しむぐらいの気持ちでいたように思います。幸い、水は出ていたので、それほど困ることはありませんでした。

あの日、たまたま青森入りしていたアフタフバーバンの北島さんが、ホテルが停電になって体育館に避難するように言われたらしいんだけど、新藤さんちに泊めてもらうことはできないかと、ハピたのの中沢さんから電話をもらいました。もちろん、いいですよと即答して、その夜は北さんが我が家に泊まっていくことになりました。

停電した夜は、仲間を心配して、落ち着かないでいる北さんと、あったかいご飯を食べ、話をしながら過ごし、それぞれの部屋で寝るのも不安だったので、みんなで居間にごろ寝して、電気のない静かな静かな夜を過ごしました。

そして、皆がいるから、一人じゃないから不安が和らぐんだと感じました。

その後、被害の大きさに驚き、原発事故があったことで、今度は見えない放射能に怯え、不安を感じる日々が続きました。

地震、津波、原発事故。

被災地に対する支援をしたいという想いと、まだ赤ん坊を抱えているし、介護の必要なおばあちゃんがいることから、簡単に支援に向かえないもどかしさを感じながら、自分にできることはないかと模索し始めました。

ロケットストーブを作ってみたりもしました。

放射能に対する怖さを、もっとみんなに知らせなきゃとか、こんな危険な原発なんて、子どもたちに残したくないと、反原発運動に参加したり、あの日を境に、子どもたちの未来について深く深く考えるようになりました。

あなたがこの世で見たいと願う変化に、あなた自身がなりなさい

これから書くお話は、今までも何度か書いていますが、これは、私の原点なのです。

反原発運動も1~2年も続けたでしょうか。子育て中のママたちや、もともと原発に関する上映会をやっていたメンバーたちとグループを立ち上げ、情報誌を作って印刷し、配って歩くことをしました。原発の情報。放射能の勉強会。放射能に負けない体づくりとか、発酵食など、放射能を排泄すると言われている食べ物の情報とか、自然な食べ物とか、魚の選び方とか、情報発信するようになりました。子どもたちを守りたい。ただその一心でした。

ただ、それでも原発に対する不安はいつまでたっても消えず、この食べ物が、本当に大丈夫なのか?私たち大人はいいけど、子どもたちはさかんに細胞分裂している時期だから、DNAに傷がついたら、そのまま傷ついた遺伝子が増幅してしまうリスクがある。魚は好きだけど、わからないなら、食べさせない方がいい。野菜の産地も、とりあえず、県内産は大丈夫そうだ。不確かだけれど、リスクが高くなさそうな産地のものを選ぶ、そんな日々。

金曜行動と言って、金曜の夕方に原発反対と言いながら、街を練り歩くことも続けていました。口に出さないことは、賛成してると同じことだと思っていました。原発事故があってもなお、原発を再稼働させようとする人たちに、怒りを覚えていました。みんな、子どもたちの未来のためだと、その時は本気で考え、本気で行動していました。

でも、息子を連れて金曜行動から帰ってきたある日、晩ご飯支度を始めたそのそばで、ソファーの上でピョンピョン跳ねながら、無邪気に「げんぱちゅはんたい♪」と言っている息子を見たとき、私の中でぱちんと何かがはじけました。

ちがう。

私がこの子に見せたいのは、何かに反対したり、いがみ合ったり、憎しみあったり、戦ったりする世界じゃない。

私は、ただただ、この子に幸せな世界を見せたかっただけなんだ。

あなたの住む、この世界は優しいよ。

こんなにも美しいよ。

この世界は本当にステキな世界なんだよ。

ただそれだけだったんだと。

それから、金曜行動に出ることをやめ、発信することも、みんなが見てうれしくなることだけにしよう。優しい気持ちになることだけ発信しよう。優しい世界を子どもたちに見せたいなら、私が優しい世界を作っていかなきゃならない。

そう決意しました。

それから、いつしか、私の周りには、ステキな人たちが表れ始めました。

つながる人は、世界を良くしたいと思っている人たち。子どもたちを幸せにしたいと思っている人たち。地域を良くしたいと思っている人たち。

 

世界を良くしようと思っている人たちは、こんなにいたんだ!

いつのまにか、私の周りは、優しさであふれていきました。

優しい世界を作りたかったら、私が優しい世界を作る人になるんです。

 

ガンジーの言葉にもありますよね。

「あなたがこの世で見たいと願う変化に、あなた自身がなりなさい。」

「You must be the change you want to see in the world.」

すべては私から始まります。

今を生きる

震災から10年。

今日生きてる人が明日も生きていられるかはわかりません。

その時に、私たちは後悔しないだろうかと考えます。

自分が、やりたいことを後回しにしてこなかったか?

やらなければならないことで時間を使い果たし、私が本当にやりたかったことはできているのか?

 

そして、子ども達に対しても。

この美しい地球に生まれてきて、この地球の美しさを、私たちは子供たちに見せただろうか?

素晴らしい自然を、手で触れ、においをかぎ、転げまわり、全身で感じただろうか?

土のにおい

花の香、

鳥の声、

頬をなでてゆく風を全身で感じただろうか?

小さな虫や生き物に歓喜し、バケツをひっくり返したような雨の中、飛び出したことは?

この世界の喜びをどれだけ感じただろうか?

子どもに、やらなければならないことなんて、本当はないはず。

あるのはただ、この世界を感じる時間。

たっぷりの愛情を受け、信じられて、この世界を安心の中で探求する時間。

はたして、どれだけ感じることができているだろうか?

それらを感じることがないまま、この世界を旅立たなければならなかったとしたら、

私たちは後悔しないだろうか?

 

だから、私は、子どもたちが、やりたいと思っていることを叶えてあげたい。

応援してあげたい。

できないと言わずに、できる方法を考えてあげたい。

この世界を、たくさん感じ、たくさん味わってほしい。

この世界の喜びを、体いっぱいに感じてほしい。

 

 

子どもの遊びと大人の遊び心は、生きるために必要なこと


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子どもには、食べることと寝ることと、もう一つ必要なものがあります。

それは、「遊ぶ」こと。

遊ぶことは、空気を吸うように、お水を飲むように、子どもたちにとって自然なことです。

子どもが自ら遊びたくて手を伸ばす。これをやったらどうなるのかな?という沸き起こる興味から始まる遊びは、子どもにとって、生きる世界に適応していくことそのものなのです。

そして、実は、大人にとっても、遊ぶこと、ことに「遊び心」が必要なのです。

遊ぶことは、この世界に適応していくこと

遊びは、この世界に適応していくために必要なことだと言います。

例えば、子犬のじゃれあいを思い浮かべてください。

子犬は、じゃれあい遊びをしながら、噛みつくこともあります。でも、あんまり強く噛んだら、相手にひどく怒られます。そうやって遊んでいるうちに、強く噛んだら怒られることを学び、遊び方が上手になっていきます。

野生動物の中でも、そういったじゃれつき遊びが見られます。

遊びに夢中になっている間に、命を狙われる危険性があるにもかかわらず、遊ぶのです。

野生の動物は、ある程度成熟すると、環境に適応し、遊ぶことをやめます。親が遊びほうけていたら、子どもに注意が向かず、捕食者から狙われやすくなってしまうからです。

 

では、遊びは、それほどまでに必要なものなのでしょうか?

必要なものだから「遊ぶ」ということが遺伝的にプログラムされていると思うのです。

よく遊ぶ動物ほど、生き残る確率が高いと言います。

成熟する前の遊びの中で、狩りやコミュニケーションを学んでいくといいます。

遊びで、体力、知識、経験を積んでいきます。

 

人もまた、遊びによって、この世界を知ります。

この世界は、どんな世界なんだろうか?遊びながら、少しづつ確かめているのです。

小さい赤ちゃんは、触って確かめ、口に入れて確かめ、お母さんの表情を見て確かめていきます。それは赤ちゃんにとっての遊びです。

目に見えるものすべてが遊びの対象です。

そのうち、大人の真似をして遊ぶようになり、関わり合いで遊ぶようになります。

遊びによって、コミュニケーションの取り方を学んでいくようになるのです。

遊んだほうが、賢明な選択ができるようになります。

環境の変化にも、適応できるのは、遊んだ者の方です。

いろんな状況に対して、より良い選択ができるようになるからです。

遊びの中では、それはあくまでも遊びでなので、リスクを伴いません。

失敗しても、間違えても、それは遊びの中だから大丈夫なのです。

 

そして、生き残るために「遊ぶ」能力は、脳が成長する幼少期から若い時期に獲得しなければならない能力なのです。

若い時期に遊ぶことは必要だと言いましたが、実は、人間は、進化を遂げた結果、遊ぶことで脳を成長させ続けることができるようになりました。

認知症の予防に、遊ぶことが取り入れられているのは、このためです。

お年寄りと子供が一緒にいると、お年寄りが元気になるのも、このためです。

人間も、大人になるとだんだん遊ばなくなります。

でも、「遊び」を忘れない人が生き生きとしているのを見たことはないでしょうか?

遊び心を持った大人は、いつまでも若く、いきいきとしているものです。

遊ぶことをやめた者は、強い反面、融通が利かず、トラブルや不測の事態に弱くなりがちです。

 

遊ぶことをやめると、死に向かい始める

この言葉は、『遊びスイッチ・オン」という本の中の一節です。

ホヤという生物がいます。

はるか昔からいる、人類のきわめて古い親戚です。

科学者によると、今から五億五千万年ほど前に現れた人間の初期の祖先は、現代のホヤのオタマジャクシ幼生と似ていた可能性があるといわれています。

ホヤの幼生は、脳機能のような働きをしていて、小さい脳で、栄養か、害のあるものなのかを選別して移動します。そして、幼若期は、遊泳生活を送りながら成長していきます。

でも、いったん成体になると、岩や、船などに付着して、死ぬまでそこで生活します。もう、幼若期のように周囲に目を配らせる必要もなく、潮に乗って流れてくる栄養分をとるだけで生きていける。生き方が完全に受け身になるのです。

まるで、ソファで寝そべってスナックばかり食べている人のように。

そして、あろうことか、自分の脳神経節をむさぼるように食べるのです。

「食事ばかりしていて遊泳しないと、ホヤは脳食いゾンビになる」といったところでしょうか。

ホヤの例は、使わなければなくなっていくという自然界の原理を示しています。

モグラも、使わない機能(目)は退化していきました。

使わないと不要になり、自ら捨て去るか、自然に消失していくのです。

ホヤほど極端ではありませんが、多くの動物は、そのように、遊ばなくなると、その機能を使わなくなると、脳の発達が止まってしまうのです。

もし、私たちが遊びをやめたなら、遊びを卒業したほかの動物たちと同じように、決まった行動しかとらなくなり、新しいことや変わったことに興味を抱かなくなり、周りの世界を楽しむ機会も少なくなっていくでしょう。

遊びをやめると、私たちの成長は止まります。

すると、エントロピーの法則が働き、破滅に向かっていきます。

最終的には、ホヤのように、食べて寝るだけとなり、一つのところにとどまり、周囲と交流をとらなくなり、死に向かい始めるのです。

遊び心に火をつける

「遊ぶ」ことが、動物にとって、人間にとって、必要なことだと思えてきましたか?

今、子どもたちの遊びが、とても軽んじられているように思うのです。

遊んでばっかりいないで勉強しなさいと言われる子も多いです。

遊んでないで宿題しなさいとかね。

でも、遊びって、本能的に、生物学的に備わった能力で、自然に発動してしまうんですから、しかたがありません。

でも、その遊びたい欲求を、「やらねばならないこと」で埋め尽くされ、遊ぶ時間のない子がたくさんいます。

塾や習い事。学童保育も。

学童保育の多くは、友達もいるし、遊ばせてくれるからいいでしょ?って思うかもしれませんが、多くの子供たちは学童保育を好まない傾向があります。

なぜなら、やらなくてはいけないこと、やってはいけないことがたくさんあるからです。

遊びも決められてしまっているし、今は何をやる時間と、時間管理から遊びまで、子どもは、管理の対象になっているのです。

全部がそうだとは言いませんが、そういうところが非常に多いと思うのです。

「遊ぶこと」と「「遊ばせること」は、違います。

「遊ぶこと」は、自分の内側から「やってみたい!」と思い行動に移すこと。

「遊ばせること」は、周りが用意してあげたものです。本人がやりたいかどうかにかかわらずです。

先ほどのホヤの話で、生き方が完全に受け身になり、脳神経節をむさぼるように食べ始める、というくだりがありましたね。

受け身になるということは、自分が考えて選択しなくてもいいということです。

待っていれば餌が来るのと同じ状態です。

子どもが遊びたいと思う前に、目の前に何かが用意され、用意されたものをなんとなくさわって遊び始めるけれど、遊びの終わりも、本人がまだ遊びたいにもかかわらず、突然遊びの終わりが宣告されます。

自分が選択することはありません。

時々、プレーパークなどの遊び場に、子どもを連れてきた親御さんで、「ほら、せっかくだから遊んできなさい」と、子どもを送り出す方がいます。いくら自由な遊び場とはいえ、本来遊びは、「ほら、遊んできなさい」と言われるものではないのです。

本人が、じ~っとみんなの遊ぶ様子を見て、なんか面白そうだな~。自分もやってみようかな~。と思えるまで待ってみてほしいのです。

そして、一番は、大人が楽しむことが一番なのです。

こどもに「さあ、遊びなさい」と言う前に、大人の方が、「なにこれ、おもしろそう!私もやってみていいですか?」って、子どもそっちのけで大人が夢中になるぐらいの方が、子どもはすんなり遊びに入っていけます。

特に、初めて行く場所の場合、子どもも不安です。ここは何をやってる場所なの?ここは安全な場所なの?って。誰しも、初めての場所は不安です。小さい子ならなおさらです。

だからこそ、まず、大人が楽しげに遊び始めると、「ああ、ここは、楽しい場所なんだ」「私もお母さんのマネしてみようかな」って思えると思うのです。

遊ぶのが上手な子は、親が遊びを楽しむ力を持っていることが多いように思います。

「ほら、遊んできなさい」という前に、「おかあさん、これやってみようかな~」って、まずは遊ぶ姿を見せてあげてほしいのです。こうやると楽しいよ!って、楽しんでる姿を見せてあげてほしいのです。

そしたら、子どもは、遊ぶのが大好きになります。

大人は、つい、子どもに楽しいものを用意してあげたくなります。

でも、脳が発達するのは、遊びを受け身で待っている時ではなく、自分から遊びに向かっていく時なのです。

子どもが遊ぶためには、子どもに遊ばせるのではなく、必要なのは、大人の「遊び心」です。

プレーパークでも、よくいらっしゃいます。

子どもそっちのけで、木工をに夢中になる大人が。子どもより楽しんでいる大人が。

それでいいのです。

そり遊びも、まず、大人が滑って、「なにこれ、めっちゃ面白い!」とか言ってみてください。

もう、こどもは、やりたくてやりたくてたまらなくなりますから(笑)。

子どもがやりたがっても、「ちょっとまって、もう一回滑らして!」かなんか言ったりして。

子どもの遊び心に火をつけるのは、大人の遊び心だったりします。

そして、遊びは、喜びをもたらし、ワクワクした気持ちを起こさせ、もっとこうやったら面白いかもしれないと、想像力が膨らみます。遊ぶことで得られるその気持ちの高揚感は、癖になり、もっともっと遊びたくなるものです。

そして、その高揚感は、大人になっても、忘れることはないのです。

大人こそ、遊び心を!

私だったら、受け身になって、死に向かうだけのホヤになりたくはない。

人生、これでもかと楽しんでいきたい。

なぜなら、たくさん遊んできて、あの、遊びのワクワク感や、ドキドキ感、達成感や喜びを、また味わいたいと思っているからです。

 

だって、この世界に生まれたのに、勿体ないじゃないですか。限られたこの世に生きる時間の中で、たくさんの喜び、たくさんの胸の高鳴りを感じ、時には悲しみや怒りも、感情豊かに生きた証になるエッセンスだと思えば、闇の中から見つけた光は、どれほどの喜びになるでしょう。

 

長いこと遊んでいなくて、遊び方がわからなくなってしまったなら、小さな子供や、子犬や子猫と遊んでみるといいのです。それがかなわないならば、動画で見てみるのもいいかもしれません。彼らが、どんな小さなことにも、体全体で喜びを感じている姿を見て、思い出してほしいのです。

そして、時にはいつもと違うことをしてみるのもおすすめです。

いつもと違う道を通ってみるとか、いつもは入らないお店に入ってみるとか。

見慣れた日常から、見慣れない非日常の世界に足を踏み入れた時、違う世界が見えてきます。

日常を遊ぶ。

それもまた遊び心です。

遊び心を持った大人の姿を、ぜひ、子どもたちに見せてあげてほしいのです。

 

 

 

 

 

 

 

子どもは自然のままに遊んで育つ

年末に、桜ケ丘中学の元校長先生だった西郷さんのお話を聞きました。

その時、学校の先生もたくさん参加されていて、

西郷さんは先生方の質問に対して、とても辛口にコメントされていました。

例えば、「子どもたちを自由にさせていたら、声の大きい子が幅を利かせ、気の弱い子がいづらくなるといったようなことはないんでしょうか?」

というような質問に対して、

「そんなことはまったくありません」

「最初こそ、揺り戻しといわれる、一見荒れたような状態がみられますが、それも一時的なものです。」

「枠が取り払われて自由になり、自分をちゃんと扱ってもらえるようになると、反発する生徒もだんだん少なくなっていくんです」

というようなことをおっしゃっていて、

しきりに、「教育課程を学んでるときに、皆さんルソーを読んだでしょ?私はルソーの言うとおりにやっただけです!みなさん、読んでないんですか?!」とおっしゃっていたのが印象的でした。

ルソーの教育論。私は教育課程を学ばなかったので、聞いたことはあったけど、読んだことはなかありませんでした。そこで、改めて読んでみることにしました。

まとめてあるものをざっくりと読んだだけですが、

すごくいいことが書いてありました。

「子供を愛せよ、子どもの遊びを大切にせよ」と。

「不確実な未来のために現在を犠牲にする残酷な教育をどう考えたらいいか・・・

耐えがたい束縛を受け、徒刑囚のように、絶えず苦しい勉強をさせられ、しかも、そうした苦労がいつか有益になるという保証もない、かわいそうな子どもを見て、どうして憤慨せずにいられよう。」と。

ルソーの教育論について「エミール」から引用しつつ、今回は、子どもの遊びについて考えてみたいと思います。

自然のままに

ルソーの「エミール」の中から、気になるところを抜き書きしていきます。

生まれたときから十二歳ごろまで、書物などを読ませるべきではなく、もっぱら「肉体を、器官を、感官を、そして、力を訓練させるべきである」(エミール上133ページ)

「子どもの感覚は、すべて感情的なものだから、それが快い感覚であるなら、黙ってそれを楽しんでいる。苦しいときは、子どもはその言語でそれを告げ、助けを求める。ところで、目を覚ましている間、子どもは無関心な状態でいることはほとんどない。子どもは眠っているか、それとも何かに刺激されている」(上76ページ)

「部屋の汚れた空気のなかにじっと座らせておくことはしないで、毎日野原の真ん中に連れて行ってやることにしよう。そこで走り回って遊ばせることにしよう。一日百回転んでもいい。それは結構なことだ。それだけはやく起き上がることを学ぶことになる。」

「私の生徒はしょっちゅうけがをするだろう。それでもいつも快活でいるだろう。あなた方の生徒は、それほどけがをしないかもしれないが、いつも意思を妨げられ、いつも束縛され、いつも悲しげな顔をしている」

ルソーは、常に子供を自由にしてやることを要求している。その自由は、放任や甘やかし、過保護とは違い、厳しさを持っている。

「腕白小僧たちが雪の上で遊ぶとき、こごえて、ほとんど指を動かすことができない。火に温まりに行こうと思えばすぐにでも行けるのに、子どもはそうしようとはしない。それを強制すれば、子どもは寒さの厳しさを感じるより、百倍もひどい束縛のきびしさを感じることになる。子どもを自由にさせておくことによって、現在私は、子どもを幸福にしているのだ。子どもが耐え忍ばなければならない苦しみに対して彼を強くすることによって、私は、将来の幸福を準備しているのだ」(上118ページ)

「苦しみを味わうことのない人間は、人間愛から生まれる感動も、快い同情の喜びも知ることはあるまい。そういう人間の心は、何物にも動かされず、彼は人づきあいのいい人間にはなれず、仲間に対して偽物のようになるだろう」

「実のところ、たえずさしずをして、たえず、行きなさい、来なさい、じっとしていなさい、これをしなさい、あれをしてはいけません、などと言っていたのでは、子どもを愚図にすることになる。いつもあなたの頭が彼を動かしていたのでは、彼の頭は必要でなくなる」(上187ページ)

 

これらのことは、私が子供たちを観察していて、常々感じていることと一致します。

子どもはいつもどん欲に、何か面白いことはないかと、興味をそそられるものへと手を伸ばし、常にそれらから刺激を受けています。

そして、そのように刺激を与えるものは、室内よりも、戸外の方が比べ物にならないほど多様に存在します。

地を這う虫たち。

ピョンピョン跳ねるバッタやカエル。

ひらひら舞うちょう。

水の中に見えるオタマジャクシや様々な小さな生き物。

頬をなでる風。

流れゆく雲。

草原に揺れる野の花。

ズボンにくっつくひっつきむし。

水たまりはたまらなく楽しいし、

雨に濡れることすら楽しくて、外に飛び出してしまう。

流れる水は不思議で楽しくてたまらない。

泥んこに手を入れるのはぬるぬる楽しくおもしろい。

時においしそうな木の実があったり、

くさ~いカメムシがいたり。

子どもたちが外が大好きなのには訳があります。

そこは楽しく、不思議で、手を伸ばしたくなるものにあふれているからです。

その探求のためには、凍えるように寒かろうが、汚れようが、転んで多少けがをしようが、時にたんこぶつくろうが、構わないのです。そこに命の危険さえない限り。

それが生きるということに他ならないからです。

それが自然な姿であるからだと思うのです。

ルソーの言う「味わうべき苦しみ」とは、自分がやりたいことを遂げようとするときに伴う、自然の厳しさに対する苦しみであり、大人によって束縛される奴隷のような苦しみではないのです。そういった、奴隷のような苦しみは、いかなる苦しみも与えるべきではないと主張しています。

 

生きるということ

「人々は、子どもの身を守ることばかり考えているがそれでは十分ではないのだ。大人になったとき、自分の身を守るということは、運命の打撃に耐え、富も貧困も意に介さず、必要とあれば、アイスランドの氷の中でもマルタ島の焼け付くような岩の上でも生活していけることを学ばせなければならない。」

「死を防ぐことよりも、生きさせることがまずもって何よりも必要なことであり、大事なことなのである。生きるということは、それは呼吸をするということではない。まさに活動することなのだ。私たちの器官、感覚、能力を、私たちを存在せしめている体のあらゆる部分を用いて生かすことだ。もっとも長生きした人とは、最も多くの歳月を生きた人ではなく、最も良く人生を体験した人たちである。」(上33ページ)

ルソーは12歳までは本を読ませるなと主張する。その代わりに「実物」による教育の重要性を強調する。実物に対応する正確な「観念」を持っていないのに空疎な「ことば」だけ覚えても、何の意味もないどころか有害である。

自分の五感で自然を感じたことがない人々に「自然」ということばをぶつけても、なにも響かない。子どもは大量の空疎なことばを記憶するよりも、まず初めに少量でいいから正確な観念を持つべきだ(体感するべき)、というのがルソーの言う「自然による教育」の主張であると思うのです。

今日も氷点下で、暴風雪注意報が出るぐらいの風の中、「サスケ」で遊んでいる子ども達です。

一人は、手袋もしていません。最終的に、手が冷たすぎてロープがつかめないと気が付いて、手袋をとりに来ました。

体験するから学びます。

雪の中にジャンプしたり

スリルを求めて、雪の中、歩くことは苦にならない。

上った結果、こんなにスリル満点なジャンプコースがあるのだから。

田んぼの中をのぞけば、

そこはミジンコの世界。こんな顕微鏡で見なければわからないような小ささなのに、ちゃんと生きてる、その不思議さ。

川原でみつけた石の中に、水晶を見つけた喜び。

てこの原理を使って、大きな石を動かしてみる!

泥にまみれ

雪にまみれ

木に登り

命をいただく

時に力を合わせて大きなことを成し遂げる。

遊び疲れて眠りに落ち

大人にばからしいからやめなさいと言われるようなことも

危ないと言われそうなことも

でも、楽しくて

楽しくて

楽しくて

楽しくて

楽しくて

楽しくて

楽しくて

楽しくて

そんな、楽しくて楽しくて仕方のない子供時代を、どうか過ごさせてあげてほしい。

子どもたちの、この楽しくて楽しくて仕方のない瞬間を、たくさん共にしてきたからこそ、このことが、子どもたちにとっての本能であり、自然なことであると思うのです。

これこそが、子どもたちが、まさに「生きている」瞬間です。

 

 

 

 

子供たちの冬がやってきた!

平日の放課後は、冬は遊べる時間が短すぎてほとんど遊べないんだけど、週末になると、たくさん子供たちがやってきます。

先日から降り続いた雪で、外は雪遊びができる雪山もできて、雪遊びシーズンを満喫している子ども達です。待ちに待った雪です!

降り始めのころなんかは、みんな油断しているから、上着しか着てこない子がいたり、手袋してない子がいたり、靴もスニーカーだったりして、雪遊びできるような恰好で来ない子がいます。

でも、基本、うちに来ると、冬は必ずと言っていいほど雪遊びします。

だから、完全防備は必須です。

なので、うちにはおさがりのスキーズボンや手袋、ジャンバーも140~160cmまで、各種取り揃えております(笑)

ない子には貸してあげるんだけど、「貸してあげるよ」と言っても、「いらない」という子がいます。

でも、そういう子は、みんなはまだまだ雪まみれで遊びまくっているのに、寒さに耐えかねて先に家に戻ってきてしまいます。

だから貸してあげるって言ったのに。

まあ、それもその子の選択です。

でも、そんなことを経験すると、次の日は、完全防備でやってきます。替えの手袋まで持ってくる入念さ。

何事も経験です。

 

そして、実は、子どもたちの雪遊びに付き合う大人は、一番重装備が必要です。

氷点下の中でも

この週末の気温は‐6℃。

うちの近くは、八甲田から吹き降ろす風が強く、吹雪くと体感温度はさらにぐっと下がります。

気温‐6℃の時、風速8m/sで体感温度‐12℃ぐらいになるらしいです。

そんな氷点下の吹雪の中、積もった雪に大喜びの子供たちは、空き地にかまくらを作りに飛び出します。

山ができたら穴を掘るんだけど、誰が掘るかで言い争っています。

「お前ばっかり堀りすぎだぞ!交代しろよ」

「俺まだ掘ってない」

「みんなで掘らないとさ、俺が作ったんだぞ!とかって、威張ったりするじゃん。みんなでかわりばんこしないとさ~」

最終的には話し合って、みんなちょっと掘ったら交代するをうまく繰り返していました。

掘ってない子は雪合戦とか、雪だるま作っていたりします。

そしたら、一人、ぶるぶるさむがっている子が。

恰好を気にして、パーカーのフードを外に出し、キャップはかぶっているけど、耳は出ていて真っ赤で冷たい。フードの首から雪が入って、首回りがびしょびしょ。

この日の体感温度はおそらく―12℃。

首と耳からの冷たさに、体温が奪われていきます。

何度か「大丈夫?」って声かけて、「大丈夫」と言い張る彼に、私の耳当てを貸してあげたけど、やっぱり途中でギブアップ。

脱落して、家に戻ると、パーカーはびしょぬれ。長靴の中も雪がてんこ盛り。

これは寒いわけだよね。

玄関でパーカー脱がせて別の上着着せて、長靴は新聞突っ込んでストーブの前に。

雪を甘く見ちゃいかんよ。

同じように帽子かぶってと言ってもかぶらないでいた子とか、装備が十分でない子たちは、次々脱落。

最後まで吹雪の中に残っていたのは息子ともう一人。実にたくましい。

 

そして、一人帰ってくるごとに、そのまま雪まみれで家の中に入ってこようとするので、「ちょっと待った~!」「玄関で脱いで!」と、玄関で脱がせて、外でジャンバーや手袋、帽子の雪をバンバンはたいて、ストーブの前に長靴と一緒に干しての繰り返し。

なかなかの仕事です(笑)

帰ってきた子供たちにはあったかいおやつ。

この日は、ジャガイモで作ったバターじゃがいも餅。

寒さに震えていた最初の子には、あったかいショウガはちみつも。

毎年繰り返される、こんな冬。

実はこの土日、帰ってもお昼ごはん食べないって子とか、お弁当持ってきてる子がいたから、一緒にお昼ご飯を食べました。みんなで囲む食卓も、また温かいものです。

24日からは冬休み。

長い冬休みはもうすぐです。

 

 

家の中では、ワクワクした夢を語る

遊びに来ていた子のなかで、みんなは外で遊んでいるのに、外にはいかず、一人、大人と話をする子もいたりします。

うちの神棚見て、おばあちゃんちにも大きい神棚あるっていう話から、
「ひいおじいちゃんが、オレのこと守ってくれてるって言われたことあるんだ」って。
「ひいおじいちゃんだったら、怖くないよね」って言ったら、
「ひいおじいちゃんだったら、ぜんぜん怖くないし、むしろ、ありがとう!って思ったら涙でそうでさ。そう思ったら、感謝しなきゃな~って思って、そしたら、今まで(性格)暗かったんだけど、ありがとうって思って、明るくなって、そしたら友達いっぱいできて、ほんと、ひいおじいちゃんのお陰だって、感謝だな~って。」
そんな話が出たから、『いのちのまつり』の絵本を持ってきて見せながら、
「でも、もしかしたらさ、見守ってるの、ひいおじいちゃんだけじゃないかもよ。ひいひいひいひいひいひいおじいちゃんとかさ、もっと前のおじいちゃんとかも、すご~くいっぱいのご先祖様が守ってくれてるかもよ」
って話した。そしたら、
「そう思うと、人間の一番はじめって、細胞なんでしょ?ご先祖様のもっともっと前の人間の初めより前の、最初の生物ってどんなんだろう?」
「植物だって、細胞でできてるなら、生物だよね?」
「地球ができた時の最初の細胞ってなんだろう?」
「そもそも、地球も宇宙のなかで生まれたんだから、人間も、宇宙の中でできた細胞の一部だよね?」
と、どんどん広がっていき、生命の起源、細胞、地球、宇宙と???がいっぱいになった。
それから地球温暖化の話になり、
「人間の勝手で森を削ったり、二酸化炭素いっぱいにして、地球を壊すなんてひどい」っていうから、「今の自分達人間の経済中心な暮らしなんて、たかだか2000年やそこらで、縄文人なんて一万年以上も自然から必要なものだけいただいて暮らして、争いもなく暮らしてたのに、稲作が始まってから貧富の差がうまれて、争いがおきてるんだよね。お陰で経済的に発展したり、技術は進歩してきたけど、それが地球にとって良かったかどうかはわからないよね」
「わからないことを何でだろう?って調べてみることも大事だし、今、正しいと言われてることが本当に正しいかどうかはわからないし、自分で本当かどうか調べてみることも大事だよ」
「温暖化も問題だって言われてるけど、寒冷化はもっと大変だよね。地球の歴史のなかでは、何度も何度も氷河期とあったかい温暖期を繰り返しててさ、氷河期になったら、野菜作れなくなっちゃうし、食べ物なくなっちゃったら、温暖化より大変なことになるかもしれないしね。だって、この辺から、ナウマン像の化石が発掘されてて、この辺も海水面が今より低くて、大陸と陸続きで、氷河期で寒い時代があったんだよね。」
「何でだろう?って思って、それをとことん調べたくなるから、科学者とか、地質学者とか、研究する人になるよね。不思議だな、何でだろう?って思ったら調べたくなるでしょ?」
って言ったら、
「オレ、今まで料理作る人とか、ユーチューバーになろうと思ってたけど科学者になろうかな。そしたら、地球の温暖化とか、こうしたらいいよって言える人になれるし、そういうことを伝える人になろうかな!」
「それもいいけど、料理人で科学者っていうのも面白いかもよ。そしたら、環境とか、地球とか興味ないけど、料理に興味を持ってる人が、料理のユーチューブ見てたら、あれ?この人、なんか、地球環境のこととか言ってるな、って、興味を持ってくれるかもしれないじゃない?」
「そしたら、オレ、料理人で、学者で、ユーチューバーになろうかな!おれ、これから真面目路線でいくことにする!」
彼は野菜愛にあふれた子で、今までは、おばあちゃんが野菜作ってるからって、おいしい野菜の料理の仕方や、おいしい野菜の食べ方を教えてくれたりしていた子でした。
将来は料理人になる!って言っていて、ユーチューバーになる!って言ってたこともありました。そんな彼と、こんな地球とか宇宙とか、生命の話をしていたら、学者になりたい熱が入っちゃったようです。
「図書館にいけば、いろいろ調べられるよね! とりあえず、お母さんにスマホ貸してもらって、いろいろ調べたい!!」
実はこの翌日、彼は遊びに来ませんでした。
もしかしたら、図書館行ったかな?
それとも、インターネットでいろいろ調べてたかな?なんて思っていましたが、はたして、どうだったかは、今度彼に会ったら聞いてみようと思います。

基本的に、子ども達には、いろんな選択肢があるよって伝えたいのです。

夢は一つじゃなくて全然いいし、二つの夢を合体させたっていい。

「ただの学者はいっぱいいるけど、学者で料理人でユーチューバーなんて、ほかにいないと思うよ!」と、話したら、なんかすごくワクワクした顔をしていました。

こういう会話がきっかけで、彼が科学者になったりしたらそりゃあうれしいけど、科学者にならなくても、料理人にはならなくても、彼がいろんな選択肢の中から一番好きなものを見つけて生きてくれたらいいなと思います。わくわくしたその気持ちを忘れないでいてほしいと思います。

子どもをコントロールしすぎていませんか?

子どもを産んだ瞬間、私たちは、子どもをコントロールできないという事を思い知らされます。

なかなか寝てくれない赤ちゃん。

下におろすとぐずる赤ちゃん。

ゆっくりトイレに入りたいのに後追いしてトイレの外で泣く赤ちゃん。

気が付くと、触ってほしくないものを触り、隙あらば口に入れようとする赤ちゃん。

早く保育園に連れて行きたいのに、着替えたくないと駄々をこねる子ども。

部屋をきれいにしたいのに、常に散らかし続ける子ども。

好き嫌いなく食べてほしいのに、食わず嫌いで新しいものは頑として食べようとしない子供。

もう、子育てしていると、親のコントロールなんて到底無理だと思うような出来事ばかり。

でも、家族として一緒に生活していくうえで、これはやってほしい、これはしてほしくない、ということは必ずあります。

だから、しつけとして、根気よく子どもと向き合わなければなりません。

そういう意味で、小さい頃は、どうしてもコントロールが必要になってきます。

でも、コントロールという名のしつけ糸は、いつか外さなくてはなりません。

ところが、大きくなってまで、しつけ糸を外そうとせず、さらに強い糸でコントロールし続けてしまうと、子どもはのびのび腕を伸ばすことができません。

体が大きくなったのに、いつまでもしつけ糸のついたきつい服を身に着けて、窮屈そうにしている子が時々います。

窮屈そうな子供たち

小学生の子ども達と会話していると、日々がとても窮屈そうだな~と、感じる子が時々います。

テレビ見ちゃいけない。

ゲームも禁止された。

遊びに行っていい範囲が、親によってきめられている(学校のルールよりさらに狭い)。

遊んじゃダメな友達がいる。

親に決められている帰らなければならない時間がみんなよりだいぶ早い。

塾や習い事で一週間のスケジュールがびっちり。

一日の中でも、そろばんのあとはスイミング、帰りに塾に行って、帰ってきたらぐったり。

宿題終わってからじゃないと遊んじゃダメ。

汚すと怒られる。

などなど。

 

家に帰っても、宿題しなさいとか、ごろごろしてないでとか、あれこれ言われるので、家でくつろげないという子も。

塾や習い事で一週間びっちりな子は、たまの休みも、「休みだから遊べる~!」じゃなくて、友達と遊ぶよりも、家でのんびり休みたいという子も。

ただ、ごろごろ、だらだらする時間が欲しいと。

それができない日常っていうのは、毎日休みなしで残業しているサラリーマンのようだなと。

小学生なのに、生気がない。

いつも疲れた顔をしている。

う~ん・・・窮屈そうだな~・・・。

 

自由にしてあげたら、子ども達、本当に生き生きしています。

あんなことやりたい、こんなことやりたいと、目を輝かせて話してくれます。

 

子どもを守りたい気持ちはわかります。

苦労してほしくない気持ちもわかります。

でも、行き過ぎると、こどもの生き生きした目の輝きを奪ってしまいます。

信じて任せてもらえない。

それは、親の言うとおりにしなければ認めてもらえないという事でもあるからです。

そう、窮屈そうな子供たちには、強い承認欲求があります。

コントロールは必要か?

子どもには、大人になってから苦労させたくない。

お金の心配のない仕事についてほしい。

そのためには、今頑張って塾に行って、いい学校に入って、いい就職先に就職してもらいたい。

だから、今遊んでごろごろしてる時間がもったいない。

こうやってごろごろしている間に、一生懸命頑張ってる子たちはどんどん差をつけていく。

 

親の中にも焦りがあります。

 

私も、中学校時代、次男のゲームを取り上げ、隠したことがありました。けれど、それは無駄で、親がいないすきに家探しして、なんとしてもゲームを見つけてゲームをやるのです。

ゲームしてる時間がもったいない!時間を無駄にしてるだけだと、どうしても認められませんでした。

私の場合は、その時間を勉強に充ててほしいというよりは、もっといろんな面白い世界を見つけてほしいと思っていました。

本当にやりたいことを見つけてほしいと思っていました。

だけど、ゲーム三昧で日々はただ過ぎていきました。

 

でも、やりたいことをみつけるにはタイミングがありました。

 

こんなのもあるよ、あんなのもあるよと、いろいろ見せてきたけど、どれもいまいちヒットせず、なんとな~く高校は建築科に行っていましたが、本当にそれが自分のやりたい事かどうかわからないままで、やりたいことが見つからないまま、とうとう高校三年。

最後、進路を決めるときになって、初めて次男が自分で決めた進路は「デザイン」でした。

親としては、思いがけない選択でした。

なぜ「デザインなのか?」と聞いた時、

高校の先生が、「自分の一番好きなことで進路を決めてみたらどうか?」と言ってくれたからでした。

もちろん、親も今までそういうことは言ってきたつもりでした。

でも、一番次男の心を動かしたのは、先生の一言でした。

 

今までの経験上、そういう好きなものに気づくタイミングを作るのは、親じゃないことの方が多いと感じています。

長男は、最初から好きなこと、没頭できることがあって、自分から好きなことを見つけていくタイプでした。

長女は、親に反抗しつつ、親の助言はほとんど耳に入れず、教育講演で学校に来た人の話を聞いて、医療の道を目指すことを決めました。

 

はたして、子どもにコントロールは必要なのでしょうか?

 

全然必要ないな~。というのが、今の私の正直な気持ちです。

押さえつけてコントロールすればするほど、はねのけてくる。

 

もう、これは、信じて見守るしかないです。

あなたならできる。

できることはできる限り応援する。

親にできることは、それしかないと感じています。

 

そうはいっても・・・コントロールしたくなるんですよね!

いかにそれをぐっとこらえるか。

信じられるかが親力です。

信じる力

連休初日。

子どもたちがハンバーグ作りたいと言い出しました。

そこで、お金だけ渡して、自分たちで必要な材料を調べて、お店で買ってくるところからスタート。

買うはずだったデミグラスソースがなかったから、煮込みハンバーグのソースを、合いびき肉がなかったから豚肉を買い、若干材料の変更はあったけど、それでも大丈夫、きっとおいしいよと、ハンバーグを作り始めた子供たち。

それぞれ、話し合いながら、玉ねぎ切るのも変わりばんこ。

卵割る人、混ぜる人、材料を入れる人、それぞれけんかすることなく分担していきます。

その間大人は見守るだけ。

唯一の6年の子は、調理実習の経験もあるから、「みんな初めに手洗えよ」とか、「卵割った手、べたべただから、一回洗って来いよ」とか、細かいところを指図しています。

そして、最後、手でこねるところは、それぞれ、自分の分は自分でこねるということになりました。

「うへ~!」とか言いながら、こねこねしています。

焼き色ついてひっくり返すのも、「おれ、ひっくり返すの怖いから、お前やって」とか、できないことは人にお任せしたり。

焼いてる間、遊びに行ってしまう子がいる中で、一人、焦げないかちゃんと見守っている子。

上手に焼き上がり、ソースでちょっぴり煮込んだらできあがり!

みんな、うまいうまいとペロリです。

4年生から6年生の男子たち。

大満足だったようです。

それぞれ、料理の経験のある子から、あんまりやったことない子まで、手分けして、ほんとうに楽しそうにやっていました。

料理の良くできる子が中心でやりながらも、ちゃんとみんながそれぞれの工程をやれるように考えて、これはあいつにやってもらおうとか、まだあいつやってないから、あいつにやらせてあげようとか、そういう話し合いの場面も興味深く見守らせてもらいました。

大人が口出ししなくても、ちゃんとできるんですよね。

協力してちゃんとできる力を持ってるんですよね。

 

大人が信じて任せたら、意外とちゃんとできるのが子供たち。

 

ちょっとづつ、コントロールを手放して、信じて任せることを増やしていってほしいなと思います。

 

Happy Childrenの活動を支援する

Happy Childreの活動に共感いただけましたら、いくらかでも支援していただけませんか?
居場所としてのおうちプレーパークでのおやつ代、様々な子供たちの創作活動での材料費など、
皆様のご寄付によって支えられております。基本的に、居場所にかかる資金は、全て自腹で賄っております。
皆様からのご寄付があることで、子ども達にも、たくさんの人から支えられているんだよと伝えることができます。
助けて、助けられる世界を子どもたちに見せていきたいと思っています。
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         普通預金
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今年度は、平出桃子さん、北野まなみさん、さとうちぐささん
よりご支援いただきました!ありがとうございます!
また、直接食材の提供もいただいております!いつも支えていただきありがとうございます!
子供たちへのおやつ代、時には昼食代、今回のハンバーグの材料費、剣を作るためのひもやガムテープなど、子ども達のために使わせていただいております。

 

 

 

種は、全ての情報を持っている

庭には、長男が3歳ぐらいに拾ってきたドングリの木があります。

たった一粒のどんぐりが、今では屋根ほどにも大きく育ち、毎年、次なるいのちの源である実をたくさんつけます。

たった一粒のどんぐりが、20年かけて、これほどまでに見事に大きくなる様子を眺めてきて、感動を覚えています。

あの小さなどんぐりの中には、こんな大きな木になるための情報が全て詰まっているのだと。

完璧にプログラミングされている実。

それが、どんぐりであり、種であり、人で言うなら受精卵です。

あんな小さな種が、全ての情報を持っていると思うと、生命の不思議を感じます。

自然な姿、宇宙の理

種には、すべての情報がプログラミングされています。

どんぐりは、コロコロコトンと落ちたその場所で芽を出します。

地中深くに根を伸ばし、お日様を求め、まっすぐ空に向かって伸びていきます。

でも、たまたま種が落ちた場所に障害物があったり、日当たりが悪かったりして、曲がってしまうことはあります。

でも、木は、お日様に向かって伸びようとします。

障害物を避けながら曲がって伸びたり、日当たりが悪くて、他の木に比べて小さくてひょろひょろだったとしても、なんとか上に伸びよう伸びようとします。

それが自然の姿です。

 

種を、私達自身におきかえ、種が落ちた場所を、生まれた環境と考えてみてください。

お日様は愛、宇宙の真理と考えてみてください。

どんな環境に生まれたとしても、人は、まっすぐ愛を求めて伸びていきます。宇宙の真理に向かって、伸びていこうとします。

それが自然な姿です。

でも、その自然な姿になろうとするのを、生育が悪いからと栄養剤をたっぷりいれたり、曲がった木をなんとか、まっすぐにしようと押さえ込んで縛り付けてみたり、時に、曲がったものはダメだと切り落としてしまったりします。

一番大事なのは、日当たりを良くしてあげることなのに、形ばかりまっすぐにしようと頑張っってしまったりします。

曲がりながらも、たくましく伸びて行く姿は、自然界の中では、美しくさえもあるのに。

そして、森の中で、植物同士の関係を見るとき、そんなたった一粒の小さな小さな実から、大きく育った木々が、お互い枝が重なり合わないように枝を伸ばし、調和し、共存している様子を見ることが出来ます。これをクラウン・シャイネスというようです。

自然界の中では、一本の木だけ、お日様を独り占めしようなんてしない。

みんながそれぞれお日様を受けられるように、ちょうどいいように枝を伸ばしていくのです。

そして、そんな森の中では、様々な生き物たちが、やはり共存しながら生きています。

そしてその根元には、冬が来て、落ちた葉っぱでふかふかの土ができる。

土の中にも無数の微生物がいる。

地中には木々が蓄えた豊かな水がある。

それもまた、完璧なまでの自然のシステム。

 

では、人はどうでしょう?

 

自分ばかりおひさまを独り占めしようとしていないだろうか?

自分ばかりおひさまを独り占めしようとするあまり、山を丸裸にし、水が蓄えられないやせた大地は、ひとたび大雨が降れば、土砂崩れしてしまう。

自分ばかり勝とうとするあまり、その陰で、弱い国を貧困に追いやってはいないだろうか?

自分ばかり独り占めしようとするあまり、地球を傷つけてはいないだろうか?

 

それは、自然のシステムに逆らっていないだろうか?

 

そして、まっすぐ伸びようとしている枝を、無理やり望む形に押し込めようとしてはいないだろうか?

 

自然なままに、まっすぐ伸びられるように、お日様(愛)をたっぷりそそぐこと。

共存共栄していくこと。

それが自然の姿。宇宙の理なのではないでしょうか?

ことばから考えてみる

先ほど、お日様を、愛や宇宙の真理に置き換えてみましょう、と書きました。

日本語で「ひ」という時、

日、陽、火とあらわしますが、もう一つ、「ひ(霊)」という意味もあります。

「ひ(霊)」は、いのちの根源的な力であるといわれます。

「ひ(霊)」は、エネルギーの源です。

 

いのちの根源的力とは何だろうかと考えるとき、それはやはり「愛」であると思うのです。

 

「ヒ」とは霊(ひ)のことであり、「ト」は停めることや止めることを意味します。
つまり「ヒト」とは、身(体)に霊(ひ)を留めた存在だから、「ヒト」という日本語ができています。

料理に火を通すことを、「火を入れる」と表現します。

「火を入れる」とは「ひ(霊)を入れる」ことです。

おむすびは、もともと神道の概念で「結び」「産霊(むすひ)」からきているとも言います。

古事記の「たかみむすび」、「かみむすび」、「あめのみなかぬしのかみ」の三神を結ぶと。

霊(ひ)を結ぶから「おむすび」。

 

「ひ(霊、愛)」を宿した体が人であること。

 

アインシュタインが言っていました。

「愛は光である」

「愛は力だ」

「神は愛で、愛は神だ」

「愛こそが生命の神髄だ」

と。

 

自分の中心に、根源的な「ひ(霊、愛)」をちゃんと持てているでしょうか?

 

昔は、「ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、とお」と数えました。

「ひ」からはじまり「と」で終わる。

一から始まり十で結ぶ。結んだら新たな一が産まれるわけです。

はじまりは「ひ(霊、愛)」なんだと、昔の人は知っていたのではないでしょうか。

 

日本語ってすごいなと思います。

本質をことばの中にちゃんと表しているんです。

 

たった一つのどんぐりから、こんなことを考えていた数日でした。

 

 

たった一人のつぶやきと、それをフォローする人の力で世界が変わる


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シルバーウィーク中に、夏泊半島にある大島のごみ拾いがありました。

大島は、数年前に行った時も、すごくきれいな海なのに、ゴミが大量で、残念だな~って思っていました。

でも、ブイとか、漁具とか、大きなゴミがいっぱいだし、一人でどうにかできる量じゃないから、拾うのはあきらめていました。

それを今回、ドイツ人のMihaiさんが、「このゴミなんとかしたいね~」とつぶやいたことから、「よし、みんなで拾おう!」ってそれに乗っかった人がいて、有志が集まって、Blue Peaceというグループを立ち上げ、そこから広がって広がって、最終的には164人ほどの人がボランティアで集まって、1万7200kgのごみをみんなで拾い、きれいにすることができたのです!

今回きれいにできたのは、島のほんの一部1/4程度の見える範囲だけだったけど、それでも、みんなの力が集まったら、不可能だと思っていたこともできちゃうんだ!!

と、感動しました。

たった一人から始まり、フォローする人がムーブメントをおこす

この動画は見たことがあるでしょうか?

ご存知の方もいると思いますが。

最初、一人の裸で踊っている人がいます。

バカなことやってるな~と眺めている人たち。

そこに、一人の勇気あるフォロワーがやってきます。

そのフォロワーが仲間を手招きします。

すると、次第に一緒に踊りだす人が増えていきます。

臨界点を越えたときの人々の動きを見てください。

 

こんな風に、ムーブメントが起こるときはあっという間です。

一人が始める勇気もさることながら、それを面白がってフォローする人の存在が大きい。

そして、こんな風にムーブメントが起こるのは、やっぱり、楽しそうだから。

「楽しそうに」っていうところがポイントなんじゃないのかな~って思うんです。

 

今回のごみ拾いも、発信したのはユーチューバーでもあるMihaiさん。

「なんとかしたいね」「このままでいいの?」っていう動画には、ゴミに対する怒りや、悲壮感というよりも、なんとかしたいね~っていう気持ちと、美しい大島の海。歩いて一周回る、ちょっとドキドキ感。自分も、きれいになった大島を歩きたいって思ってしまう動画。

楽しむことがキーワード!

こういうムーブメントのキーワードは、やっぱり楽しむこと。

人は、なんだかおもしろそう!と思うことに吸い寄せられていく習性があるように思います。

お祭り、文化祭、イベント、楽しそうなところには自然と人が集まります。

怒りのデモなんかも、共感した人は集まるのだけれど、共感しない人は、冷ややかに傍観していたりします。

でも、お祭りやイベントなど、楽しいことには、全然興味なかった~っていう人も、自然に巻き込まれていくように思います。

世界が変わる臨界点を越えていくには、こういう楽しさが必要だと感じます。

 

ゴミをまじめに拾っていると、

「何で持って帰らないんだ!」

「何でその辺にポイポイするんだ!」

と、腹も立ってきます。

一人でごみを拾っていると、拾っても拾っても落ちているごみに、

こんなの、一人が拾ったところで、たかが知れてるし、全体のゴミの量に比べたら微々たるものだし、ほんと、たいしたことないし、こんなことやっても、何にもならないんじゃないか?っていう無力感にも襲われます。

 

でも、怒ったところで、何もしなければ、海に流れていくゴミは増え続ける一方で、何も変わらないどころか、もっとひどくなる。

怒りで人を批判することでは、世界は変わらない。

むしろ、怒りは怒りを呼び、戦いを引き起こします。

怒りは、不安、不満をひきおこし、怒れば怒るほど対立が生まれる。

 

でも、ただゴミを拾うという行為を楽しむ、ゴミを拾ったらきれいになったことを喜ぶ、そんな楽しさから生まれた行動には対立は起こらない。

平和的で、それぞれつながって、同じ目的での一体感を楽しんでいる。

こ~んなに拾った大量のゴミ。トラック出してくれる方がいて、重くて大きなゴミも運んでくれました。

ゴミを運ぶことすら、一直線に並んでゴミリレーなんて、楽しいアイディアで、みんなが楽しめる。

ブイのような、数が大きくて大きなものは、こうやって並んで、次々リレーして橋渡し。

そして、ゴミを拾った拾った海岸は・・・

 

Before

After

こんなにきれいになって、本当に感動です!

 

この島の全景です。

今回拾ったゴミは、この島の1/4ほど。まだまだ、奥の方には拾えていないゴミがあります。島の奥は、運ぶのも簡単ではなさそうですが、

これまた何か楽しいアイディアできれいにできる日が来ると信じています!

 

と、いうことで、キーワードは楽しむこと!

 

マインドフルネスごみひろい

もうひとつ、「世界が変わる学校」というオンラインの無料の朝の学校の中で、10/11~17まで、Giveness weekという企画があります。

それは、私たちが目指す理想の世界、最も価値のあるものを無料で提供している世界。

「お金」ではなく「信頼関係」をベースにした「社会の未来システム」を実践する1週間のこと。

そのGiveness weekに、

「マインドフルネスごみひろい」というイベントが立ち上がりました。

その、イベントを始めるにあたり、一人の想いがそこにはありました。

***********************************

わたしが世界に望むことは、生きとし生けるもの全てが調和し、水、空気、海、山、街、資源を分かち合い幸せに暮らすことです。
しかし現実は、自分らしく生きる事が出来ず苦しんでいる人も多く、温暖化や海洋ゴミなどの地球環境問題が顕著となり、自然と分離している感覚があります。
いかにしてこのような世界はつくられるのでしょうか?
それは私は私、あなたはあなたと言う境界線が孤独感を増幅させ、自分さえ良ければ…というエゴが地球環境に影響を及ぼしているからです。
では、世界を変えるために、わたしたちにできることは何でしょうか?
それは、心の中の男性性と女性性の統合を進め、まずは自分自身と仲良くなること。
そして心と身体を整えて日々の生活を丁寧に暮らすことです。
そうは言っても、統合や整えると言われても良くわからないですし、一人ではなかなか続きませんよね?
そこで、こんなアイデアを考えました。
〜私の世界が変わる〜
【マインドフルネスごみひろい】
みなさんはこんな経験はありませんか?
家の中がスッキリ片付くと思考がクリアになり良いアイディアが浮かんできたり、無駄なエネルギーを使わずに済むので日々の生活のクオリティーがあがります。
どうして私達はこの様な気分になるのでしょうか?
それは自分の中の女性性が「きれいにして欲しい!」というリクエストをあなたの男性性に出します。
女性性は【今この瞬間の感覚】しかありませんから男性性の【行動力】に期待するしかないのです。
結果、男性性によって行動変容が起こり、女性性が喜ぶという大変美しい循環が起きているのです。
では家の外はどうなるのでしょうか?
私はやはり住む街もきれいな方が好きです。
私がごみひろいをはじめたきっかけは、海洋ゴミの80%は街ごみから直接海に流れていると知ったから。
地球は我が家という視点で考えてみると面白いと思いませんか?
ごみひろいは人生哲学にもつながります。
目の前にある、夢の落としものを無心でただ拾う作業は、マインドフルネスそのもの。
ごみひろいが終わった後は、言葉に出来ないくらいの至福を感じる事が出来るでしょう。
マインドフルネスごみひろいは
「今この瞬間を生きる」
身体を動かしながらする瞑想です。
私は世界に光をもたらす人たちとこれからも共に暮していきたいので、10月11日から始まるギブネスウィークに「世界一斉ごみひろい」ご一緒しませんか?
★━━━━-
そして、このマインドフルネスゴミ拾いでは、全国、世界中から、ゴミバスターズを募集中です!
トングや軍手を片手に、あなたの町を、海を、きれいにしてくれる、勇者を募集しております!
 
ハッシュタグをつけて、SNSに投稿してくれたら、世界中のどこでごみを拾ってくれてたのか、最終的にはマッピングしたいと検討中です!
みんなで楽しんでゴミ拾いをしたいですね♪
#マインドフルネスごみひろい#ゴミバスターズのハッシュタグをつけて、ぜひ皆さんも参加してみてくださいね。
マインドフルネスゴミ拾いのFBページはこちら⇩

【マインドフルネスごみひろい】

 

 

植物と暮らす


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我が家の庭は、実はそれほど広いわけではありません。

でも、季節ごとに花を咲かせ、実を成らせ、日々を楽しませてくれる庭です。

ちょっと台所で薬味が欲しいなと思えば、庭に出て、ハーブや薬味を摘んでくることができます。

季節の花をちょっぴり摘んで、玄関や食卓を飾ることもできます。

植物と暮らすことは、とても心地よく、

植物は、暮らしを豊かにしてくれます。

そんな、我が家の植物たちとの暮らしを紹介します。

暮らしをデザインする

私達が家を建てたとき、一番大事にしたのは、庭のある家であることでした。

家は小さくてもいい。

でも、木のぬくもりを感じる家にしよう。

畑がある庭がいい。

庭には、木登りできる木を植えよう。

それが、私達の最初のコンセプトでした。

家が建ってからは、暮らしながら、庭を育てていきました。

家までのアプローチには、四季折々に楽しめる花を植えることにしました。

ちょっとしたハーブもあったらいいなと、苗を買いました。

アゲハが来るようにと、山椒の木を植えました。でも、子供が遊ぶ庭なので、トゲのない品種を選びました。

実のなる木があったら楽しいなと、さくらんぼの木を植えました。

ご近所さんから、育ちすぎて困ってるからと、ワイルドストロベリーの苗をいただきました。

子どもが公園から拾ってきたドングリを庭に植えてみました。

庭をデザインするのはワクワクしました。

どこにどの木を配置するか、ハーブはどこに植えようか、畑もトラックで土を入れてもらい、庭の真ん中で野菜を育てました。

生ごみをたい肥にするたい肥スペースも作りました。

庭で、ある程度のものは手に入るように、デザインしました。

あれから17年~

庭に植えたどんぐりの木は、なんと、子ども達が木登りできるほどに育ちました。

さくらんぼは、毎年鈴なりに実をつけてくれて、子どもたちにとって、6月はうれしい季節になりました。来る子ども来る子ども、みんな木に登り、さくらんぼをほおばります。

そして、大きく育ったサクランボの木の上の基地と、カエデの木をロープで結んだターザンロープは、子ども達のいい遊び環境を作ってくれています。

同じころ、ワイルドストロベリーも摘み頃です。

摘んだワイルドストロベリーやさくらんぼは、冷凍したり、ジャムにして、ケーキやヨーグルトのトッピングに♪

サンショウの木には、毎年アゲハがやってきて、幼虫を見つけては、うちの中に入れて育てて観察します。

庭の入り口のアーチには、いろんな種類の植物が絡んでいて、春には藤の花が咲き、

夏にはノウゼンカズラが花を咲かせて目を楽しませてくれます。そして、いい日陰を作ってくれています。

カエデの木は、子どもが木登りするにはちょうど良く、ブランコを下げ、アジサイも、7月には花盛りで、切り花として楽しめます。

二年ぐらい前から、ブドウが実をつけるようになり、9月はブドウが楽しめます。

庭の一角に作ったハーブ園には、オレガノ、タイム、ローズマリー、セージ、バジル、パセリ、カモミールがちょっとづつ植えてあります。

料理にちょっと必要な時、庭からサッと摘んでこれるところが便利です。

レモンバームとミントは、ちょっとハーブティーが飲みたいときには最高。

三つ葉があちこちに生えているので、みそ汁の具にも。

ミョウガもちょっぴり収穫できます。

焼いて甘みそだれで食べたり、みそ汁に入れたり。

あとは、クロモジの木。知り合いの山から一本いただいて植えたら、これまた結構大きな木になりまして。春先には黄色いきれいな花を咲かせてくれて、切り花としても楽しみますが、春先の若い葉っぱは天ぷらで楽しめるし、木の枝や葉っぱはクロモジ茶にすると、さわやかな柑橘系の香りで、精神安定にもいいようで、スッキリ落ち着きたいときは、クロモジ茶のお世話になります。

カイコのえさにと、桑の木も植えてあります。

ただ、残念なことに、木に病気が出てしまい、若い葉っぱしか使えませんが。

そんな風に、必要なものは、大体庭にあります。

そして、当初は畑だったところは、子ども達が走り回って踏み荒らすので、畑は他に借りることにして、庭には必要最小限の畑スペースのみのこして、更地に戻し、今は、子ども達が穴掘ったり、ターザンロープやったり、走り回ったり自由にできるスペースになりました。

それはそれで、子どもたちが遊ぶ庭に進化していった結果です。

家の中の植物たちも

我が家の庭の植物たちは17年で大きく育ち、庭は、豊かな恵みをもたらしてくれる、小さな森になりました。

そして、家の中はというと、家の中も、実は植物でいっぱいです。

大好きな窓辺には、たくさんの植物。

これは、実はアボカド。

種から育てて、ここまで大きく育ちました。

種から育てたものといえば、今はまだ、外に鉢植えで置いてありますが、冬には家の中に入れるビワの木。

メダカの水槽は一つはビオトープタイプで育てています。

家の裏に生えていた苔を瓶にレイアウトして、コケリウムも作ってみました。

季節ごとに咲いてる花を摘んで飾ります。夏はちょっと、飾るお花が少ない季節です。

玄関にも

トイレにも。

風水をちょっと勉強したときに、植物があるところを、玄関から入ってきた氣が流れてくるというようなことが書いてあって、氣が滞りそうな場所に植物を置くといいということで、家の中、あちこちに植物が置いてあります。

植物たちのお陰で、いい氣が流れているように感じます。

でも、忙しくて植物のお世話もあまりできないときとか、掃除もあんまりできないときなんかは、氣が滞っているからか、植物が枯れるんですよね。

最近、暑くてうだうだしてたり、忙しかったりで、植物のお手入れがあまりできていなかったので、久しぶりに、観葉植物の鉢植えを一回り大きいものに植え替えたり、土を入れ替えたり、葉っぱのほこりをとったりしました。

そしたらなんか、すごく植物たちがイキイキして、喜んでいるように感じて、場がスッキリした感じがするのです。

外の植物と違って、家の中の植物は、お世話が必要になります。

それでも、朝、「おはよう~」って、お水あげたり、葉っぱふきながら「いつもありがとうね~。きれいになって気持ちいいね~」なんて、話しかけていると、植物たちが愛おしくなってくるんです。

植物が好きすぎて、大学時代、

植物の神秘生活

という本を買いました。

この本との出会いは衝撃的で、植物に気持ちがあるという事をこの本で初めて知りました。

葉っぱにクリップをつけて、植物の電位を測定してみたところ、どうやら、植物にも人間でいう「うれしい」「こわい、いやだ」というような反応を見せるのだということでした。

この本と出合ってからの私の植物に対する接し方が変わりました。

あなたのことがが大好き!という暖かい目で植物を見ながらお世話をするとき、私もとてもやさしい気持ちになるのです。

気持ちの落ち着く空間

植物があるところは、気持ちが落ち着きます。

家の中に植物があるだけでもだいぶ違います。

庭があれば、木や、お花、土のある暮らしは、暮らしをとても豊かにしてくれます。

そんな私も、それでも気持ちが下がってしまった時や、ストレスが溜まってしまった時は、もっと広い自然の中に行きます。

森、川、滝、海、山、高原などなど。

八甲田

夏泊

奥入瀬渓流

渓流の滝

川遊び

白神山地

白神のブナの木

気持ちの落ち着く空間には、必ず植物があります。

そして、青森県には原生林の森もあり、海もあり、山もあり、湖もあり、渓流もあります。

本当に自然豊かなところです。

コロナ疲れの時、多くの人は自然の中に出ました。

自然の中を家族連れで散歩したという人も多いのではないでしょうか。

 

植物と暮らす心地よさを、皆さんにも味わっていただきたいな~と思います。

豊かな生活を体験して欲しいな~と思います。

できることなら、子ども時代に、自然と暮らすことが当たり前の世界であったらいいな~と思います。

家に遊びに来た女の子が、

「私も大きくなったらこんな家に住みたいな~♡緑がいっぱいあって、なんか癒される。」

と話していました。

緑がいっぱいの空間は心地いい。癒される。それを肌で感じてくれたのだと思います。

それを体感していたなら、きっと大人になったときに、緑いっぱいの家に住むことを選択してくれるのではないかと思っています。

 

植物と暮らしてみませんか?

 

 

 

 

 

 

 

 

生きてるとは

生命は進化する。

言い換えれば、変化する。

生きるという事は変化していくこと。

流れるように、流動的に。

地球も、毎年春夏秋冬ひとめぐりして、何も変わっていないようでいて、

実はものすごいスピードで動いてる。

太陽の周りを約時速10万㎞で公転し、

さらに、自転速度は時速約1700㎞。

さらに、太陽系は、銀河系の中を約864000㎞で移動している。

もう、それはそれは、ものすごい速さで動いている。

ってことは、今日の私と、昨日の私がいる場所は、ものすごい移動しているわけで、

昨日の私と今日の私は全く別の場所にいるわけです。

さらに、人間の細胞は、毎日ちょっとづつ生まれ変わっています。

人間の腸の細胞は数日で入れ代わり、

肌の細胞は約一ヵ月で入れ代わります。

ってことは、今の私と、一か月後の私は、別人になってるとも言えるのではないでしょうか?

 

生きているものは、常に変化し続けています。

 

流れが止まった時、いのちは止まる

生きるという事は、流動的に変化することだと思うのです。

木だって、ただそこに何年も何十年もたっているだけに見えて、

その枝は、毎年ちょっとずつ伸びて、根を大地に張り巡らし、大きくなっていきます。

その内部では、常に水が動いています。

水は大地から吸い上げられ、大気に流れていきます。

 

その、水の流れが止まった時、いのちは終わります。

 

人もまた、人の体内では常に血液は流れ、動いています。

水を飲み、汗やおしっこで排出します。

 

そう、生命は流れています。

 

川の流れのように、流れている水は腐りません。

船の中で水が腐らないのは、波で常に動いているからだと聞いたことがあります。

流れの止まった水は腐る=死ぬということなのかな。

 

生きるという事は、変化し続けること

生きるという事は変化していくこと。

動き続けていること。

流れ続けていること。

とどまることを知らず、

流れる水のように。

海に流れた後でもなお、波として動きつづけ、

大気に蒸発し、雲となり、雨となって降り注ぎ、循環していきます。

 

動き続け、循環し、変化していくのが自然の姿であるならば、

人もまた、自然な姿と言うのは変化していくことなのかもしれないと思うのです。

 

同じところにとどまり続けず、

変化を恐れず。

 

時に、とどまり、動けなくなることもあるけれど、

とどまり続けているように見えて、

実のところ、イモムシがさなぎになって、

さなぎの中で蝶に変化するように、

じっくりと、ゆっくりと変化している、ということもあるのかもしれません。

 

それまでの自分とは違う生き方に触れたり、

自分とは違う考え方に触れたり、

違う価値観に出会った時、

それまでの自分の価値観が大きく崩れ、

新しい世界が見えてくることもあります。

 

そんなとき、人は大きく変化します。

 

変化を楽しもう!

子ども達は、じっとしていることが苦手です。

子どもたちは常に動き続けています。

細胞が盛んに分裂し、変化の最盛期にあるからです。

そんな子どもたちを、本来は一つのところにとどめておくのは難しい。

遊びの中でも、常に刺激を求め、どうやったら今よりも楽しくなるか、

どうやったらもっと面白いかを探究していきます。

 

でも、いつの頃からか、変化を恐れるようになります。

 

現状にとどまりたくなります。

 

そのほうが楽だから。

 

変化するには、それなりのエネルギーがいります。

高い所から低いところに動く運動エネルギー。

重力に逆らって水を吸い上げる力。

エネルギーが不足していては流れること(動くこと)ができませんよね。

 

変化を恐れるのは、ある意味、エネルギー不足なのかもしれません。

 

時には休養して、よく眠り、おいしいもの食べて、お日様のエネルギーを体に取り込み、植物たちからもエネルギーをもらい、自分を満たし、エネルギーを充電する必要があります。

 

子ども達がエネルギーにあふれているのは、食う、寝る、遊ぶで、充分エネルギーチャージしているから。

食う。

寝る。

遊ぶ。

さらに、お母さんからの愛情のエネルギーチャージもありますからね。

毎日エネルギー使い果たすまで遊んでは、ご飯をたっぷり食べて、お腹も満たされ、お母さんに甘えて、ぐっすり眠り、次の日にはエネルギーがフルチャージされています。

大人も、子どものように、エネルギーを満タンにできたなら、変化を楽しめるようになるのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思春期の子育て

きのう、スクールコーチングしているつむちゃんのしゃべり場に参加させていただきました。

普段は学校の子ども達の話をただただ聞いてくれているつむちゃんですが、今回は、思春期の子を持つお母さんたちのお話しを、ただただ聞いてくれました。

反抗期の男の子を持つお母さんの悩み、子どもがちょっと大きくなって、もう過ぎた反抗期の子を持つ親御さんのお話し、まだ子供が小さいけれど、いつかやってくる思春期のお話しを聞きたかった親御さんの話、高校や中学校の先生から見た子ども達の話。

そのなかで、感じた事をお話ししていきます。

「ぼくを見て!」「わたしを見て!」

いろんな視点からのお話しを聞いている中で、一つ感じたのは、子ども達の中に、小さい頃と変わらず、「ぼくを見て!」「わたしを見て!」という子供たちの見て欲しい、認めて欲しい、そんな声にならない子ども達の声を聞いたような気がしました。

小さいうちは、ストレートに、「お母さん!!見て見て!!」って話してくれますが、

思春期になると、「見て!」っていう代わりに、見てくれていない親に対して反抗してくるのかなと感じました。

 

今回は、YouTubeで思ったことを話しているので、よかったら、こちらもご覧ください。

 

つむちゃんのしゃべり場の最後に、中学校の先生が、こんなことを言っていました。

 

「みんな、子ども達を上から見てるんだよね。思春期の子供は、親より優位に立ちたいんだよね。自分の方がこのことについては詳しいんだ、って。」

「あなたはやればできるんだからって、一見あなたを信じてるというメッセージのようであるけど、ほんとは、今できなくてもいいじゃん、それでもお母さんはあなたのことが変わらず大好きだよって、いうような関わり方があってもいいんじゃないのかな~」って話していました。

もう一つ、海外で子育てしている方からは、海外では、ハグの文化があるから、結構事あるごとに大好きよってハグをするっていうお話もあって、思春期になっていきなりハグはできないだろうけど、まだ子供が小さなうちなら、いっぱいハグして、愛情は多すぎるぐらい与えていいと思うよって。

 

幼少期の愛着形成がその後の人生に影響してくる?

オンラインで、いろんな方と家族関係について話をしていた時に、結構、幼少期の親のちょっとした言動だったり、態度だったりそういうことが無意識にすりこまれてて、今の生きづらさにつながっているというお話をされる方が何人もいました。

無意識に刷り込まれてるから、自分でも気づいてなかったけど、今の問題は何で起きてるかって、深堀していくと、子どもの頃の親からの何気ない一言からだったということが浮き彫りになっていくんですよね。

多くの方が、なにかしら、やっぱり親の影響は受けている、という事を目の当たりにしました。

幼少期の愛着形成の時期に、なにかしら拒否されたとか、怒られたとか、そういうことが、なにか一歩踏み出せないでいる自分のブレーキになっていることもある。

 

また、最近、FBで、不安をいっぱい抱えている子供の話を書きました。

コロナの不安、日焼けの不安、不審者の不安、常に不安が彼の周りを取り巻いていました。

親御さんは、コロナが流行し始めたとき、いち早く子どもが遊びに出ることを禁止しました。

この子は、一人で過ごす休校期間中、YouTubeやネットで、たくさんの不安になる情報を得ていきました。

ネットの影響もあるけど、親御さんの不安が子どもに与えた影響も大きいだろうなと思いました。

委ねる、緩める

その時、コメント下さった金田隆佳さんという整体師さんから、こんなコメントをいただきました。

「不安や恐怖の根っこは『愛着関係のヌケ・遅れ』、そこにくっついてる『トラウマやフラッシュバック』だと言われています。

背骨を中心に背面を弛めることで、変化していきます。
※いろいろな方法がありますが、手っ取り早いですよ
手で直接触れるのも、ハンモックでゆらゆらゆれるのもいいです。
子守歌とか唄ってあげたら赤ちゃんまで退行して、安心・安全を思い出すかも。
『委ねる』感覚です
背面が弛むと『委ねる感覚』が戻ってきますよ
委ねるって、不安だと出来ないですから」
だから、背中をゆるめたり、おんぶするのもいいですよと教えていただきました。
そう思うと、ハグも、身をゆだねる行為ですよね。
そうやって、背中を緩めて身をゆだねられたら、安心しますよね。
思春期で、バトルを繰り返していると、常に緊張状態だろうし、そういう意味では、「委ねる感覚」を感じられたら、それがきっと安心感にもつながる。
親自身も、自分の幼少期の親との愛着形成がうまくできてなかったかも、という場合でも、もう一度「委ねる感覚」を取り戻せたら、そこで前に進めるのかもしれないな~と感じたのです。
今回、思春期の子供をテーマにブログを書きましたが、
結局は、小さな子供であれ、思春期であれ、大人になった今であっても、
「自分を認めてほしい」と思っているし、「愛して欲しい」と思っている。
それが感じられなくなった時、不安や、怒りという感情が現れてくるのかなと思いました。
だから、イライラしたり、不安になった時、
ハグしたり、背中を緩めるって、結構有効なんじゃないかと思うので、
ぜひ、試してみてくださいね。