子供たちの冬がやってきた!

平日の放課後は、冬は遊べる時間が短すぎてほとんど遊べないんだけど、週末になると、たくさん子供たちがやってきます。

先日から降り続いた雪で、外は雪遊びができる雪山もできて、雪遊びシーズンを満喫している子ども達です。待ちに待った雪です!

降り始めのころなんかは、みんな油断しているから、上着しか着てこない子がいたり、手袋してない子がいたり、靴もスニーカーだったりして、雪遊びできるような恰好で来ない子がいます。

でも、基本、うちに来ると、冬は必ずと言っていいほど雪遊びします。

だから、完全防備は必須です。

なので、うちにはおさがりのスキーズボンや手袋、ジャンバーも140~160cmまで、各種取り揃えております(笑)

ない子には貸してあげるんだけど、「貸してあげるよ」と言っても、「いらない」という子がいます。

でも、そういう子は、みんなはまだまだ雪まみれで遊びまくっているのに、寒さに耐えかねて先に家に戻ってきてしまいます。

だから貸してあげるって言ったのに。

まあ、それもその子の選択です。

でも、そんなことを経験すると、次の日は、完全防備でやってきます。替えの手袋まで持ってくる入念さ。

何事も経験です。

 

そして、実は、子どもたちの雪遊びに付き合う大人は、一番重装備が必要です。

氷点下の中でも

この週末の気温は‐6℃。

うちの近くは、八甲田から吹き降ろす風が強く、吹雪くと体感温度はさらにぐっと下がります。

気温‐6℃の時、風速8m/sで体感温度‐12℃ぐらいになるらしいです。

そんな氷点下の吹雪の中、積もった雪に大喜びの子供たちは、空き地にかまくらを作りに飛び出します。

山ができたら穴を掘るんだけど、誰が掘るかで言い争っています。

「お前ばっかり堀りすぎだぞ!交代しろよ」

「俺まだ掘ってない」

「みんなで掘らないとさ、俺が作ったんだぞ!とかって、威張ったりするじゃん。みんなでかわりばんこしないとさ~」

最終的には話し合って、みんなちょっと掘ったら交代するをうまく繰り返していました。

掘ってない子は雪合戦とか、雪だるま作っていたりします。

そしたら、一人、ぶるぶるさむがっている子が。

恰好を気にして、パーカーのフードを外に出し、キャップはかぶっているけど、耳は出ていて真っ赤で冷たい。フードの首から雪が入って、首回りがびしょびしょ。

この日の体感温度はおそらく―12℃。

首と耳からの冷たさに、体温が奪われていきます。

何度か「大丈夫?」って声かけて、「大丈夫」と言い張る彼に、私の耳当てを貸してあげたけど、やっぱり途中でギブアップ。

脱落して、家に戻ると、パーカーはびしょぬれ。長靴の中も雪がてんこ盛り。

これは寒いわけだよね。

玄関でパーカー脱がせて別の上着着せて、長靴は新聞突っ込んでストーブの前に。

雪を甘く見ちゃいかんよ。

同じように帽子かぶってと言ってもかぶらないでいた子とか、装備が十分でない子たちは、次々脱落。

最後まで吹雪の中に残っていたのは息子ともう一人。実にたくましい。

 

そして、一人帰ってくるごとに、そのまま雪まみれで家の中に入ってこようとするので、「ちょっと待った~!」「玄関で脱いで!」と、玄関で脱がせて、外でジャンバーや手袋、帽子の雪をバンバンはたいて、ストーブの前に長靴と一緒に干しての繰り返し。

なかなかの仕事です(笑)

帰ってきた子供たちにはあったかいおやつ。

この日は、ジャガイモで作ったバターじゃがいも餅。

寒さに震えていた最初の子には、あったかいショウガはちみつも。

毎年繰り返される、こんな冬。

実はこの土日、帰ってもお昼ごはん食べないって子とか、お弁当持ってきてる子がいたから、一緒にお昼ご飯を食べました。みんなで囲む食卓も、また温かいものです。

24日からは冬休み。

長い冬休みはもうすぐです。

 

 

家の中では、ワクワクした夢を語る

遊びに来ていた子のなかで、みんなは外で遊んでいるのに、外にはいかず、一人、大人と話をする子もいたりします。

うちの神棚見て、おばあちゃんちにも大きい神棚あるっていう話から、
「ひいおじいちゃんが、オレのこと守ってくれてるって言われたことあるんだ」って。
「ひいおじいちゃんだったら、怖くないよね」って言ったら、
「ひいおじいちゃんだったら、ぜんぜん怖くないし、むしろ、ありがとう!って思ったら涙でそうでさ。そう思ったら、感謝しなきゃな~って思って、そしたら、今まで(性格)暗かったんだけど、ありがとうって思って、明るくなって、そしたら友達いっぱいできて、ほんと、ひいおじいちゃんのお陰だって、感謝だな~って。」
そんな話が出たから、『いのちのまつり』の絵本を持ってきて見せながら、
「でも、もしかしたらさ、見守ってるの、ひいおじいちゃんだけじゃないかもよ。ひいひいひいひいひいひいおじいちゃんとかさ、もっと前のおじいちゃんとかも、すご~くいっぱいのご先祖様が守ってくれてるかもよ」
って話した。そしたら、
「そう思うと、人間の一番はじめって、細胞なんでしょ?ご先祖様のもっともっと前の人間の初めより前の、最初の生物ってどんなんだろう?」
「植物だって、細胞でできてるなら、生物だよね?」
「地球ができた時の最初の細胞ってなんだろう?」
「そもそも、地球も宇宙のなかで生まれたんだから、人間も、宇宙の中でできた細胞の一部だよね?」
と、どんどん広がっていき、生命の起源、細胞、地球、宇宙と???がいっぱいになった。
それから地球温暖化の話になり、
「人間の勝手で森を削ったり、二酸化炭素いっぱいにして、地球を壊すなんてひどい」っていうから、「今の自分達人間の経済中心な暮らしなんて、たかだか2000年やそこらで、縄文人なんて一万年以上も自然から必要なものだけいただいて暮らして、争いもなく暮らしてたのに、稲作が始まってから貧富の差がうまれて、争いがおきてるんだよね。お陰で経済的に発展したり、技術は進歩してきたけど、それが地球にとって良かったかどうかはわからないよね」
「わからないことを何でだろう?って調べてみることも大事だし、今、正しいと言われてることが本当に正しいかどうかはわからないし、自分で本当かどうか調べてみることも大事だよ」
「温暖化も問題だって言われてるけど、寒冷化はもっと大変だよね。地球の歴史のなかでは、何度も何度も氷河期とあったかい温暖期を繰り返しててさ、氷河期になったら、野菜作れなくなっちゃうし、食べ物なくなっちゃったら、温暖化より大変なことになるかもしれないしね。だって、この辺から、ナウマン像の化石が発掘されてて、この辺も海水面が今より低くて、大陸と陸続きで、氷河期で寒い時代があったんだよね。」
「何でだろう?って思って、それをとことん調べたくなるから、科学者とか、地質学者とか、研究する人になるよね。不思議だな、何でだろう?って思ったら調べたくなるでしょ?」
って言ったら、
「オレ、今まで料理作る人とか、ユーチューバーになろうと思ってたけど科学者になろうかな。そしたら、地球の温暖化とか、こうしたらいいよって言える人になれるし、そういうことを伝える人になろうかな!」
「それもいいけど、料理人で科学者っていうのも面白いかもよ。そしたら、環境とか、地球とか興味ないけど、料理に興味を持ってる人が、料理のユーチューブ見てたら、あれ?この人、なんか、地球環境のこととか言ってるな、って、興味を持ってくれるかもしれないじゃない?」
「そしたら、オレ、料理人で、学者で、ユーチューバーになろうかな!おれ、これから真面目路線でいくことにする!」
彼は野菜愛にあふれた子で、今までは、おばあちゃんが野菜作ってるからって、おいしい野菜の料理の仕方や、おいしい野菜の食べ方を教えてくれたりしていた子でした。
将来は料理人になる!って言っていて、ユーチューバーになる!って言ってたこともありました。そんな彼と、こんな地球とか宇宙とか、生命の話をしていたら、学者になりたい熱が入っちゃったようです。
「図書館にいけば、いろいろ調べられるよね! とりあえず、お母さんにスマホ貸してもらって、いろいろ調べたい!!」
実はこの翌日、彼は遊びに来ませんでした。
もしかしたら、図書館行ったかな?
それとも、インターネットでいろいろ調べてたかな?なんて思っていましたが、はたして、どうだったかは、今度彼に会ったら聞いてみようと思います。

基本的に、子ども達には、いろんな選択肢があるよって伝えたいのです。

夢は一つじゃなくて全然いいし、二つの夢を合体させたっていい。

「ただの学者はいっぱいいるけど、学者で料理人でユーチューバーなんて、ほかにいないと思うよ!」と、話したら、なんかすごくワクワクした顔をしていました。

こういう会話がきっかけで、彼が科学者になったりしたらそりゃあうれしいけど、科学者にならなくても、料理人にはならなくても、彼がいろんな選択肢の中から一番好きなものを見つけて生きてくれたらいいなと思います。わくわくしたその気持ちを忘れないでいてほしいと思います。

子どもをコントロールしすぎていませんか?

子どもを産んだ瞬間、私たちは、子どもをコントロールできないという事を思い知らされます。

なかなか寝てくれない赤ちゃん。

下におろすとぐずる赤ちゃん。

ゆっくりトイレに入りたいのに後追いしてトイレの外で泣く赤ちゃん。

気が付くと、触ってほしくないものを触り、隙あらば口に入れようとする赤ちゃん。

早く保育園に連れて行きたいのに、着替えたくないと駄々をこねる子ども。

部屋をきれいにしたいのに、常に散らかし続ける子ども。

好き嫌いなく食べてほしいのに、食わず嫌いで新しいものは頑として食べようとしない子供。

もう、子育てしていると、親のコントロールなんて到底無理だと思うような出来事ばかり。

でも、家族として一緒に生活していくうえで、これはやってほしい、これはしてほしくない、ということは必ずあります。

だから、しつけとして、根気よく子どもと向き合わなければなりません。

そういう意味で、小さい頃は、どうしてもコントロールが必要になってきます。

でも、コントロールという名のしつけ糸は、いつか外さなくてはなりません。

ところが、大きくなってまで、しつけ糸を外そうとせず、さらに強い糸でコントロールし続けてしまうと、子どもはのびのび腕を伸ばすことができません。

体が大きくなったのに、いつまでもしつけ糸のついたきつい服を身に着けて、窮屈そうにしている子が時々います。

窮屈そうな子供たち

小学生の子ども達と会話していると、日々がとても窮屈そうだな~と、感じる子が時々います。

テレビ見ちゃいけない。

ゲームも禁止された。

遊びに行っていい範囲が、親によってきめられている(学校のルールよりさらに狭い)。

遊んじゃダメな友達がいる。

親に決められている帰らなければならない時間がみんなよりだいぶ早い。

塾や習い事で一週間のスケジュールがびっちり。

一日の中でも、そろばんのあとはスイミング、帰りに塾に行って、帰ってきたらぐったり。

宿題終わってからじゃないと遊んじゃダメ。

汚すと怒られる。

などなど。

 

家に帰っても、宿題しなさいとか、ごろごろしてないでとか、あれこれ言われるので、家でくつろげないという子も。

塾や習い事で一週間びっちりな子は、たまの休みも、「休みだから遊べる~!」じゃなくて、友達と遊ぶよりも、家でのんびり休みたいという子も。

ただ、ごろごろ、だらだらする時間が欲しいと。

それができない日常っていうのは、毎日休みなしで残業しているサラリーマンのようだなと。

小学生なのに、生気がない。

いつも疲れた顔をしている。

う~ん・・・窮屈そうだな~・・・。

 

自由にしてあげたら、子ども達、本当に生き生きしています。

あんなことやりたい、こんなことやりたいと、目を輝かせて話してくれます。

 

子どもを守りたい気持ちはわかります。

苦労してほしくない気持ちもわかります。

でも、行き過ぎると、こどもの生き生きした目の輝きを奪ってしまいます。

信じて任せてもらえない。

それは、親の言うとおりにしなければ認めてもらえないという事でもあるからです。

そう、窮屈そうな子供たちには、強い承認欲求があります。

コントロールは必要か?

子どもには、大人になってから苦労させたくない。

お金の心配のない仕事についてほしい。

そのためには、今頑張って塾に行って、いい学校に入って、いい就職先に就職してもらいたい。

だから、今遊んでごろごろしてる時間がもったいない。

こうやってごろごろしている間に、一生懸命頑張ってる子たちはどんどん差をつけていく。

 

親の中にも焦りがあります。

 

私も、中学校時代、次男のゲームを取り上げ、隠したことがありました。けれど、それは無駄で、親がいないすきに家探しして、なんとしてもゲームを見つけてゲームをやるのです。

ゲームしてる時間がもったいない!時間を無駄にしてるだけだと、どうしても認められませんでした。

私の場合は、その時間を勉強に充ててほしいというよりは、もっといろんな面白い世界を見つけてほしいと思っていました。

本当にやりたいことを見つけてほしいと思っていました。

だけど、ゲーム三昧で日々はただ過ぎていきました。

 

でも、やりたいことをみつけるにはタイミングがありました。

 

こんなのもあるよ、あんなのもあるよと、いろいろ見せてきたけど、どれもいまいちヒットせず、なんとな~く高校は建築科に行っていましたが、本当にそれが自分のやりたい事かどうかわからないままで、やりたいことが見つからないまま、とうとう高校三年。

最後、進路を決めるときになって、初めて次男が自分で決めた進路は「デザイン」でした。

親としては、思いがけない選択でした。

なぜ「デザインなのか?」と聞いた時、

高校の先生が、「自分の一番好きなことで進路を決めてみたらどうか?」と言ってくれたからでした。

もちろん、親も今までそういうことは言ってきたつもりでした。

でも、一番次男の心を動かしたのは、先生の一言でした。

 

今までの経験上、そういう好きなものに気づくタイミングを作るのは、親じゃないことの方が多いと感じています。

長男は、最初から好きなこと、没頭できることがあって、自分から好きなことを見つけていくタイプでした。

長女は、親に反抗しつつ、親の助言はほとんど耳に入れず、教育講演で学校に来た人の話を聞いて、医療の道を目指すことを決めました。

 

はたして、子どもにコントロールは必要なのでしょうか?

 

全然必要ないな~。というのが、今の私の正直な気持ちです。

押さえつけてコントロールすればするほど、はねのけてくる。

 

もう、これは、信じて見守るしかないです。

あなたならできる。

できることはできる限り応援する。

親にできることは、それしかないと感じています。

 

そうはいっても・・・コントロールしたくなるんですよね!

いかにそれをぐっとこらえるか。

信じられるかが親力です。

信じる力

連休初日。

子どもたちがハンバーグ作りたいと言い出しました。

そこで、お金だけ渡して、自分たちで必要な材料を調べて、お店で買ってくるところからスタート。

買うはずだったデミグラスソースがなかったから、煮込みハンバーグのソースを、合いびき肉がなかったから豚肉を買い、若干材料の変更はあったけど、それでも大丈夫、きっとおいしいよと、ハンバーグを作り始めた子供たち。

それぞれ、話し合いながら、玉ねぎ切るのも変わりばんこ。

卵割る人、混ぜる人、材料を入れる人、それぞれけんかすることなく分担していきます。

その間大人は見守るだけ。

唯一の6年の子は、調理実習の経験もあるから、「みんな初めに手洗えよ」とか、「卵割った手、べたべただから、一回洗って来いよ」とか、細かいところを指図しています。

そして、最後、手でこねるところは、それぞれ、自分の分は自分でこねるということになりました。

「うへ~!」とか言いながら、こねこねしています。

焼き色ついてひっくり返すのも、「おれ、ひっくり返すの怖いから、お前やって」とか、できないことは人にお任せしたり。

焼いてる間、遊びに行ってしまう子がいる中で、一人、焦げないかちゃんと見守っている子。

上手に焼き上がり、ソースでちょっぴり煮込んだらできあがり!

みんな、うまいうまいとペロリです。

4年生から6年生の男子たち。

大満足だったようです。

それぞれ、料理の経験のある子から、あんまりやったことない子まで、手分けして、ほんとうに楽しそうにやっていました。

料理の良くできる子が中心でやりながらも、ちゃんとみんながそれぞれの工程をやれるように考えて、これはあいつにやってもらおうとか、まだあいつやってないから、あいつにやらせてあげようとか、そういう話し合いの場面も興味深く見守らせてもらいました。

大人が口出ししなくても、ちゃんとできるんですよね。

協力してちゃんとできる力を持ってるんですよね。

 

大人が信じて任せたら、意外とちゃんとできるのが子供たち。

 

ちょっとづつ、コントロールを手放して、信じて任せることを増やしていってほしいなと思います。

 

Happy Childrenの活動を支援する

Happy Childreの活動に共感いただけましたら、いくらかでも支援していただけませんか?
居場所としてのおうちプレーパークでのおやつ代、様々な子供たちの創作活動での材料費など、
皆様のご寄付によって支えられております。基本的に、居場所にかかる資金は、全て自腹で賄っております。
皆様からのご寄付があることで、子ども達にも、たくさんの人から支えられているんだよと伝えることができます。
助けて、助けられる世界を子どもたちに見せていきたいと思っています。
継続的に支援して下さるととてもうれしいです。

【ゆうちょ】記号18420 番号07138981
      シンドウサチコ

【他行からの場合】ゆうちょ銀行

         支店名 八四八 (読み ハチヨンハチ)
         普通預金
         口座番号0713898

【ペイパルからの寄付はこちらからお願いします】

https://paypal.me/HappyChildrenJP

今年度は、平出桃子さん、北野まなみさん、さとうちぐささん
よりご支援いただきました!ありがとうございます!
また、直接食材の提供もいただいております!いつも支えていただきありがとうございます!
子供たちへのおやつ代、時には昼食代、今回のハンバーグの材料費、剣を作るためのひもやガムテープなど、子ども達のために使わせていただいております。

 

 

 

種は、全ての情報を持っている

庭には、長男が3歳ぐらいに拾ってきたドングリの木があります。

たった一粒のどんぐりが、今では屋根ほどにも大きく育ち、毎年、次なるいのちの源である実をたくさんつけます。

たった一粒のどんぐりが、20年かけて、これほどまでに見事に大きくなる様子を眺めてきて、感動を覚えています。

あの小さなどんぐりの中には、こんな大きな木になるための情報が全て詰まっているのだと。

完璧にプログラミングされている実。

それが、どんぐりであり、種であり、人で言うなら受精卵です。

あんな小さな種が、全ての情報を持っていると思うと、生命の不思議を感じます。

自然な姿、宇宙の理

種には、すべての情報がプログラミングされています。

どんぐりは、コロコロコトンと落ちたその場所で芽を出します。

地中深くに根を伸ばし、お日様を求め、まっすぐ空に向かって伸びていきます。

でも、たまたま種が落ちた場所に障害物があったり、日当たりが悪かったりして、曲がってしまうことはあります。

でも、木は、お日様に向かって伸びようとします。

障害物を避けながら曲がって伸びたり、日当たりが悪くて、他の木に比べて小さくてひょろひょろだったとしても、なんとか上に伸びよう伸びようとします。

それが自然の姿です。

 

種を、私達自身におきかえ、種が落ちた場所を、生まれた環境と考えてみてください。

お日様は愛、宇宙の真理と考えてみてください。

どんな環境に生まれたとしても、人は、まっすぐ愛を求めて伸びていきます。宇宙の真理に向かって、伸びていこうとします。

それが自然な姿です。

でも、その自然な姿になろうとするのを、生育が悪いからと栄養剤をたっぷりいれたり、曲がった木をなんとか、まっすぐにしようと押さえ込んで縛り付けてみたり、時に、曲がったものはダメだと切り落としてしまったりします。

一番大事なのは、日当たりを良くしてあげることなのに、形ばかりまっすぐにしようと頑張っってしまったりします。

曲がりながらも、たくましく伸びて行く姿は、自然界の中では、美しくさえもあるのに。

そして、森の中で、植物同士の関係を見るとき、そんなたった一粒の小さな小さな実から、大きく育った木々が、お互い枝が重なり合わないように枝を伸ばし、調和し、共存している様子を見ることが出来ます。これをクラウン・シャイネスというようです。

自然界の中では、一本の木だけ、お日様を独り占めしようなんてしない。

みんながそれぞれお日様を受けられるように、ちょうどいいように枝を伸ばしていくのです。

そして、そんな森の中では、様々な生き物たちが、やはり共存しながら生きています。

そしてその根元には、冬が来て、落ちた葉っぱでふかふかの土ができる。

土の中にも無数の微生物がいる。

地中には木々が蓄えた豊かな水がある。

それもまた、完璧なまでの自然のシステム。

 

では、人はどうでしょう?

 

自分ばかりおひさまを独り占めしようとしていないだろうか?

自分ばかりおひさまを独り占めしようとするあまり、山を丸裸にし、水が蓄えられないやせた大地は、ひとたび大雨が降れば、土砂崩れしてしまう。

自分ばかり勝とうとするあまり、その陰で、弱い国を貧困に追いやってはいないだろうか?

自分ばかり独り占めしようとするあまり、地球を傷つけてはいないだろうか?

 

それは、自然のシステムに逆らっていないだろうか?

 

そして、まっすぐ伸びようとしている枝を、無理やり望む形に押し込めようとしてはいないだろうか?

 

自然なままに、まっすぐ伸びられるように、お日様(愛)をたっぷりそそぐこと。

共存共栄していくこと。

それが自然の姿。宇宙の理なのではないでしょうか?

ことばから考えてみる

先ほど、お日様を、愛や宇宙の真理に置き換えてみましょう、と書きました。

日本語で「ひ」という時、

日、陽、火とあらわしますが、もう一つ、「ひ(霊)」という意味もあります。

「ひ(霊)」は、いのちの根源的な力であるといわれます。

「ひ(霊)」は、エネルギーの源です。

 

いのちの根源的力とは何だろうかと考えるとき、それはやはり「愛」であると思うのです。

 

「ヒ」とは霊(ひ)のことであり、「ト」は停めることや止めることを意味します。
つまり「ヒト」とは、身(体)に霊(ひ)を留めた存在だから、「ヒト」という日本語ができています。

料理に火を通すことを、「火を入れる」と表現します。

「火を入れる」とは「ひ(霊)を入れる」ことです。

おむすびは、もともと神道の概念で「結び」「産霊(むすひ)」からきているとも言います。

古事記の「たかみむすび」、「かみむすび」、「あめのみなかぬしのかみ」の三神を結ぶと。

霊(ひ)を結ぶから「おむすび」。

 

「ひ(霊、愛)」を宿した体が人であること。

 

アインシュタインが言っていました。

「愛は光である」

「愛は力だ」

「神は愛で、愛は神だ」

「愛こそが生命の神髄だ」

と。

 

自分の中心に、根源的な「ひ(霊、愛)」をちゃんと持てているでしょうか?

 

昔は、「ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、とお」と数えました。

「ひ」からはじまり「と」で終わる。

一から始まり十で結ぶ。結んだら新たな一が産まれるわけです。

はじまりは「ひ(霊、愛)」なんだと、昔の人は知っていたのではないでしょうか。

 

日本語ってすごいなと思います。

本質をことばの中にちゃんと表しているんです。

 

たった一つのどんぐりから、こんなことを考えていた数日でした。

 

 

たった一人のつぶやきと、それをフォローする人の力で世界が変わる


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シルバーウィーク中に、夏泊半島にある大島のごみ拾いがありました。

大島は、数年前に行った時も、すごくきれいな海なのに、ゴミが大量で、残念だな~って思っていました。

でも、ブイとか、漁具とか、大きなゴミがいっぱいだし、一人でどうにかできる量じゃないから、拾うのはあきらめていました。

それを今回、ドイツ人のMihaiさんが、「このゴミなんとかしたいね~」とつぶやいたことから、「よし、みんなで拾おう!」ってそれに乗っかった人がいて、有志が集まって、Blue Peaceというグループを立ち上げ、そこから広がって広がって、最終的には164人ほどの人がボランティアで集まって、1万7200kgのごみをみんなで拾い、きれいにすることができたのです!

今回きれいにできたのは、島のほんの一部1/4程度の見える範囲だけだったけど、それでも、みんなの力が集まったら、不可能だと思っていたこともできちゃうんだ!!

と、感動しました。

たった一人から始まり、フォローする人がムーブメントをおこす

この動画は見たことがあるでしょうか?

ご存知の方もいると思いますが。

最初、一人の裸で踊っている人がいます。

バカなことやってるな~と眺めている人たち。

そこに、一人の勇気あるフォロワーがやってきます。

そのフォロワーが仲間を手招きします。

すると、次第に一緒に踊りだす人が増えていきます。

臨界点を越えたときの人々の動きを見てください。

 

こんな風に、ムーブメントが起こるときはあっという間です。

一人が始める勇気もさることながら、それを面白がってフォローする人の存在が大きい。

そして、こんな風にムーブメントが起こるのは、やっぱり、楽しそうだから。

「楽しそうに」っていうところがポイントなんじゃないのかな~って思うんです。

 

今回のごみ拾いも、発信したのはユーチューバーでもあるMihaiさん。

「なんとかしたいね」「このままでいいの?」っていう動画には、ゴミに対する怒りや、悲壮感というよりも、なんとかしたいね~っていう気持ちと、美しい大島の海。歩いて一周回る、ちょっとドキドキ感。自分も、きれいになった大島を歩きたいって思ってしまう動画。

楽しむことがキーワード!

こういうムーブメントのキーワードは、やっぱり楽しむこと。

人は、なんだかおもしろそう!と思うことに吸い寄せられていく習性があるように思います。

お祭り、文化祭、イベント、楽しそうなところには自然と人が集まります。

怒りのデモなんかも、共感した人は集まるのだけれど、共感しない人は、冷ややかに傍観していたりします。

でも、お祭りやイベントなど、楽しいことには、全然興味なかった~っていう人も、自然に巻き込まれていくように思います。

世界が変わる臨界点を越えていくには、こういう楽しさが必要だと感じます。

 

ゴミをまじめに拾っていると、

「何で持って帰らないんだ!」

「何でその辺にポイポイするんだ!」

と、腹も立ってきます。

一人でごみを拾っていると、拾っても拾っても落ちているごみに、

こんなの、一人が拾ったところで、たかが知れてるし、全体のゴミの量に比べたら微々たるものだし、ほんと、たいしたことないし、こんなことやっても、何にもならないんじゃないか?っていう無力感にも襲われます。

 

でも、怒ったところで、何もしなければ、海に流れていくゴミは増え続ける一方で、何も変わらないどころか、もっとひどくなる。

怒りで人を批判することでは、世界は変わらない。

むしろ、怒りは怒りを呼び、戦いを引き起こします。

怒りは、不安、不満をひきおこし、怒れば怒るほど対立が生まれる。

 

でも、ただゴミを拾うという行為を楽しむ、ゴミを拾ったらきれいになったことを喜ぶ、そんな楽しさから生まれた行動には対立は起こらない。

平和的で、それぞれつながって、同じ目的での一体感を楽しんでいる。

こ~んなに拾った大量のゴミ。トラック出してくれる方がいて、重くて大きなゴミも運んでくれました。

ゴミを運ぶことすら、一直線に並んでゴミリレーなんて、楽しいアイディアで、みんなが楽しめる。

ブイのような、数が大きくて大きなものは、こうやって並んで、次々リレーして橋渡し。

そして、ゴミを拾った拾った海岸は・・・

 

Before

After

こんなにきれいになって、本当に感動です!

 

この島の全景です。

今回拾ったゴミは、この島の1/4ほど。まだまだ、奥の方には拾えていないゴミがあります。島の奥は、運ぶのも簡単ではなさそうですが、

これまた何か楽しいアイディアできれいにできる日が来ると信じています!

 

と、いうことで、キーワードは楽しむこと!

 

マインドフルネスごみひろい

もうひとつ、「世界が変わる学校」というオンラインの無料の朝の学校の中で、10/11~17まで、Giveness weekという企画があります。

それは、私たちが目指す理想の世界、最も価値のあるものを無料で提供している世界。

「お金」ではなく「信頼関係」をベースにした「社会の未来システム」を実践する1週間のこと。

そのGiveness weekに、

「マインドフルネスごみひろい」というイベントが立ち上がりました。

その、イベントを始めるにあたり、一人の想いがそこにはありました。

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わたしが世界に望むことは、生きとし生けるもの全てが調和し、水、空気、海、山、街、資源を分かち合い幸せに暮らすことです。
しかし現実は、自分らしく生きる事が出来ず苦しんでいる人も多く、温暖化や海洋ゴミなどの地球環境問題が顕著となり、自然と分離している感覚があります。
いかにしてこのような世界はつくられるのでしょうか?
それは私は私、あなたはあなたと言う境界線が孤独感を増幅させ、自分さえ良ければ…というエゴが地球環境に影響を及ぼしているからです。
では、世界を変えるために、わたしたちにできることは何でしょうか?
それは、心の中の男性性と女性性の統合を進め、まずは自分自身と仲良くなること。
そして心と身体を整えて日々の生活を丁寧に暮らすことです。
そうは言っても、統合や整えると言われても良くわからないですし、一人ではなかなか続きませんよね?
そこで、こんなアイデアを考えました。
〜私の世界が変わる〜
【マインドフルネスごみひろい】
みなさんはこんな経験はありませんか?
家の中がスッキリ片付くと思考がクリアになり良いアイディアが浮かんできたり、無駄なエネルギーを使わずに済むので日々の生活のクオリティーがあがります。
どうして私達はこの様な気分になるのでしょうか?
それは自分の中の女性性が「きれいにして欲しい!」というリクエストをあなたの男性性に出します。
女性性は【今この瞬間の感覚】しかありませんから男性性の【行動力】に期待するしかないのです。
結果、男性性によって行動変容が起こり、女性性が喜ぶという大変美しい循環が起きているのです。
では家の外はどうなるのでしょうか?
私はやはり住む街もきれいな方が好きです。
私がごみひろいをはじめたきっかけは、海洋ゴミの80%は街ごみから直接海に流れていると知ったから。
地球は我が家という視点で考えてみると面白いと思いませんか?
ごみひろいは人生哲学にもつながります。
目の前にある、夢の落としものを無心でただ拾う作業は、マインドフルネスそのもの。
ごみひろいが終わった後は、言葉に出来ないくらいの至福を感じる事が出来るでしょう。
マインドフルネスごみひろいは
「今この瞬間を生きる」
身体を動かしながらする瞑想です。
私は世界に光をもたらす人たちとこれからも共に暮していきたいので、10月11日から始まるギブネスウィークに「世界一斉ごみひろい」ご一緒しませんか?
★━━━━-
そして、このマインドフルネスゴミ拾いでは、全国、世界中から、ゴミバスターズを募集中です!
トングや軍手を片手に、あなたの町を、海を、きれいにしてくれる、勇者を募集しております!
 
ハッシュタグをつけて、SNSに投稿してくれたら、世界中のどこでごみを拾ってくれてたのか、最終的にはマッピングしたいと検討中です!
みんなで楽しんでゴミ拾いをしたいですね♪
#マインドフルネスごみひろい#ゴミバスターズのハッシュタグをつけて、ぜひ皆さんも参加してみてくださいね。
マインドフルネスゴミ拾いのFBページはこちら⇩

【マインドフルネスごみひろい】

 

 

植物と暮らす


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我が家の庭は、実はそれほど広いわけではありません。

でも、季節ごとに花を咲かせ、実を成らせ、日々を楽しませてくれる庭です。

ちょっと台所で薬味が欲しいなと思えば、庭に出て、ハーブや薬味を摘んでくることができます。

季節の花をちょっぴり摘んで、玄関や食卓を飾ることもできます。

植物と暮らすことは、とても心地よく、

植物は、暮らしを豊かにしてくれます。

そんな、我が家の植物たちとの暮らしを紹介します。

暮らしをデザインする

私達が家を建てたとき、一番大事にしたのは、庭のある家であることでした。

家は小さくてもいい。

でも、木のぬくもりを感じる家にしよう。

畑がある庭がいい。

庭には、木登りできる木を植えよう。

それが、私達の最初のコンセプトでした。

家が建ってからは、暮らしながら、庭を育てていきました。

家までのアプローチには、四季折々に楽しめる花を植えることにしました。

ちょっとしたハーブもあったらいいなと、苗を買いました。

アゲハが来るようにと、山椒の木を植えました。でも、子供が遊ぶ庭なので、トゲのない品種を選びました。

実のなる木があったら楽しいなと、さくらんぼの木を植えました。

ご近所さんから、育ちすぎて困ってるからと、ワイルドストロベリーの苗をいただきました。

子どもが公園から拾ってきたドングリを庭に植えてみました。

庭をデザインするのはワクワクしました。

どこにどの木を配置するか、ハーブはどこに植えようか、畑もトラックで土を入れてもらい、庭の真ん中で野菜を育てました。

生ごみをたい肥にするたい肥スペースも作りました。

庭で、ある程度のものは手に入るように、デザインしました。

あれから17年~

庭に植えたどんぐりの木は、なんと、子ども達が木登りできるほどに育ちました。

さくらんぼは、毎年鈴なりに実をつけてくれて、子どもたちにとって、6月はうれしい季節になりました。来る子ども来る子ども、みんな木に登り、さくらんぼをほおばります。

そして、大きく育ったサクランボの木の上の基地と、カエデの木をロープで結んだターザンロープは、子ども達のいい遊び環境を作ってくれています。

同じころ、ワイルドストロベリーも摘み頃です。

摘んだワイルドストロベリーやさくらんぼは、冷凍したり、ジャムにして、ケーキやヨーグルトのトッピングに♪

サンショウの木には、毎年アゲハがやってきて、幼虫を見つけては、うちの中に入れて育てて観察します。

庭の入り口のアーチには、いろんな種類の植物が絡んでいて、春には藤の花が咲き、

夏にはノウゼンカズラが花を咲かせて目を楽しませてくれます。そして、いい日陰を作ってくれています。

カエデの木は、子どもが木登りするにはちょうど良く、ブランコを下げ、アジサイも、7月には花盛りで、切り花として楽しめます。

二年ぐらい前から、ブドウが実をつけるようになり、9月はブドウが楽しめます。

庭の一角に作ったハーブ園には、オレガノ、タイム、ローズマリー、セージ、バジル、パセリ、カモミールがちょっとづつ植えてあります。

料理にちょっと必要な時、庭からサッと摘んでこれるところが便利です。

レモンバームとミントは、ちょっとハーブティーが飲みたいときには最高。

三つ葉があちこちに生えているので、みそ汁の具にも。

ミョウガもちょっぴり収穫できます。

焼いて甘みそだれで食べたり、みそ汁に入れたり。

あとは、クロモジの木。知り合いの山から一本いただいて植えたら、これまた結構大きな木になりまして。春先には黄色いきれいな花を咲かせてくれて、切り花としても楽しみますが、春先の若い葉っぱは天ぷらで楽しめるし、木の枝や葉っぱはクロモジ茶にすると、さわやかな柑橘系の香りで、精神安定にもいいようで、スッキリ落ち着きたいときは、クロモジ茶のお世話になります。

カイコのえさにと、桑の木も植えてあります。

ただ、残念なことに、木に病気が出てしまい、若い葉っぱしか使えませんが。

そんな風に、必要なものは、大体庭にあります。

そして、当初は畑だったところは、子ども達が走り回って踏み荒らすので、畑は他に借りることにして、庭には必要最小限の畑スペースのみのこして、更地に戻し、今は、子ども達が穴掘ったり、ターザンロープやったり、走り回ったり自由にできるスペースになりました。

それはそれで、子どもたちが遊ぶ庭に進化していった結果です。

家の中の植物たちも

我が家の庭の植物たちは17年で大きく育ち、庭は、豊かな恵みをもたらしてくれる、小さな森になりました。

そして、家の中はというと、家の中も、実は植物でいっぱいです。

大好きな窓辺には、たくさんの植物。

これは、実はアボカド。

種から育てて、ここまで大きく育ちました。

種から育てたものといえば、今はまだ、外に鉢植えで置いてありますが、冬には家の中に入れるビワの木。

メダカの水槽は一つはビオトープタイプで育てています。

家の裏に生えていた苔を瓶にレイアウトして、コケリウムも作ってみました。

季節ごとに咲いてる花を摘んで飾ります。夏はちょっと、飾るお花が少ない季節です。

玄関にも

トイレにも。

風水をちょっと勉強したときに、植物があるところを、玄関から入ってきた氣が流れてくるというようなことが書いてあって、氣が滞りそうな場所に植物を置くといいということで、家の中、あちこちに植物が置いてあります。

植物たちのお陰で、いい氣が流れているように感じます。

でも、忙しくて植物のお世話もあまりできないときとか、掃除もあんまりできないときなんかは、氣が滞っているからか、植物が枯れるんですよね。

最近、暑くてうだうだしてたり、忙しかったりで、植物のお手入れがあまりできていなかったので、久しぶりに、観葉植物の鉢植えを一回り大きいものに植え替えたり、土を入れ替えたり、葉っぱのほこりをとったりしました。

そしたらなんか、すごく植物たちがイキイキして、喜んでいるように感じて、場がスッキリした感じがするのです。

外の植物と違って、家の中の植物は、お世話が必要になります。

それでも、朝、「おはよう~」って、お水あげたり、葉っぱふきながら「いつもありがとうね~。きれいになって気持ちいいね~」なんて、話しかけていると、植物たちが愛おしくなってくるんです。

植物が好きすぎて、大学時代、

植物の神秘生活

という本を買いました。

この本との出会いは衝撃的で、植物に気持ちがあるという事をこの本で初めて知りました。

葉っぱにクリップをつけて、植物の電位を測定してみたところ、どうやら、植物にも人間でいう「うれしい」「こわい、いやだ」というような反応を見せるのだということでした。

この本と出合ってからの私の植物に対する接し方が変わりました。

あなたのことがが大好き!という暖かい目で植物を見ながらお世話をするとき、私もとてもやさしい気持ちになるのです。

気持ちの落ち着く空間

植物があるところは、気持ちが落ち着きます。

家の中に植物があるだけでもだいぶ違います。

庭があれば、木や、お花、土のある暮らしは、暮らしをとても豊かにしてくれます。

そんな私も、それでも気持ちが下がってしまった時や、ストレスが溜まってしまった時は、もっと広い自然の中に行きます。

森、川、滝、海、山、高原などなど。

八甲田

夏泊

奥入瀬渓流

渓流の滝

川遊び

白神山地

白神のブナの木

気持ちの落ち着く空間には、必ず植物があります。

そして、青森県には原生林の森もあり、海もあり、山もあり、湖もあり、渓流もあります。

本当に自然豊かなところです。

コロナ疲れの時、多くの人は自然の中に出ました。

自然の中を家族連れで散歩したという人も多いのではないでしょうか。

 

植物と暮らす心地よさを、皆さんにも味わっていただきたいな~と思います。

豊かな生活を体験して欲しいな~と思います。

できることなら、子ども時代に、自然と暮らすことが当たり前の世界であったらいいな~と思います。

家に遊びに来た女の子が、

「私も大きくなったらこんな家に住みたいな~♡緑がいっぱいあって、なんか癒される。」

と話していました。

緑がいっぱいの空間は心地いい。癒される。それを肌で感じてくれたのだと思います。

それを体感していたなら、きっと大人になったときに、緑いっぱいの家に住むことを選択してくれるのではないかと思っています。

 

植物と暮らしてみませんか?

 

 

 

 

 

 

 

 

生きてるとは

生命は進化する。

言い換えれば、変化する。

生きるという事は変化していくこと。

流れるように、流動的に。

地球も、毎年春夏秋冬ひとめぐりして、何も変わっていないようでいて、

実はものすごいスピードで動いてる。

太陽の周りを約時速10万㎞で公転し、

さらに、自転速度は時速約1700㎞。

さらに、太陽系は、銀河系の中を約864000㎞で移動している。

もう、それはそれは、ものすごい速さで動いている。

ってことは、今日の私と、昨日の私がいる場所は、ものすごい移動しているわけで、

昨日の私と今日の私は全く別の場所にいるわけです。

さらに、人間の細胞は、毎日ちょっとづつ生まれ変わっています。

人間の腸の細胞は数日で入れ代わり、

肌の細胞は約一ヵ月で入れ代わります。

ってことは、今の私と、一か月後の私は、別人になってるとも言えるのではないでしょうか?

 

生きているものは、常に変化し続けています。

 

流れが止まった時、いのちは止まる

生きるという事は、流動的に変化することだと思うのです。

木だって、ただそこに何年も何十年もたっているだけに見えて、

その枝は、毎年ちょっとずつ伸びて、根を大地に張り巡らし、大きくなっていきます。

その内部では、常に水が動いています。

水は大地から吸い上げられ、大気に流れていきます。

 

その、水の流れが止まった時、いのちは終わります。

 

人もまた、人の体内では常に血液は流れ、動いています。

水を飲み、汗やおしっこで排出します。

 

そう、生命は流れています。

 

川の流れのように、流れている水は腐りません。

船の中で水が腐らないのは、波で常に動いているからだと聞いたことがあります。

流れの止まった水は腐る=死ぬということなのかな。

 

生きるという事は、変化し続けること

生きるという事は変化していくこと。

動き続けていること。

流れ続けていること。

とどまることを知らず、

流れる水のように。

海に流れた後でもなお、波として動きつづけ、

大気に蒸発し、雲となり、雨となって降り注ぎ、循環していきます。

 

動き続け、循環し、変化していくのが自然の姿であるならば、

人もまた、自然な姿と言うのは変化していくことなのかもしれないと思うのです。

 

同じところにとどまり続けず、

変化を恐れず。

 

時に、とどまり、動けなくなることもあるけれど、

とどまり続けているように見えて、

実のところ、イモムシがさなぎになって、

さなぎの中で蝶に変化するように、

じっくりと、ゆっくりと変化している、ということもあるのかもしれません。

 

それまでの自分とは違う生き方に触れたり、

自分とは違う考え方に触れたり、

違う価値観に出会った時、

それまでの自分の価値観が大きく崩れ、

新しい世界が見えてくることもあります。

 

そんなとき、人は大きく変化します。

 

変化を楽しもう!

子ども達は、じっとしていることが苦手です。

子どもたちは常に動き続けています。

細胞が盛んに分裂し、変化の最盛期にあるからです。

そんな子どもたちを、本来は一つのところにとどめておくのは難しい。

遊びの中でも、常に刺激を求め、どうやったら今よりも楽しくなるか、

どうやったらもっと面白いかを探究していきます。

 

でも、いつの頃からか、変化を恐れるようになります。

 

現状にとどまりたくなります。

 

そのほうが楽だから。

 

変化するには、それなりのエネルギーがいります。

高い所から低いところに動く運動エネルギー。

重力に逆らって水を吸い上げる力。

エネルギーが不足していては流れること(動くこと)ができませんよね。

 

変化を恐れるのは、ある意味、エネルギー不足なのかもしれません。

 

時には休養して、よく眠り、おいしいもの食べて、お日様のエネルギーを体に取り込み、植物たちからもエネルギーをもらい、自分を満たし、エネルギーを充電する必要があります。

 

子ども達がエネルギーにあふれているのは、食う、寝る、遊ぶで、充分エネルギーチャージしているから。

食う。

寝る。

遊ぶ。

さらに、お母さんからの愛情のエネルギーチャージもありますからね。

毎日エネルギー使い果たすまで遊んでは、ご飯をたっぷり食べて、お腹も満たされ、お母さんに甘えて、ぐっすり眠り、次の日にはエネルギーがフルチャージされています。

大人も、子どものように、エネルギーを満タンにできたなら、変化を楽しめるようになるのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思春期の子育て

きのう、スクールコーチングしているつむちゃんのしゃべり場に参加させていただきました。

普段は学校の子ども達の話をただただ聞いてくれているつむちゃんですが、今回は、思春期の子を持つお母さんたちのお話しを、ただただ聞いてくれました。

反抗期の男の子を持つお母さんの悩み、子どもがちょっと大きくなって、もう過ぎた反抗期の子を持つ親御さんのお話し、まだ子供が小さいけれど、いつかやってくる思春期のお話しを聞きたかった親御さんの話、高校や中学校の先生から見た子ども達の話。

そのなかで、感じた事をお話ししていきます。

「ぼくを見て!」「わたしを見て!」

いろんな視点からのお話しを聞いている中で、一つ感じたのは、子ども達の中に、小さい頃と変わらず、「ぼくを見て!」「わたしを見て!」という子供たちの見て欲しい、認めて欲しい、そんな声にならない子ども達の声を聞いたような気がしました。

小さいうちは、ストレートに、「お母さん!!見て見て!!」って話してくれますが、

思春期になると、「見て!」っていう代わりに、見てくれていない親に対して反抗してくるのかなと感じました。

 

今回は、YouTubeで思ったことを話しているので、よかったら、こちらもご覧ください。

 

つむちゃんのしゃべり場の最後に、中学校の先生が、こんなことを言っていました。

 

「みんな、子ども達を上から見てるんだよね。思春期の子供は、親より優位に立ちたいんだよね。自分の方がこのことについては詳しいんだ、って。」

「あなたはやればできるんだからって、一見あなたを信じてるというメッセージのようであるけど、ほんとは、今できなくてもいいじゃん、それでもお母さんはあなたのことが変わらず大好きだよって、いうような関わり方があってもいいんじゃないのかな~」って話していました。

もう一つ、海外で子育てしている方からは、海外では、ハグの文化があるから、結構事あるごとに大好きよってハグをするっていうお話もあって、思春期になっていきなりハグはできないだろうけど、まだ子供が小さなうちなら、いっぱいハグして、愛情は多すぎるぐらい与えていいと思うよって。

 

幼少期の愛着形成がその後の人生に影響してくる?

オンラインで、いろんな方と家族関係について話をしていた時に、結構、幼少期の親のちょっとした言動だったり、態度だったりそういうことが無意識にすりこまれてて、今の生きづらさにつながっているというお話をされる方が何人もいました。

無意識に刷り込まれてるから、自分でも気づいてなかったけど、今の問題は何で起きてるかって、深堀していくと、子どもの頃の親からの何気ない一言からだったということが浮き彫りになっていくんですよね。

多くの方が、なにかしら、やっぱり親の影響は受けている、という事を目の当たりにしました。

幼少期の愛着形成の時期に、なにかしら拒否されたとか、怒られたとか、そういうことが、なにか一歩踏み出せないでいる自分のブレーキになっていることもある。

 

また、最近、FBで、不安をいっぱい抱えている子供の話を書きました。

コロナの不安、日焼けの不安、不審者の不安、常に不安が彼の周りを取り巻いていました。

親御さんは、コロナが流行し始めたとき、いち早く子どもが遊びに出ることを禁止しました。

この子は、一人で過ごす休校期間中、YouTubeやネットで、たくさんの不安になる情報を得ていきました。

ネットの影響もあるけど、親御さんの不安が子どもに与えた影響も大きいだろうなと思いました。

委ねる、緩める

その時、コメント下さった金田隆佳さんという整体師さんから、こんなコメントをいただきました。

「不安や恐怖の根っこは『愛着関係のヌケ・遅れ』、そこにくっついてる『トラウマやフラッシュバック』だと言われています。

背骨を中心に背面を弛めることで、変化していきます。
※いろいろな方法がありますが、手っ取り早いですよ
手で直接触れるのも、ハンモックでゆらゆらゆれるのもいいです。
子守歌とか唄ってあげたら赤ちゃんまで退行して、安心・安全を思い出すかも。
『委ねる』感覚です
背面が弛むと『委ねる感覚』が戻ってきますよ
委ねるって、不安だと出来ないですから」
だから、背中をゆるめたり、おんぶするのもいいですよと教えていただきました。
そう思うと、ハグも、身をゆだねる行為ですよね。
そうやって、背中を緩めて身をゆだねられたら、安心しますよね。
思春期で、バトルを繰り返していると、常に緊張状態だろうし、そういう意味では、「委ねる感覚」を感じられたら、それがきっと安心感にもつながる。
親自身も、自分の幼少期の親との愛着形成がうまくできてなかったかも、という場合でも、もう一度「委ねる感覚」を取り戻せたら、そこで前に進めるのかもしれないな~と感じたのです。
今回、思春期の子供をテーマにブログを書きましたが、
結局は、小さな子供であれ、思春期であれ、大人になった今であっても、
「自分を認めてほしい」と思っているし、「愛して欲しい」と思っている。
それが感じられなくなった時、不安や、怒りという感情が現れてくるのかなと思いました。
だから、イライラしたり、不安になった時、
ハグしたり、背中を緩めるって、結構有効なんじゃないかと思うので、
ぜひ、試してみてくださいね。

 

自然のままに生きる

五月から、ほぼ毎朝、「世界が変わる学校」に出ています。

今日のテーマは「何をするために生まれてきたか」。

それぞれ、いろんな考え方があって、

「今、この瞬間に出会うため」とか

「幸せになるため」とか

「いろんな感情を味わうため」とか

「今、こうして雨の音を聞くために生まれた」

などなど、いろんな言葉が飛び交うのです。

正解はなくて、それぞれの中に答えはあるのだと思うのだけれど、

今の、私なりの考えは、「自然のままに生きるため」かなと。

この先、答えは変わるかもしれないけれど、今感じている私の答えです。

自然のままってどんな状態?

「自然のままに生きるため」と思ったのは、「雨の音を聞くために生まれた」という方の発言から。

ただただ雨の音に耳を傾けてると、自分が雨になったように感じる、そんな表現をして下さった方もいて、その言葉を聞いた時、季節外れであるけれど、雪の中を歩いていた自分を思い出したのです。

ふわふわと舞う雪降る夜に、天を仰ぎながら歩くと、雪が降ってきているのか、自分が天に昇っているのかわからなくなるような感覚を思い出したのです。

それは、不思議な感覚で、私が雪になったような、雪が私になったような、そんな感覚とも似ています。

その感覚を思い出したときに、私が自然の中に身を置いた時に感じる、さまざまな感覚を思い出していました。

風が頬をなでつけ、吹き抜けていく感覚。

木の葉が風に揺れて、ざわざわと枝を揺らす音。

森の中、あちこちで鳴きかわす鳥の声。

一筋のきれいな湧水が、いろんな流れと合流しながら大きな川の流れを作っていく様子。

森の中に息づく命。

川の中に息づく命。

自分も自然のいのちの一部であるという圧倒的な感覚。

 

自然は、そのまま命を育むもので、いのちそのものです。動物も植物も、子孫を残し、成長し続けます。

自然のままは、あるがまま。

余計な手をかけず、ただ生きる。そんな状態なのでしょうか。

 

囲われた子ども達

自然なままの状態では、動物も植物も人が手を加えることなく生きています。

 

一方、鉢植えの植物や、動物園の動物を考えたとき、囲った瞬間、お世話が必要になります。

エサをやり、水をやり、栄養を与えなければなりません。

でも、植物に水をあげすぎると、根腐れをおこします。動物にエサをやりすぎると、肥満になりすぎてしまいます。栄養が少ないと、うまく成長できません。

外から与えるものは、「ちょうどいい加減」が難しいのかもしれません。

 

でも、自然の状態の植物や動物たちは、自分で必要な水分をとり、必要なぶんだけの栄養をとります。それで、ちゃんと成長していくのです。

 

ここで、人間に置き換えて考えてみましょう。囲われた子供たちを想像してみてください。

 

まずは学校。

そこには、「こうあるべき」「みんな同じでなければならない」

「これをしてはいけない、あれをしてはいけない」という囲いがあります。

 

次に社会。

「人に迷惑をかけてはいけない」「迷惑をかけないように」という囲い。

 

家庭の中ですら、怪我をしないように、失敗しないように、安心安全の囲いがあります。

 

今の子ども達は、何重にもなった、たくさんの囲いの中にいます。囲いの中にいる子どもたちは、お世話されなければうまく育たなくなってきているのかもしれません。

でも、手をかけすぎたら根腐れをおこし、手をかけなさ過ぎたら愛情不足で心が枯れてしまいます。

ちょうどいい加減がわからずに、多くの親御さんは悩んでいるのかもしれません。

 

実は、大人も、囲いがないと不安になります。

プールで泳ぐのが好きでも、海で泳ぐと怖いと感じたり。

 

ただ、「思うようにやったらいいよ」「好きな事、やりたいことをやったらいいよ」と言われても、いざとなると何をしたらいいかわからなくなったり、そうするのはいいのはわかるけど、みんなと違うことをやるのは不安。人にどう思われるか不安。やったことないことやるのは怖いし、だったら、今のままがいい。みんなと同じでいいや。

 

私達も、長年、囲いの中にいたからです。

囲いの中は安心だった。安全だった。

こうすればこうなる、という事もある程度わかっている。予測がつく世界。

でも、その分冒険がない。チャレンジがない。ドキドキやワクワクがない。

海の真ん中に漕ぎ出してみたら、すばらしく新しい世界が広がってるかもしれないけど、未知の世界は怖いんですよね。

でも、囲いからでてみたら、意外と自由で心地いいかもしれません。

 

学校の中の「ねばならない」にしばられ、塾や習い事で自由な時間が無くなり、自分の好きなことが何かすら見つけられない子供たちは、死んだような眼をしています。

本来のキラキラした目の輝きが失われている子ども達にも時々出会います。

 

いのちの躍動を!

自然の中は、いのちの躍動にあふれています。

子ども達も、本来は、いのちの躍動感にあふれています。

いのちの躍動が何かと言えば、生きているということそのもの。

 

今朝、アゲハの幼虫が羽化しました。

それはそれは美しい蝶の姿になって、外の世界へ羽ばたいていきました。

自然の織り成す姿は美しい。

 

それこそ、いのちの躍動がそこにありました。

生まれてきたいのちそのものが躍動。

 

誰が教えたわけでもなく、誰が手を貸したわけでもなく、もくもくとエサを食べ、自分でさなぎになる瞬間を決めて、さなぎを作り、いのちが熟成したその瞬間、蝶になって生まれてくる。

いのちって、神秘的です。

桑の木だって、毎年ちゃんと実をならせ、子ども達を楽しませてくれる。

私は、この、いのちの躍動を感じたい。

だから、池の中の一滴の水の中の微生物にすら感動します。

顕微鏡の中の世界には、たくさんのいのちにあふれています。

私の願いは、

いのちあるものが、

いのちの躍動をもって生きて欲しい。

ただそれだけなのかもしれません。

 

自然なままに。

自然のままに。

 

 

 

自然に触れて育ってほしい


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コロナも県内は落ち着いてきて、子ども達の日常が戻ってきました。

毎日放課後にやってくる子ども達。

週末もお昼をのぞいて9時から17時まで遊びつくす子供たち。

室内で過ごすこともあるけど、外で走り回ることも多い子供たち。

子ども達の遊ぶ様子を見ていて、イキイキと、一番いい表情をするのは、自然の中にいるときのように思います。

草滑りするとき。生き物探ししている時。食べられる木の実を見つけて食べている時。穴を掘ってるとき。木に登ってるとき。

そんな子供たちの表情を見ていると、子ども達には自然に触れて育ってほしいと、心から願います。

自然の中の子ども達

子ども達のイキイキした表情を見て欲しいので、過去の写真から見ていただきたいと思います。

ドドメ(桑の実)を食べて、手や口がドドメ色になってます。

夢中になって桑の実をとって。

段ボールで草滑りは、何度も何度も滑りたい。

バケツをひっくり返したような雨の日には飛び出していって、雨に打たれたい。

ホオノキの葉っぱを風車にして走る!

風で遊ぶのも好き!

泥んこになるのもめちゃくちゃ楽しい!

秘密基地作るのも大好き!

川でびしょびしょになるのも好き!

オオバコの草相撲も本気!

あっちにどじょうがいる!!どこどこ?!

蔓にぶら下がるだけでも楽しい。

自分で作った弓矢飛ばしてみたり。

木に登れた時は、みてみて~!!って見てほしくなる。

カエルの卵をみつけてうわ~!!ってなったり。

泥んこになりながら、崖を登ってみたり。

穴掘って、水流して、裸足でドロドロになって、めっちゃ気持ちいい!!ってなったり。

魚見つけて興奮したり。

寒くなってブルブルしてても、まだ水の中で遊びたい!

ダム作るから、ここに石置いて。

とにかく広い野っぱらを駆け回り、水辺が好きな子供たち。

触れられない自然って・・・

こうやって振り返ってみると、ほんとうに、自然の中にいるときの子ども達はイキイキしています。

そして、見守るほうも、寛大な気持ちでいられます。

住宅街の小さな庭では、

大きな声でご近所に迷惑になるんじゃないか。

道路に飛び出さないように、など、

自由に遊ばせたいと願いながらも、どうしても周囲に気をつかい、ひやひやしてしまいます。

でも、広い自然の中だと、断然気が楽なのです。

誰かの迷惑になるかもしれないと気をもまなくていい。

森や、川、海だと、毒草や毒蛇、毒虫など、違う危険はあるから、リスクマネージメントは必要になりますが、自然の許容量の大きさと言うか、包容力と言うか、寛大さに、ほっとするのです。

 

ただ、最近気になるのは、身近に触れることができるはずの自然が、触れられなくなってしまっている、楽しめなくなっている、というところがあることです。

田んぼは、オタマジャクシやカエル、コオイムシとか、いろんな生き物がいて、見ていて飽きないのだけれど、田んぼにいたずらするから近づいちゃいけません。

川や用水路は危ないから遊んではいけませんと指導されます。

確かに、水の事故が子どもたちにとって一番多いから、と言うのもわかりますが、大人がついていても怒られることがある。

学校の帰り道、確かに寄り道しながら田んぼにいたずらしながら帰る子たちもいるので、指導されるのも、わからなくはない。

鑑賞するためにきれいに整備したところだから、ここの生き物をとってはいけません。入ってはいけません。という場所もある。

危険なので木登りしてはいけませんと、公園の看板に書いてあったりする場所もある。

山野草のように、山の貴重な自然を保護するために、とるのは写真だけにしましょうというのもわかります。

貴重だから、危険だから、自然を壊してはいけません、生き物を大切にしましょう。どれも、理由としてはわかります。わかるのですが、何でもかんでも、身近な自然まで触れられなくなってしまうのは、ちょっとな~と感じます。

子ども達は、見て、触れて、においをかいで、時には食べて、音を聞いて、五感全てを使って自然を認知していきます。

それは、子ども時代にとっても大事なことです。

五感を通して感じた自然は、一生その子の中に残り続けます。

私も、子どもの頃の記憶といえば、川で水切りして遊んだ記憶。クローバーの花冠を作ってかいだ花の匂い。木登りが大好きで、高い所から下を見下ろし、風を感じた記憶。

ツツジの花を次々とっては吸った花の蜜の甘さ。

学校帰りに用水路に花や笹船を流しながら、誰のが一番早いか競争した記憶。

今でも、花の匂いや甘さ、木々をゆらす風の音、鮮やかに記憶の中に残っています。

それは、やさしく、あたたかく、ほっこりする、素敵な記憶。

優しいふるさとの記憶。

その記憶があるから、ふるさとに戻りたくなる。なつかしく、温かい気持ちになる。

だから、ふるさとが大好きになる。

ふるさとの原風景が心に刻まれる。

どうか、子ども達が自然に触れることを許して欲しい

これは、切なる願いです。

危険だからダメ。

汚れるからダメ。

みんなのものだからダメ。

かわいそうだからダメ。

いろんなダメによって、子ども達が自然に触れられる機会がどんどん減っています。

それに加えて、子どもたちが自由に遊べる時間も無くなってきているので、なおさらです。

親世代も自然に触れずに育ってきた人が増えています。

 

クローバーの花冠を作ったことのない子供がたくさんいます。

草笛を吹いたことのない子もたくさんいます。

川に笹船作って流したことのない子がほとんどかもしれません。

木登りできる子は、それでもまだ少しいるように思います。

食べられる実のある場所を知らない子もたくさんいます。

あそこには、ドジョウがいる。こっちにはエビがいる。カエルはここにたくさんいる。クワガタはこの木によくいる。ザリガニだったらあそこの池。そういう体験からくるものがあるでしょうか。

どうか、これ以上子ども達から自然を遠ざけないで欲しい。

もっと身近に、触れられる自然があるといいな。

子ども時代の原風景の記憶を、子ども達に残してあげたい。

切に、切に願います。

【お礼と寄付のお願い】

はぴちるは、皆様からの寄付により子ども達の居場所にかかるおやつ代や、プレーパークの材料費や交通費をあて、活動しております。今はまだプレーパークはお休みしておりますが、ハンモックの寄付や、子ども達に食べさせてくださいと、おやつの寄付もいただいております。どうもありがとうございました!

放課後、子どもたちは毎日やってきます。週末もたくさん集まったら、ちょっと離れた公園に連れ出すこともあり、そのためのおやつ代や交通費は、自費で賄っております。

活動に賛同いただけましたら、活動費のお振込みも随時受け付けております。

今後もこのような活動を続けていくために、どうぞご協力をお願いいたします。

 

【ゆうちょ銀行】

記号18420 番号7138981

シンドウサチコ

【他行より】

店番848  番号07138981

 

Amazon欲しい物リストから購入して下さり、配送先をHappy Childrenに変更して応援いただく方法もあります。

 

【書籍】

昨年11月に出版した私たちの本もよろしくお願いいたします。Amazonでもまだ多少購入でるようです。どうぞ、手に取ってごらんください。

『悪ガキたちの秘密基地』

ある日突然やってきた、悪ガキたちとのやり取りを綴った『悪ガキたちの秘密基地』。後半は、子どもたちに伝えていきたいこと、私たち夫婦の子育て、大事にしてきたこと、これからの時代を生きる子どもたちへ。そんなことが書いてあります。

アマゾンで購入された方、よろしければ、読んだらレビューを書いていただけるとうれしいです。

皆様のお声が、励みになります(*^-^*)。よろしくお願いいたします。

 

 

 

幸せな世界に生きると決める


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ほとんどの地域で緊急事態宣言が解除され、日常が戻りつつあります。

十和田も普通に学校が始まって、ようやく我が家にも子ども達の声が戻ってきました。

ああ、こうやって、何気ないことで大笑いできる相手がいるって幸せなことだな~と、しみじみ感じます。

人は、人と関わって生きていきたい生き物なんだな~と、つくづく思います。

この自粛中、強制的に人と関われなくなり、それがいかに必要なことだったか、気づかされた気がします。

そして、もう一つ。

この自粛中、不安や恐怖の中で過ごしてきた人と、こんな状況だけど、楽しんでいこうという人、二極化していたようにも思います。

その違いは、今、満たされないのは、自分の外に原因があるという人と、自分の内側で、幸せな世界に生きると決めた人の違いであるともいえるかもしれません。

不安や恐怖を抱え続けるとどうなる?

不安や恐怖、怖れって、いつから感じ始めるようになったでしょうか?

生まれたばかりの赤ちゃんには、不安や恐れありません。

赤ちゃんは、脳が成長していく過程で、親や、周囲の反応を見ながら、これは危ないこと。これは怒られること。これは喜ぶこと。ということで、自分が外の世界に働きかけたときの周囲の反応で、だんだんと自分の周りの世界を確立していきます。

おそらく、その過程の中で、不安や恐れという感情も獲得していきます。

でも、不安や恐れって、種が生き延びていくための本能みたいなものです。

ミトコンドリアに興味を持って、ミトコンドリアについて調べていた時に、人の体の細胞にも、そのような働きがあるというのを知って驚きました。

細胞とか、ミトコンドリアって、高校の生物とかに出てきたけど、覚えてますか?

人間の体には60兆個の細胞があります。神経細胞、肝細胞、脳細胞、筋細胞、生殖細胞とか、とにかく、細胞だらけなわけです。

その60兆個の細胞一つ一つの中に、ミトコンドリアが平均数百個存在していると言われています。ミトコンドリアは、エネルギーを作る工場です。

ミトコンドリアの話をすると長くなりそうなので、今回は細胞のお話しで。

実は、人の細胞は、そばに有毒物質があると、毒から逃れようとする性質があるようです。

逆に、栄養分には引き寄せられていく性質があります。

栄養分など、生命を維持するものに向かっていくのは、「成長・増殖」のため。

有毒物質などの脅威から離れるという行為は、「防衛反応」です。

もちろん、それ以外の中立なときもあります。

ただ、この、「成長・増殖」のメカニズムと、「防御」反応は、同時に発動することができません。

もし、ライオンに追いかけられた時には、真っ先に逃げなければならないので、防衛反応が優位になります。その時、血液は、今すぐ逃げられるように、もしもの時に戦えるように、手足など末端の方により多く集められます。

そして、その状態は、「闘争・防衛」状態になります。

ミトコンドリアで作られたエネルギーは、防衛反応に振り分けられるため、必然的に、「成長・増殖」に使われるエネルギーはなくなります。だから、この、「防衛反応」が長引くと、結果として「生命維持に必要なエネルギーが阻害される」ということになり、生命力が著しく低下する、という事が起こります。

人は、ストレスを抱えることで「防御状態」に入ります。

怒り、不安、怖れ・・・それらはすべて、からだの防衛反応から来ています。自分を守るためです。

幸い、60兆個もある細胞全てがそういう状態になるわけではないので、ストレスがあっても、ある程度の生命維持は可能ですが、やはり、ストレスフルな生活が続くと、生命力は低下します。やる気が出ないというのは、生命力の低下そのものです。

ストレスがない状態で、笑いや喜びにあふれた生活ができると、「成長・増殖」の反応が促進されます。逃げたり、戦う必要がないので、血液は体の中心に集まり、「成長・増殖」が盛んにおこなわれるようになります。

不安や恐れの裏に隠されたもの

不安や恐れを抱く状況とは、どんな状況でしょう?

失敗したらどうしよう。

こんなこと言ったら、人はどう思うだろう?

笑われるんじゃないかな?

変わった人って思われそう。

そんなことも知らないの?って言われそう。

失う事への怖れ。

欠乏感。

疎外感。

不信感。

そういった恐れは、根付いてしまっていることが多く、手放すのは難しいですよね。

幸せな人増殖実験!

恐れや不安の中にいては成長・増殖できないという細胞の姿を知った時、やはり、それでは、生きていくためには困ると思いました。

成長・増殖しないなんて、人類終わってしまうじゃないかと。

私は、子ども達がいきいきと生きていける未来を作りたい。誰もが愛や幸せを感じられる世界を作りたい。

それには、怖れや不安を手放して、喜びに生きる必要がある。

だから、幸せに生きると決めました。

世の中がどんなに不安や恐れでいっぱいであろうとも、私は幸せに生きようと決めました。

そして、そうやって過ごす姿をあえて発信してきました。

庭に秘密基地作る子ども達。

サクランボとるのに木登りしたり、小屋の屋根に上る子ども達。

たんぼで生き物探ししてみたり

水かけ戦争してみたり

植物育てたり、畑仕事したり。

生き物育ててみたり(写真はカイコちゃん)。そして、欲しい方に譲ったり。

増えすぎたハーブをお友達におすそ分けしたり、時にはおすそ分けしていただいたり。

日々を楽しむこと。

そして、givenessしたりされたり。

私たちの住む世界は優しいという発信もしてきました。

そうすることで、

「なんかいつも楽しそうだよね。そうだよね。私も、今できることを楽しんで、笑って過ごそうと思う」と、何人もの方に言っていただきました。

自分がそう生きると決めること。

そして、それを体現していくことで、ちょっとづつだけど、世界は変わると信じています。

私の周りの小さな世界でだけれど、私はそれを体験してきました。

コロナが、ある時から、指数関数的に爆発的に増えたように、幸せだって同じように指数関数的に増えるはず。

自分の周りのハッピーな人を増やす実験。

皆さんも協力してくれませんか?

まずは、自分が幸せに生きると決めて、日々を楽しむこと。そして、発信すること。

そうすることで、周りにそんな人が増えていったら、すごく幸せな世界が訪れるんじゃないかという、壮大な実験です(≧▽≦)。

2019年の日本の幸福度は、前年度からさらにランクダウンして58位だそうです。

幸福度が、どれだけ上がるか、試してみたい!

世界が変わる学校

実は、4月の半ばぐらいから、毎朝「世界が変わる学校」に登校しています。

朝ご飯を作る、忙しい時間ではあるのですが、それでも出たいと思えるのは、その中で、いろんな方の話を聞き、自分の考えを話し、自分の思考が変わっていくのを感じているからです。

ここは、言葉にならないつたない思いを出しても大丈夫だし、自分なりの考えを話してもいい。どんなことを話しても、ちゃんと受け止めてもらえる。男の人も、女の人も、いろんな職業の人がいて、いろんな立場の人がいて。

6月から、登校時間が5:30~と、ちょっと早まったのですが、5:30~7:00まで「まなぶ」時間。7:00~7:30までは「つながる」時間。

自分の中がUPデートされていく感覚。

知らなかった世界を知る。知らなかった世界観を知る。

「現実は過去の記憶により出来上がっている、は、本当か?」
「自由と平和を得るためには何が必要か?」
「私が世界に望むのは○○な世界です」
そんなことを、毎日話し続けています。
朝、頭がまだボーっとしている時間帯。
朝から脳がフル回転です。
でも、その感覚がだんだん心地よくなってきています。
所長の吉田傑さんは、すべてのプログラムを、無償で提供されています。
これは、世界を、人を、本気で信じて変える強い意思が無ければ、出来ないことです。
人間世界はいま急速に変化することを求められています。
そのために必要なことは、意識を変えること。
いまとこれからに必要なことだと感じます。
興味のある方は早起きして、参加してみませんか?