子どもは全て持っている

プレーパークで子どもたちが自由に遊んでいるときは、これ以上ないぐらい大笑いし、駆け回り、時には喧嘩して怒り、いつの間にか仲直りしてまた遊び始め、ほんとに楽しそうで、びっくりするぐらいの創造性を発揮しています。

一方で、プレーパークで楽しそうに遊ぶ友達を横目に、塾や習い事に向かう、なんだか窮屈そうな子どもたちもいて、ああ、あの子達に遊ぶ自由な時間があったらいいのにな〜と思うのです。

子どもに期待しすぎていませんか?

私達は、子どもに期待しすぎていないだろうか。

子どもがこんな風に育ってくれたらいいな。

これを今身に着けておけば、将来役に立つに違いない。

今これを頑張れば、将来すごい人材になるだろう。

未来の輝かしい子どもの姿を想像し、期待し、そのためには、今のうちからこれをやっておかなければと、気持ちは焦り、なかなか思い通りにならない子どもにイライラしたり、怒ってみたり。

このままじゃだめな人間になりはしないかと不安になり、そんな不安から、さらにあれもやっておこう。これもやっておいた方がいい。こんな経験も必要だと、どんどん習い事が増えていく。

そんな状況に置かれた子どもたちも、少なくない気がしています。

一方で、経済的余裕の無さからや、親の忙しさや心の余裕のなさから、早くあれしなさい、これしなさいと言われ続けていたり、ご飯が十分与えられていなかったり、子どもに関心が向いていないのかなと思えるようなご家庭もなくはない状況で、心がギュッと苦しくなるときもあります。

いろんなご家庭があり、それぞれのご家庭の、どうにもならない事情があったり、それぞれに価値観がある中で、子どもたちは、大人たちにコントロールされて、友だちと遊ぶ放課後の時間がない。

ほんとはお腹が空いてるけど、お母さん頑張ってるし、食べなくても平気という子。

ほんとは、話をいっぱい聞いてもらいたいんだけど、忙しそうだからと、話せないでいる子。

子どもに期待するのは、親として、大人として当たり前の感情なのかもしれません。でも、それを押し付けてしまうのは、かわいそうな気もします。

だって、常に、今のあなたじゃだめなのよ。あれも足りない、これも足りない。

もっと、これもできて、あれもできなきゃいけないのよ。もっと頑張らないとと、言葉にしないまでも、言われているに等しいから。

逆に、子どもに無関心な場合は、あなたのせいで、こんなに大変。あなたにご飯を作ることすら面倒。

それって、自分のことなんてどうでもいいんだという、無言のメッセージ。

どちらも、今の自分を否定されてるに等しいのではないかと思うのです。

子どもは全て持っている

我家の庭に、大きなどんぐりの木があります。t

長男が2、3歳の頃に、公園で拾ってきたどんぐりを、庭に埋めたら、、今ではもう屋根より高くなる勢いです。

子どもたちが木登りしてもびくともしない、立派な木に育ちました。

この木を見上げるたびに思うのです。

たった一つのどんぐりの中には、こんなに大きく立派に育つ遺伝情報やプログラムが、全て詰まっていたのだと。

足りないものなど一つもなく、時期が来れば、花を咲かせ、身をつけます。

たくさん実をつける年もあれば、全然実がならない年もあります。

去年は家のどんぐりも大豊作でしたが、今年は一個も実を落としていません。

山のどんぐりも、今年は大不作のようで、熊が里に降りてきて、あちこちニュースになっていますよね。

あ、話が横道にそれました。

そうやって、実をたくさんつける年、実をつけないでエネルギーを蓄える年。そんなことも、きっと、このちいさなどんぐりは、はじめから決めて実になっているわけです。

どんなふうに枝を伸ばすか、日当たりが悪ければ、おひさまを求めて曲がることもあるでしょう。

枝を伸ばした先に障害物があれば、障害物を避けて枝を曲げていくでしょう。

他の木があれば、お互いおひさまがちょうどよく当たるように、譲り合いながら、お互いちょうどいいように伸びていくのです。

そんなどんぐりの木を見ていると、子どもも同じように思えるのです。

子どもたちは、はじめから、いつ花を咲かせるか、どんな花を咲かせるか、どんな実をつけるか、全てはプログラムされて生まれてきていて、ただ、どんな枝ぶりになるか、太く丈夫に育つか、ひょろひょろで今にも折れそうになるかは、環境によるのだと。

いい土と、太陽と、水と栄養。

それさえあれば、本来持ってるものを最大限に発揮して、より良い形になっていく。

場合によっては、最初こそ添え木が必要になることもあるでしょう。でも、しっかり根を張り、ある程度育てば、もう、自然の太陽と雨と、自らの落ち葉だけで、どんどん育って伸びてゆくのです。

そういうものなのではないかと思うのです。

あなたはどんぐりのままでいいはずがない。あなたは栗の木のように人の役に立ち、頑張って実をつけなさいと言われたって、どんぐりはどんぐりでしかないのです。

ほら、隣の桜を見てご覧なさい。あんなに美しい花を咲かせて、みんなを楽しませている。あなたもあんなふうに美しい花を咲かせなさい。と言われても、どんぐりはどんぐりの花しか咲かせられないのです。

時には接ぎ木で、違う特徴の木にさせられてしまうこともあるでしょう。うまく行けば、美しい木になるかもしれません。でも、本来の姿ではないものになってしまいますよね。

私達は、どんぐりに(子どもに)、何を求めているのでしょう。

毎年たくさん実を成らせるように、遺伝子組み換えしたり、栄養や水を管理し、たくさん実を成らせることは可能かもしれないけれど、無理をさせすぎて、寿命より早く枯れたり、エネルギー切れになってしまわないか心配です。枯れて死ぬまで、管理し続けるのでしょうか。

添え木をいつまでも外さず、伸びたいのに、育ちたいのに、窮屈でぎちぎちになり、十分伸びられないでいられないということはないでしょうか。

水や栄養のやり過ぎで、根腐れ起こしていないでしょうか。

伸びた枝をどんどん切って、盆栽のように、美しいけど、小さくまとまっていないでしょうか。

大事にしすぎるあまり、屋根をかけ、ヒョロヒョロになって、台風でポッキリ折れてしまわないでしょうか。

管理された姿も十分美しいけれど、自然な姿、自然な枝ぶり、そのエネルギーに溢れた姿は、野山のそれとは、比べ物になりません。

大人は、子どもに、求めすぎてはいないでしょうか。

子ども時代に挑戦してますか?

このブログでは、とにかく、子どもたちにリアルな体験を!

自由な時間が必要。遊びが大事!

そういうことを伝え続けてきました。

遊びの本質は、これやったらどうなるんだろう?

これをやったら面白いかな?

そういうドキドキとワクワクであると思っています。

知らない世界は「怖い」

子どもたちは、地域の自然の中で遊んでいますか?

そして、どのぐらい地域のことを知っているでしょうか?

 

どんな生き物がいる?

どんな花が咲いてる?

空気のにおいは分かる?

鳥は鳴いてる?

虫の声が聞こえる?

季節の巡りを感じられる?

田んぼの水はあったかい?冷たい?

川の水は、田んぼの水とどう違う?

庭や近所の草むらと、野山では見つけられる生き物に違いがある?

生き物がたくさんいるところはどんな場所?

食べられる植物、木の実を知ってる?

子どもたちは、そういうことが体験的にわかってくるぐらい、外で遊んでいるでしょうか?

身近な自然に触れ、自分の住んでいる地域が、どんな環境なのか。

心地いいのか。

危険なのか。

そういうことを、体で感じていくことが、生物として必要な感覚なのではないかと思っています。

子どもが発達する段階として、まず初めに五感で感じます。

見る

触る

なめる

匂いをかぐ

音を聞く

五感の中で使える感覚全てを動員して、自分が生きる世界は、心地いいのか、身の危険があるところなのかを感じ取っていきます。

さわったり、なめたりしながら、快か不快かを感じていきます。

最初は、ただただ五感で感じる時期です。

かたい、柔らかい、チクチク、ザラザラ、軽い、重い、冷たい、熱い、甘、辛い・・・など。

熱いものを触った時、お母さんが、「あ、あっちっちだね~。」という言葉がけをすると、感覚と言葉が結びついていくわけです。

そして、握る、振る、落とす、たたく、かじるなど、動作を表す言葉も同時に、お母さんの声掛けから覚えていきます。

体を使った感覚が、すべての根底にあります。

そして、人は、経験していないことを「怖い」と感じます。

それは、未知の世界にどんな危険があるかもしれない、危険から身を守るための本能です。

小さなころから草原で遊び、虫や生き物たちと触れ合ってきた子は、虫が出てきてもあまり「怖い」とは思いません。むしろ、コンクリートや、塀で囲まれた清潔な空間の中しか知らない子は、予測不能な動きをする虫が「怖い」と感じる傾向があると思います。

知らないものは怖いのです。

でも、それがどんな動きをするのか、刺すのか、刺さないのか、危険はないのかがわかっていれば、怖くないんです。

未知のことへの挑戦

昨年の秋、子どもたちがカナヘビを捕まえてきました。

実際捕まえてみて、カナヘビは噛まない。比較的おとなしい。

そして、案外かわいい。

私も、カナヘビを飼うのは初めてだったので、まずは、何を食べるのか、図鑑を見ました。

クモ、ミミズ、バッタ、コオロギなんかを食べるようだと分かりました。

子どもたちも、寒くなる前は、毎日草原で餌取りし、あげる日々。

クモは嫌いだという子もいるけれど、カナヘビのご飯だと思うと、嫌な顔一つしないでせっせとクモをとってきてくれていました。

でも、あげてすぐ食いつくエサと、中に入れててもちっとも食べないエサがあるんですね。

どうも好みがあるらしい。

そして、三匹いるけど、それぞれ、よく食べる奴と、あんまり食べない奴がいる。

個体差があるんですね。

そういうことは、飼ってみて初めて分かることです。

ところが、困ったのは冬場です。

さて、どうしたものか。

ヒーターやライトを入れて、冬場もエサやりし続けて飼うか、冬になる前に逃がしてあげるか。冬場も飼い続けるにはコストと手間がかかる。逃がしてあげるか。

そう思ったとき、ふと思ったんですよね。

野生のカナヘビは冬眠すると。冬眠中は雪の下の土の中で、できるだけ代謝を落として食べなくてもいいように眠って春を待つのだと。

ネットをいくら検索しても、冬眠させてる人の情報は出てこなかった。

でも、雪の中は、意外と暖かくて、0度以下にはならない。雪国では、雪室というものがあって、外気が氷点下であっても、雪室の中は0度前後をキープできるんですよね。

ということで、虫かごのまま外に出したら、氷点下で死んでしまうだろうし、冬でも0度以下にならない場所は・・・ってことで、冷蔵庫に虫かごを入れて冬眠させることにしました。

変わりがあるかどうかわからないけど、雪の中にいる感覚に近いように、プチプチで包んで、中にもプチプチ入れてみました。

ただ、調べてみると、冬眠中も、時々水分をとっているらしいということで、乾かないように時々お水をかけてあげながら、一冬・・・・。

お水をあげるときに、生存確認。丸まって、ちゃんと生きてるみたいです。

先日、雪も解けて温かくなった日に、冷蔵庫からだして、日光浴!

生きてました!

なんだか感動です!

これも、

①土の中で冬眠しているカエルを掘り起こしたことがある。(寒いところなら冬眠させられるかも?)

②雪で作ったカマクラの中は温かい(雪の中は0度以下にならない)。

③物置に置いておいたリンゴは凍ってる(氷点下に放置するのは危険)。

という経験があったから、外に置いといたら凍って死んでしまうかもしれないけど、冷蔵庫の中に入れてみたら冬眠できるんじゃないか?という発想に行きついたわけです。

さて、無事、冬眠から目覚めたカナヘビたちにはエサが必要です。

さあ、これからまた、エサ探しが始まります。

知らない世界は怖い、でも、ワクワクする!

たった、カナヘビの冬眠させる、という未知のことに挑戦するのも、実はちょっと怖いのです。もしかしたらこのまま死んでしまうかもしれない。

そしたら、冬の前に逃がしてあげた方がよかった。自分がこの小さな命を殺してしまうかもしれない。

でも、それ以上に、うまく冬眠させられるかもしれない。

そしたら実験大成功じゃないか。

冬眠中の様子も観察できるし、何より、春、冬眠から覚めた時のことを考えると、何とも言えずワクワクするのです。

やったことないことは怖い。

失敗を恐れるなら、やらないほうがいい。リスクもある。

でも、それより、挑戦したときのドキドキとワクワクを味わいたい、という気持ちが勝つから、挑戦しようと思える。

挑戦しようと思えるのは、この、

未知の領域に足を踏み入れるドキドキ(怖いもの見たさに近い)と、

挑戦したことによって得られるであろう達成感に対する期待のワクワク

を知っているからなんだと思います。

それには、小さなころから、小さくても、たくさんたくさん、未知のものへの挑戦と失敗と成功を繰り返している必要があります。

ハイハイしていた子どもが、つかまり立ちし、手を放して一歩踏み出すような、そういう瞬間をです。

一歩踏み出したときに、周りの大人が、手をたたいて、満面の笑みでその挑戦と成功を喜んでくれる。それは、小さな子どもにとって、この上なくうれしく、誇らしい瞬間なのだと思います。

またその瞬間を味わいたいんだけど、一度できてしまったことは当たり前になってしまい、喜びや感動がなくなってしまう。その後も、あの感覚を味わいたくて、たくさんたくさんいたずらという名の挑戦をするんだけど、あるとき、「あれ?これは喜んでくれないぞ」と気づく。

いろんなことに挑戦しようとするんだけど、「これはばっちいからダメ」「だめだめ、それは触らないで」「これはあぶないからダメよ」と、周りの大人から危険や、やってはいけないことを学習をしつつ、挑戦するものがどんどん目の前からなくなっていき、かわりに、安全で安心なものばかりで周りを埋め尽くされ、どっぷり安心安全な柵の中の心地よさに慣れていってしまうのです。案外、これも悪くないなと。

もちろん、命の危険に関わるものは、絶対だめよと守ってあげる必要はあります。

でも、その守りの柵が、あまりにも守られすぎてて、ちょっと自分の能力以上のことへ挑戦する機会すら奪われてしまってはないだろうかと思うのです。

プールで泳ぐのは好きだけど、海で泳ぐのは怖い。

予測できる範囲の中では安心だけど、予測不能な大海原の真ん中で海に飛びこむのは怖い。

そういう気持ちは分かります。本能ですから。

だけど、広い海に出て初めて見える世界があるのも確かです。

広い海だからこそ出会えるものがある。

プールの中で満足して終わるか、広い海に飛び出してみるか。

ただ、どちらがいいも悪いもありません。安心なプールで好きな時に泳ぎ、好きな時にドキドキを味わうために飛び込むことだってできるのですから。そのプールを、誰かを喜ばせるために美しいプールに仕立て上げ、誰かを喜ばせるドキドキとワクワクを味わうこともできるのです。

皆さんは、何にドキドキ、ワクワクしていますか?

皆さんのお子さんはどうですか?

未知のものに対する挑戦、できていますか?

 

 

「感じることが先にある」というはなし

小学校の理科の実験でのこと。

最近、6年生が『水溶液の性質』という単元に入りました。

最初に、A:食塩水、B:炭酸水、C:うすいアンモニア水、D:うすい塩酸の四つの無色透明な液体を、においや見た目で判別する。というのが、最初にあります。(今は、ABCDはランダムに書いています)

今までは、割と、見た目でBが炭酸水だとすぐに確定し、次に、臭いをかいで、アンモニアのきつい臭さに、おえ~!ってなりながらも、すぐに、くさいトイレの臭いみたいだから、Cはアンモニア!ってわかって、塩酸は、薄めてあるから、臭いが分かりづらいんだけど、なんとなく消毒液みたいな、病院みたいな臭いがするっていうところで、ちょっと臭いがあるから、きっとDが塩酸で、最後に残ったやつは臭いもないし、食塩じゃないか?ってことで、割と判別できたんですよね。

で、じゃあ食塩だったら蒸発すると出ることが五年生の学習で分かっているから、蒸発させてみよう!

Aだけが白い粉が出てきたから、はい!Aが食塩決定!

みたいな感じだったんですよね。

ところが、ここ数年、ちょっと様子が変わってきて、食塩水と炭酸水は、見た目と臭いと、蒸発させるという工程で判別がついてわかるんだけど、Cの臭いを嗅いだらうっ!!ってなるんだけど、「強烈な臭いがするから、これは塩酸だ!」っていう子がちらほら出てきてて、今年なんかは、クラスの半分がCは塩酸で、Dがアンモニアだって答えて、意見が割れたんですよね。

「じゃあ、答え合わせしましょうか!」

と、「食塩水と炭酸水は正解です!」ってなったんだけど、困ったのは、塩酸とアンモニアの判別。

なんでアンモニア水って、わからないのかな?と思ったときに、一人の子が、塩酸のにおいをかいで、「トイレのにおいがしたから」と言ったんですね。

最近の子達は、きれいに消毒されたトイレしか使っていないから、アンモニアのにおいが分からない子が増えてるんじゃないか?って思えたんです。

ぼっとんトイレとか、くさい公衆トイレとか、あの匂いを知っていたら、即座に、あの鼻を突くようなにおいはアンモニア水だ!となるはずが、アンモニア臭が分からないし、塩酸のにおいだって嗅いだことないから、どっちがどっちだかわからない。っていうことになっているんだな~と。

五感で感じた経験があるから、知識と結びつく、ということを実感しました。

とはいえ、あのくさいトイレのアンモニア臭を、経験させなきゃいけない、なんてことはないんですけどね(笑)。
そういう時代になって来たんだな~と思ったわけです。

今の教科書だと、もう、最初っから、食塩水、炭酸水、うすい塩酸、うすいアンモニア水って、ラベリングしてあるものを蒸発、石灰水、リトマス紙、金属を溶かす、っていう実験で進めていくんだけど、正解を言っちゃってからだとつまらなくないかな?

それとも、教科書の順番をすっ飛ばして、いきなり金属溶かしてみるか?

って思ったわけです。でも待てよ。一学期、塩酸使った実験があったぞ。

と、いうことで、答え合わせする前に、一つ、教科書にはない実験を追加することにしました。

実は、6年生の一学期に、『気体の性質』という単元の中で、演じ実験ではありましたが、「二酸化炭素と、酸素を発生させる」実験を見ていた子供たち。

「一学期、気体を発生させる実験で、塩酸と何かを混ぜたら二酸化炭素が出たんだけど、何を混ぜたか覚えてる?」

って子どもたちに聞いてみたら、覚えていた子がいました。

そう。大理石に塩酸を滴下したら、ぶくぶく泡が立って、大理石が溶けて、二酸化炭素が発生したのでした。

「そしたら、CとDに大理石を入れて、泡が出て溶けた方が塩酸ってことなんじゃない?」

っていうことで、次の実験の時に、大理石を入れてみることにしました。

次の実験が楽しみです。

 

たくさん感じ、体験したことが多ければ多いほどいい

何が言いたかったかというと、知識を詰め込むより先に、臭いをかいだり、見たり、聞いたり、(実験では味わうという子とはしないけれど)、自分の体で体験することがあって、初めて未知のものと出会ったときに、自分の体験と照らし合わせて予測することができる、ということなんですよね。

ちなみに、5年生の息子に、「アンモニアのにおいって言われて分かる?」って聞いたら、「アンモニアって、おしっこの臭い?トイレの臭いとか?」と、即答でした。八甲田に登ったとき、山小屋のトイレも、アンモニア臭がただよっていたのを思い出したようです。
息子には、臭いトイレの経験がありました。おそらく、6年になって、この実験をしたとき、「これ絶対アンモニア!」ってわかると思います(笑)

子供時代に、多種多様な経験をし、たくさんたくさん感じ、体験したことが多ければ多いほど、未知のものに出会ったときに柔軟に対処できるということでもあるのです。(繰り返しますが、臭いトイレの臭いを経験させなさいってことではないですよ(笑))

感じて、体験したことが知識と結びついた時、その知識は、自分の経験として、しっかり根付いていきます。
でも、一方で、頭で教科書を覚えただけ、いかに正解を書くか、だけの知識は、その習慣を過ぎれば、あっという間に記憶のかなたに飛んで行ってしまいます。

私がそうでしたから。昔、あれほど勉強した(暗記した)様々なこと、あれもこれも、全然おぼえていない。

いろんな経験と結びついて、「あ~!あれってそういうことだったのか!」って腑に落ちたとき、はじめて学ぶことが楽しくなってきます。記憶に残ります。

ってことは、あれを溶かしたら溶けるんじゃないのかな?とか、どんどん違う興味がわいてくるようになる。で、試したくなるんですよね。

で、思った通りの結果だったら、やっぱりそうか!ってなるし、思ってたのと違う結果だったら、なんでだろう?じゃ、こっちだったらどうなるのかな?って、違うやり方を考えたりする。

そういうトライ&エラーを繰り返し試せると、学ぶ意欲に火がついていくんです。

子どもたちの、そういうトライ&エラーは、普段は、遊びの中で発揮されます。

庭に子どもたちが掘った穴も、気がつけば、水路ができ、植物を周りに植えて・・・

最後は火山を作ったようですが、こんな状態(笑)

何をしようとしたのかはわかりませんが、何かきっと、面白いことひらめいて、やってみた結果、最後、こうなったんだと思うと、おかしくてしかたありません。

こうするともっと面白くなるかもしれないと、チャレンジして、失敗して、違う方法でまたチャレンジして成功して、筋トレのように、チャレンジと失敗と小さな成功体験をどれだけ繰り返してきたかが、大人になってからの人生の選択に柔軟性が出てくるんだと思っています。

今の子供たちは、わりとすぐに正解を求めたがります。

失敗しないやり方を、ユーチューブで先にみてからやってみるから、失敗もしない。

正解を先にみて、失敗しないように失敗しないように育っています。

なんなら、親も、つい、子どもに失敗してほしくないから、
「あ、ほら、そんなやり方じゃだめよ。こうした方がうまくいくよ」って、手出し口出ししがちです。

私だって、つい、口出ししちゃうこともやっぱりあります。

でもね、子どものうちは、正解を先に教えて成功させるよりも、失敗して見て学ばせることの方が100倍も大事なんだと思います。

口を出したい気持ちを、ぐっとこらえる大人の忍耐が試されますが。

 

人生は、これが正解の人生だ!なんてことはないんです。

やってみてダメだったら、違うことをすればいい。違うやり方を試してみたらいい。

正解かどうかなんて、もどうでもいいんです。

その、「こうやったらどうなるんだろう?」っていうワクワクが、人生を作っていくんだと思っています。その積み重ねが、結果として、面白い人生になっていく。ただそれだけなんだと思います。
すごいことを成し遂げる人もいれば、はたから見たら、何も成し遂げていないような人生だったとしても、毎日を幸せに暮らしている人もいるわけです。

人生楽しもうよ

理科の実験から思った、「感じることが先だよ」というお話から、人生の話に展開しちゃいましたが、

こうして書いてる文章も、最初は、「感じることが先だよ」って言いたかったから書き始めたのですが、書いているうちに、私の感情が、「人生楽しもうよ」という話を書けと言っているから、こういう流れになってしまいました。

達成感、幸福感、喜び、悲しみ、怒り、いろんな感情を味わい尽くし、この地球に生まれたことを楽しもうよと、私は言いたい。

正解なんてどうでもいい。正解にたどり着くまでのその過程を楽しみたい。

子供時代、私は算数が好きでした。

問題を解く、その過程が楽しくて仕方なかった。算数は正解があるから、それはそれで、正解にたどり着くまでの「こうすれば解けるんじゃないか?」というひらめきと、解いていったその先の達成感が好きだった。

でも、今は、正解かどうかよりも、答えのない問いに、どうアプローチしたらいいんだろうか?っていうことを試行錯誤して、これのやり方がいいんじゃないか?と、手探りながらやってきた、その過程を楽しんでいます。そして、やってみて、どうやらこのやり方は間違ってなさそうだぞ、思う時もあったりしています。

でも、いや、もっと違うやり方だったら、もっともっと、いろんな子供たちを幸せにできるんじゃないか?と考えたりもします。

結局のところ、いつまでたっても正解にはたどり着けそうにありません。

だけど、子どもたちの未来に、美しい地球が残っていて、やさしい世界が広がっていることを願っているので、ただただ、愚直に、目の前の私にできる精一杯のことをやるのみの毎日です。

理科の実験の話から、まさかの人生の話への展開。

思ってもない方向に転がるのも、また、楽しいものです。

 

理科の実験の話で始まったので、最後に再び実験室のお話。

最近の中休みの理科室には、3年生の子達がよく遊びに来ます。そう、ただ、遊びに来るんです。

人気なのは段ボールの空気砲。ひたすら紙コップ飛ばしています。

こちら、砂鉄をとるのに夢中の子ども達。

磁石をビニール袋に入れて、砂に近づけて、砂鉄とっています。(もちろん砂だらけになるので、チャイムなる前に砂をきれいに片付けてもらいます)

砂は、5年生の川の流れの実験用に実験室にあるやつです。

砂鉄、ちょうだいちょうだい言うので、「こうやって、集められるから、うちに磁石があったら、公園でも校庭でも、どこでも砂鉄、集められるよ~」と言っています。

3年生はまだ、実験が本格的に始まっていないので、実験って、なんか楽しい!理科って面白そう!実験するの楽しみ!!そう思ってもらえたらいいな、と思っています。

まずは、感じてもらいたい。

 

 

 

今を後悔なく生きる

今日は3月11日。

東日本大震災から10年目。

あの日を振り返ると、今、私たちに与えられたいのちを、今ある時間を、今目の前にいる大切な人と過ごす時間を、大切に生きたいと思えます。

一日一日を懸命に生きたいと思うのです。

あの日

あのとき、幸い私たちは、大きな被害にはあいませんでした。停電が2日ほど続いただけでした。

末っ子はまだ6ヵ月。

地震があったあの時、私は赤ん坊だった息子を抱き、おばあちゃんの手を握り、寄り添いながら、いつもより強い揺れに不安に思いながらも、地震がおさまるのを待ちました。ドジョウの水槽が大きく揺れて水があふれそうな勢いでした。幸い、物が倒れたり落ちたりすることはなく、地震はすぐにおさまりました。

小学生だった娘と次男は、学校から帰る途中で大きな揺れにあいました。

近くで工事していたおじさんが、大丈夫か?と、声をかけてくれたと言います。

そのあと停電したこともあり、ラジオから流れるニュースで、東北地方が大きな被害にあったこと、津波が来ていたことを知ったけれど、のちに電気が復旧して、その映像を目にするまでは、それほど大変なことが起きていたとは想像もできませんでした。

停電中は、キャンプ用のバーナーで煮炊きできたし、食料も、乾物もあったし、そこそこ買い置きがあったので、それほど困ることもありませんでした。むしろ、ちょっぴり非日常を楽しむぐらいの気持ちでいたように思います。幸い、水は出ていたので、それほど困ることはありませんでした。

あの日、たまたま青森入りしていたアフタフバーバンの北島さんが、ホテルが停電になって体育館に避難するように言われたらしいんだけど、新藤さんちに泊めてもらうことはできないかと、ハピたのの中沢さんから電話をもらいました。もちろん、いいですよと即答して、その夜は北さんが我が家に泊まっていくことになりました。

停電した夜は、仲間を心配して、落ち着かないでいる北さんと、あったかいご飯を食べ、話をしながら過ごし、それぞれの部屋で寝るのも不安だったので、みんなで居間にごろ寝して、電気のない静かな静かな夜を過ごしました。

そして、皆がいるから、一人じゃないから不安が和らぐんだと感じました。

その後、被害の大きさに驚き、原発事故があったことで、今度は見えない放射能に怯え、不安を感じる日々が続きました。

地震、津波、原発事故。

被災地に対する支援をしたいという想いと、まだ赤ん坊を抱えているし、介護の必要なおばあちゃんがいることから、簡単に支援に向かえないもどかしさを感じながら、自分にできることはないかと模索し始めました。

ロケットストーブを作ってみたりもしました。

放射能に対する怖さを、もっとみんなに知らせなきゃとか、こんな危険な原発なんて、子どもたちに残したくないと、反原発運動に参加したり、あの日を境に、子どもたちの未来について深く深く考えるようになりました。

あなたがこの世で見たいと願う変化に、あなた自身がなりなさい

これから書くお話は、今までも何度か書いていますが、これは、私の原点なのです。

反原発運動も1~2年も続けたでしょうか。子育て中のママたちや、もともと原発に関する上映会をやっていたメンバーたちとグループを立ち上げ、情報誌を作って印刷し、配って歩くことをしました。原発の情報。放射能の勉強会。放射能に負けない体づくりとか、発酵食など、放射能を排泄すると言われている食べ物の情報とか、自然な食べ物とか、魚の選び方とか、情報発信するようになりました。子どもたちを守りたい。ただその一心でした。

ただ、それでも原発に対する不安はいつまでたっても消えず、この食べ物が、本当に大丈夫なのか?私たち大人はいいけど、子どもたちはさかんに細胞分裂している時期だから、DNAに傷がついたら、そのまま傷ついた遺伝子が増幅してしまうリスクがある。魚は好きだけど、わからないなら、食べさせない方がいい。野菜の産地も、とりあえず、県内産は大丈夫そうだ。不確かだけれど、リスクが高くなさそうな産地のものを選ぶ、そんな日々。

金曜行動と言って、金曜の夕方に原発反対と言いながら、街を練り歩くことも続けていました。口に出さないことは、賛成してると同じことだと思っていました。原発事故があってもなお、原発を再稼働させようとする人たちに、怒りを覚えていました。みんな、子どもたちの未来のためだと、その時は本気で考え、本気で行動していました。

でも、息子を連れて金曜行動から帰ってきたある日、晩ご飯支度を始めたそのそばで、ソファーの上でピョンピョン跳ねながら、無邪気に「げんぱちゅはんたい♪」と言っている息子を見たとき、私の中でぱちんと何かがはじけました。

ちがう。

私がこの子に見せたいのは、何かに反対したり、いがみ合ったり、憎しみあったり、戦ったりする世界じゃない。

私は、ただただ、この子に幸せな世界を見せたかっただけなんだ。

あなたの住む、この世界は優しいよ。

こんなにも美しいよ。

この世界は本当にステキな世界なんだよ。

ただそれだけだったんだと。

それから、金曜行動に出ることをやめ、発信することも、みんなが見てうれしくなることだけにしよう。優しい気持ちになることだけ発信しよう。優しい世界を子どもたちに見せたいなら、私が優しい世界を作っていかなきゃならない。

そう決意しました。

それから、いつしか、私の周りには、ステキな人たちが表れ始めました。

つながる人は、世界を良くしたいと思っている人たち。子どもたちを幸せにしたいと思っている人たち。地域を良くしたいと思っている人たち。

 

世界を良くしようと思っている人たちは、こんなにいたんだ!

いつのまにか、私の周りは、優しさであふれていきました。

優しい世界を作りたかったら、私が優しい世界を作る人になるんです。

 

ガンジーの言葉にもありますよね。

「あなたがこの世で見たいと願う変化に、あなた自身がなりなさい。」

「You must be the change you want to see in the world.」

すべては私から始まります。

今を生きる

震災から10年。

今日生きてる人が明日も生きていられるかはわかりません。

その時に、私たちは後悔しないだろうかと考えます。

自分が、やりたいことを後回しにしてこなかったか?

やらなければならないことで時間を使い果たし、私が本当にやりたかったことはできているのか?

 

そして、子ども達に対しても。

この美しい地球に生まれてきて、この地球の美しさを、私たちは子供たちに見せただろうか?

素晴らしい自然を、手で触れ、においをかぎ、転げまわり、全身で感じただろうか?

土のにおい

花の香、

鳥の声、

頬をなでてゆく風を全身で感じただろうか?

小さな虫や生き物に歓喜し、バケツをひっくり返したような雨の中、飛び出したことは?

この世界の喜びをどれだけ感じただろうか?

子どもに、やらなければならないことなんて、本当はないはず。

あるのはただ、この世界を感じる時間。

たっぷりの愛情を受け、信じられて、この世界を安心の中で探求する時間。

はたして、どれだけ感じることができているだろうか?

それらを感じることがないまま、この世界を旅立たなければならなかったとしたら、

私たちは後悔しないだろうか?

 

だから、私は、子どもたちが、やりたいと思っていることを叶えてあげたい。

応援してあげたい。

できないと言わずに、できる方法を考えてあげたい。

この世界を、たくさん感じ、たくさん味わってほしい。

この世界の喜びを、体いっぱいに感じてほしい。

 

 

子どもは自然のままに遊んで育つ

年末に、桜ケ丘中学の元校長先生だった西郷さんのお話を聞きました。

その時、学校の先生もたくさん参加されていて、

西郷さんは先生方の質問に対して、とても辛口にコメントされていました。

例えば、「子どもたちを自由にさせていたら、声の大きい子が幅を利かせ、気の弱い子がいづらくなるといったようなことはないんでしょうか?」

というような質問に対して、

「そんなことはまったくありません」

「最初こそ、揺り戻しといわれる、一見荒れたような状態がみられますが、それも一時的なものです。」

「枠が取り払われて自由になり、自分をちゃんと扱ってもらえるようになると、反発する生徒もだんだん少なくなっていくんです」

というようなことをおっしゃっていて、

しきりに、「教育課程を学んでるときに、皆さんルソーを読んだでしょ?私はルソーの言うとおりにやっただけです!みなさん、読んでないんですか?!」とおっしゃっていたのが印象的でした。

ルソーの教育論。私は教育課程を学ばなかったので、聞いたことはあったけど、読んだことはなかありませんでした。そこで、改めて読んでみることにしました。

まとめてあるものをざっくりと読んだだけですが、

すごくいいことが書いてありました。

「子供を愛せよ、子どもの遊びを大切にせよ」と。

「不確実な未来のために現在を犠牲にする残酷な教育をどう考えたらいいか・・・

耐えがたい束縛を受け、徒刑囚のように、絶えず苦しい勉強をさせられ、しかも、そうした苦労がいつか有益になるという保証もない、かわいそうな子どもを見て、どうして憤慨せずにいられよう。」と。

ルソーの教育論について「エミール」から引用しつつ、今回は、子どもの遊びについて考えてみたいと思います。

自然のままに

ルソーの「エミール」の中から、気になるところを抜き書きしていきます。

生まれたときから十二歳ごろまで、書物などを読ませるべきではなく、もっぱら「肉体を、器官を、感官を、そして、力を訓練させるべきである」(エミール上133ページ)

「子どもの感覚は、すべて感情的なものだから、それが快い感覚であるなら、黙ってそれを楽しんでいる。苦しいときは、子どもはその言語でそれを告げ、助けを求める。ところで、目を覚ましている間、子どもは無関心な状態でいることはほとんどない。子どもは眠っているか、それとも何かに刺激されている」(上76ページ)

「部屋の汚れた空気のなかにじっと座らせておくことはしないで、毎日野原の真ん中に連れて行ってやることにしよう。そこで走り回って遊ばせることにしよう。一日百回転んでもいい。それは結構なことだ。それだけはやく起き上がることを学ぶことになる。」

「私の生徒はしょっちゅうけがをするだろう。それでもいつも快活でいるだろう。あなた方の生徒は、それほどけがをしないかもしれないが、いつも意思を妨げられ、いつも束縛され、いつも悲しげな顔をしている」

ルソーは、常に子供を自由にしてやることを要求している。その自由は、放任や甘やかし、過保護とは違い、厳しさを持っている。

「腕白小僧たちが雪の上で遊ぶとき、こごえて、ほとんど指を動かすことができない。火に温まりに行こうと思えばすぐにでも行けるのに、子どもはそうしようとはしない。それを強制すれば、子どもは寒さの厳しさを感じるより、百倍もひどい束縛のきびしさを感じることになる。子どもを自由にさせておくことによって、現在私は、子どもを幸福にしているのだ。子どもが耐え忍ばなければならない苦しみに対して彼を強くすることによって、私は、将来の幸福を準備しているのだ」(上118ページ)

「苦しみを味わうことのない人間は、人間愛から生まれる感動も、快い同情の喜びも知ることはあるまい。そういう人間の心は、何物にも動かされず、彼は人づきあいのいい人間にはなれず、仲間に対して偽物のようになるだろう」

「実のところ、たえずさしずをして、たえず、行きなさい、来なさい、じっとしていなさい、これをしなさい、あれをしてはいけません、などと言っていたのでは、子どもを愚図にすることになる。いつもあなたの頭が彼を動かしていたのでは、彼の頭は必要でなくなる」(上187ページ)

 

これらのことは、私が子供たちを観察していて、常々感じていることと一致します。

子どもはいつもどん欲に、何か面白いことはないかと、興味をそそられるものへと手を伸ばし、常にそれらから刺激を受けています。

そして、そのように刺激を与えるものは、室内よりも、戸外の方が比べ物にならないほど多様に存在します。

地を這う虫たち。

ピョンピョン跳ねるバッタやカエル。

ひらひら舞うちょう。

水の中に見えるオタマジャクシや様々な小さな生き物。

頬をなでる風。

流れゆく雲。

草原に揺れる野の花。

ズボンにくっつくひっつきむし。

水たまりはたまらなく楽しいし、

雨に濡れることすら楽しくて、外に飛び出してしまう。

流れる水は不思議で楽しくてたまらない。

泥んこに手を入れるのはぬるぬる楽しくおもしろい。

時においしそうな木の実があったり、

くさ~いカメムシがいたり。

子どもたちが外が大好きなのには訳があります。

そこは楽しく、不思議で、手を伸ばしたくなるものにあふれているからです。

その探求のためには、凍えるように寒かろうが、汚れようが、転んで多少けがをしようが、時にたんこぶつくろうが、構わないのです。そこに命の危険さえない限り。

それが生きるということに他ならないからです。

それが自然な姿であるからだと思うのです。

ルソーの言う「味わうべき苦しみ」とは、自分がやりたいことを遂げようとするときに伴う、自然の厳しさに対する苦しみであり、大人によって束縛される奴隷のような苦しみではないのです。そういった、奴隷のような苦しみは、いかなる苦しみも与えるべきではないと主張しています。

 

生きるということ

「人々は、子どもの身を守ることばかり考えているがそれでは十分ではないのだ。大人になったとき、自分の身を守るということは、運命の打撃に耐え、富も貧困も意に介さず、必要とあれば、アイスランドの氷の中でもマルタ島の焼け付くような岩の上でも生活していけることを学ばせなければならない。」

「死を防ぐことよりも、生きさせることがまずもって何よりも必要なことであり、大事なことなのである。生きるということは、それは呼吸をするということではない。まさに活動することなのだ。私たちの器官、感覚、能力を、私たちを存在せしめている体のあらゆる部分を用いて生かすことだ。もっとも長生きした人とは、最も多くの歳月を生きた人ではなく、最も良く人生を体験した人たちである。」(上33ページ)

ルソーは12歳までは本を読ませるなと主張する。その代わりに「実物」による教育の重要性を強調する。実物に対応する正確な「観念」を持っていないのに空疎な「ことば」だけ覚えても、何の意味もないどころか有害である。

自分の五感で自然を感じたことがない人々に「自然」ということばをぶつけても、なにも響かない。子どもは大量の空疎なことばを記憶するよりも、まず初めに少量でいいから正確な観念を持つべきだ(体感するべき)、というのがルソーの言う「自然による教育」の主張であると思うのです。

今日も氷点下で、暴風雪注意報が出るぐらいの風の中、「サスケ」で遊んでいる子ども達です。

一人は、手袋もしていません。最終的に、手が冷たすぎてロープがつかめないと気が付いて、手袋をとりに来ました。

体験するから学びます。

雪の中にジャンプしたり

スリルを求めて、雪の中、歩くことは苦にならない。

上った結果、こんなにスリル満点なジャンプコースがあるのだから。

田んぼの中をのぞけば、

そこはミジンコの世界。こんな顕微鏡で見なければわからないような小ささなのに、ちゃんと生きてる、その不思議さ。

川原でみつけた石の中に、水晶を見つけた喜び。

てこの原理を使って、大きな石を動かしてみる!

泥にまみれ

雪にまみれ

木に登り

命をいただく

時に力を合わせて大きなことを成し遂げる。

遊び疲れて眠りに落ち

大人にばからしいからやめなさいと言われるようなことも

危ないと言われそうなことも

でも、楽しくて

楽しくて

楽しくて

楽しくて

楽しくて

楽しくて

楽しくて

楽しくて

そんな、楽しくて楽しくて仕方のない子供時代を、どうか過ごさせてあげてほしい。

子どもたちの、この楽しくて楽しくて仕方のない瞬間を、たくさん共にしてきたからこそ、このことが、子どもたちにとっての本能であり、自然なことであると思うのです。

これこそが、子どもたちが、まさに「生きている」瞬間です。

 

 

 

 

子どもをコントロールしすぎていませんか?

子どもを産んだ瞬間、私たちは、子どもをコントロールできないという事を思い知らされます。

なかなか寝てくれない赤ちゃん。

下におろすとぐずる赤ちゃん。

ゆっくりトイレに入りたいのに後追いしてトイレの外で泣く赤ちゃん。

気が付くと、触ってほしくないものを触り、隙あらば口に入れようとする赤ちゃん。

早く保育園に連れて行きたいのに、着替えたくないと駄々をこねる子ども。

部屋をきれいにしたいのに、常に散らかし続ける子ども。

好き嫌いなく食べてほしいのに、食わず嫌いで新しいものは頑として食べようとしない子供。

もう、子育てしていると、親のコントロールなんて到底無理だと思うような出来事ばかり。

でも、家族として一緒に生活していくうえで、これはやってほしい、これはしてほしくない、ということは必ずあります。

だから、しつけとして、根気よく子どもと向き合わなければなりません。

そういう意味で、小さい頃は、どうしてもコントロールが必要になってきます。

でも、コントロールという名のしつけ糸は、いつか外さなくてはなりません。

ところが、大きくなってまで、しつけ糸を外そうとせず、さらに強い糸でコントロールし続けてしまうと、子どもはのびのび腕を伸ばすことができません。

体が大きくなったのに、いつまでもしつけ糸のついたきつい服を身に着けて、窮屈そうにしている子が時々います。

窮屈そうな子供たち

小学生の子ども達と会話していると、日々がとても窮屈そうだな~と、感じる子が時々います。

テレビ見ちゃいけない。

ゲームも禁止された。

遊びに行っていい範囲が、親によってきめられている(学校のルールよりさらに狭い)。

遊んじゃダメな友達がいる。

親に決められている帰らなければならない時間がみんなよりだいぶ早い。

塾や習い事で一週間のスケジュールがびっちり。

一日の中でも、そろばんのあとはスイミング、帰りに塾に行って、帰ってきたらぐったり。

宿題終わってからじゃないと遊んじゃダメ。

汚すと怒られる。

などなど。

 

家に帰っても、宿題しなさいとか、ごろごろしてないでとか、あれこれ言われるので、家でくつろげないという子も。

塾や習い事で一週間びっちりな子は、たまの休みも、「休みだから遊べる~!」じゃなくて、友達と遊ぶよりも、家でのんびり休みたいという子も。

ただ、ごろごろ、だらだらする時間が欲しいと。

それができない日常っていうのは、毎日休みなしで残業しているサラリーマンのようだなと。

小学生なのに、生気がない。

いつも疲れた顔をしている。

う~ん・・・窮屈そうだな~・・・。

 

自由にしてあげたら、子ども達、本当に生き生きしています。

あんなことやりたい、こんなことやりたいと、目を輝かせて話してくれます。

 

子どもを守りたい気持ちはわかります。

苦労してほしくない気持ちもわかります。

でも、行き過ぎると、こどもの生き生きした目の輝きを奪ってしまいます。

信じて任せてもらえない。

それは、親の言うとおりにしなければ認めてもらえないという事でもあるからです。

そう、窮屈そうな子供たちには、強い承認欲求があります。

コントロールは必要か?

子どもには、大人になってから苦労させたくない。

お金の心配のない仕事についてほしい。

そのためには、今頑張って塾に行って、いい学校に入って、いい就職先に就職してもらいたい。

だから、今遊んでごろごろしてる時間がもったいない。

こうやってごろごろしている間に、一生懸命頑張ってる子たちはどんどん差をつけていく。

 

親の中にも焦りがあります。

 

私も、中学校時代、次男のゲームを取り上げ、隠したことがありました。けれど、それは無駄で、親がいないすきに家探しして、なんとしてもゲームを見つけてゲームをやるのです。

ゲームしてる時間がもったいない!時間を無駄にしてるだけだと、どうしても認められませんでした。

私の場合は、その時間を勉強に充ててほしいというよりは、もっといろんな面白い世界を見つけてほしいと思っていました。

本当にやりたいことを見つけてほしいと思っていました。

だけど、ゲーム三昧で日々はただ過ぎていきました。

 

でも、やりたいことをみつけるにはタイミングがありました。

 

こんなのもあるよ、あんなのもあるよと、いろいろ見せてきたけど、どれもいまいちヒットせず、なんとな~く高校は建築科に行っていましたが、本当にそれが自分のやりたい事かどうかわからないままで、やりたいことが見つからないまま、とうとう高校三年。

最後、進路を決めるときになって、初めて次男が自分で決めた進路は「デザイン」でした。

親としては、思いがけない選択でした。

なぜ「デザインなのか?」と聞いた時、

高校の先生が、「自分の一番好きなことで進路を決めてみたらどうか?」と言ってくれたからでした。

もちろん、親も今までそういうことは言ってきたつもりでした。

でも、一番次男の心を動かしたのは、先生の一言でした。

 

今までの経験上、そういう好きなものに気づくタイミングを作るのは、親じゃないことの方が多いと感じています。

長男は、最初から好きなこと、没頭できることがあって、自分から好きなことを見つけていくタイプでした。

長女は、親に反抗しつつ、親の助言はほとんど耳に入れず、教育講演で学校に来た人の話を聞いて、医療の道を目指すことを決めました。

 

はたして、子どもにコントロールは必要なのでしょうか?

 

全然必要ないな~。というのが、今の私の正直な気持ちです。

押さえつけてコントロールすればするほど、はねのけてくる。

 

もう、これは、信じて見守るしかないです。

あなたならできる。

できることはできる限り応援する。

親にできることは、それしかないと感じています。

 

そうはいっても・・・コントロールしたくなるんですよね!

いかにそれをぐっとこらえるか。

信じられるかが親力です。

信じる力

連休初日。

子どもたちがハンバーグ作りたいと言い出しました。

そこで、お金だけ渡して、自分たちで必要な材料を調べて、お店で買ってくるところからスタート。

買うはずだったデミグラスソースがなかったから、煮込みハンバーグのソースを、合いびき肉がなかったから豚肉を買い、若干材料の変更はあったけど、それでも大丈夫、きっとおいしいよと、ハンバーグを作り始めた子供たち。

それぞれ、話し合いながら、玉ねぎ切るのも変わりばんこ。

卵割る人、混ぜる人、材料を入れる人、それぞれけんかすることなく分担していきます。

その間大人は見守るだけ。

唯一の6年の子は、調理実習の経験もあるから、「みんな初めに手洗えよ」とか、「卵割った手、べたべただから、一回洗って来いよ」とか、細かいところを指図しています。

そして、最後、手でこねるところは、それぞれ、自分の分は自分でこねるということになりました。

「うへ~!」とか言いながら、こねこねしています。

焼き色ついてひっくり返すのも、「おれ、ひっくり返すの怖いから、お前やって」とか、できないことは人にお任せしたり。

焼いてる間、遊びに行ってしまう子がいる中で、一人、焦げないかちゃんと見守っている子。

上手に焼き上がり、ソースでちょっぴり煮込んだらできあがり!

みんな、うまいうまいとペロリです。

4年生から6年生の男子たち。

大満足だったようです。

それぞれ、料理の経験のある子から、あんまりやったことない子まで、手分けして、ほんとうに楽しそうにやっていました。

料理の良くできる子が中心でやりながらも、ちゃんとみんながそれぞれの工程をやれるように考えて、これはあいつにやってもらおうとか、まだあいつやってないから、あいつにやらせてあげようとか、そういう話し合いの場面も興味深く見守らせてもらいました。

大人が口出ししなくても、ちゃんとできるんですよね。

協力してちゃんとできる力を持ってるんですよね。

 

大人が信じて任せたら、意外とちゃんとできるのが子供たち。

 

ちょっとづつ、コントロールを手放して、信じて任せることを増やしていってほしいなと思います。

 

Happy Childrenの活動を支援する

Happy Childreの活動に共感いただけましたら、いくらかでも支援していただけませんか?
居場所としてのおうちプレーパークでのおやつ代、様々な子供たちの創作活動での材料費など、
皆様のご寄付によって支えられております。基本的に、居場所にかかる資金は、全て自腹で賄っております。
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助けて、助けられる世界を子どもたちに見せていきたいと思っています。
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今年度は、平出桃子さん、北野まなみさん、さとうちぐささん
よりご支援いただきました!ありがとうございます!
また、直接食材の提供もいただいております!いつも支えていただきありがとうございます!
子供たちへのおやつ代、時には昼食代、今回のハンバーグの材料費、剣を作るためのひもやガムテープなど、子ども達のために使わせていただいております。

 

 

 

種は、全ての情報を持っている

庭には、長男が3歳ぐらいに拾ってきたドングリの木があります。

たった一粒のどんぐりが、今では屋根ほどにも大きく育ち、毎年、次なるいのちの源である実をたくさんつけます。

たった一粒のどんぐりが、20年かけて、これほどまでに見事に大きくなる様子を眺めてきて、感動を覚えています。

あの小さなどんぐりの中には、こんな大きな木になるための情報が全て詰まっているのだと。

完璧にプログラミングされている実。

それが、どんぐりであり、種であり、人で言うなら受精卵です。

あんな小さな種が、全ての情報を持っていると思うと、生命の不思議を感じます。

自然な姿、宇宙の理

種には、すべての情報がプログラミングされています。

どんぐりは、コロコロコトンと落ちたその場所で芽を出します。

地中深くに根を伸ばし、お日様を求め、まっすぐ空に向かって伸びていきます。

でも、たまたま種が落ちた場所に障害物があったり、日当たりが悪かったりして、曲がってしまうことはあります。

でも、木は、お日様に向かって伸びようとします。

障害物を避けながら曲がって伸びたり、日当たりが悪くて、他の木に比べて小さくてひょろひょろだったとしても、なんとか上に伸びよう伸びようとします。

それが自然の姿です。

 

種を、私達自身におきかえ、種が落ちた場所を、生まれた環境と考えてみてください。

お日様は愛、宇宙の真理と考えてみてください。

どんな環境に生まれたとしても、人は、まっすぐ愛を求めて伸びていきます。宇宙の真理に向かって、伸びていこうとします。

それが自然な姿です。

でも、その自然な姿になろうとするのを、生育が悪いからと栄養剤をたっぷりいれたり、曲がった木をなんとか、まっすぐにしようと押さえ込んで縛り付けてみたり、時に、曲がったものはダメだと切り落としてしまったりします。

一番大事なのは、日当たりを良くしてあげることなのに、形ばかりまっすぐにしようと頑張っってしまったりします。

曲がりながらも、たくましく伸びて行く姿は、自然界の中では、美しくさえもあるのに。

そして、森の中で、植物同士の関係を見るとき、そんなたった一粒の小さな小さな実から、大きく育った木々が、お互い枝が重なり合わないように枝を伸ばし、調和し、共存している様子を見ることが出来ます。これをクラウン・シャイネスというようです。

自然界の中では、一本の木だけ、お日様を独り占めしようなんてしない。

みんながそれぞれお日様を受けられるように、ちょうどいいように枝を伸ばしていくのです。

そして、そんな森の中では、様々な生き物たちが、やはり共存しながら生きています。

そしてその根元には、冬が来て、落ちた葉っぱでふかふかの土ができる。

土の中にも無数の微生物がいる。

地中には木々が蓄えた豊かな水がある。

それもまた、完璧なまでの自然のシステム。

 

では、人はどうでしょう?

 

自分ばかりおひさまを独り占めしようとしていないだろうか?

自分ばかりおひさまを独り占めしようとするあまり、山を丸裸にし、水が蓄えられないやせた大地は、ひとたび大雨が降れば、土砂崩れしてしまう。

自分ばかり勝とうとするあまり、その陰で、弱い国を貧困に追いやってはいないだろうか?

自分ばかり独り占めしようとするあまり、地球を傷つけてはいないだろうか?

 

それは、自然のシステムに逆らっていないだろうか?

 

そして、まっすぐ伸びようとしている枝を、無理やり望む形に押し込めようとしてはいないだろうか?

 

自然なままに、まっすぐ伸びられるように、お日様(愛)をたっぷりそそぐこと。

共存共栄していくこと。

それが自然の姿。宇宙の理なのではないでしょうか?

ことばから考えてみる

先ほど、お日様を、愛や宇宙の真理に置き換えてみましょう、と書きました。

日本語で「ひ」という時、

日、陽、火とあらわしますが、もう一つ、「ひ(霊)」という意味もあります。

「ひ(霊)」は、いのちの根源的な力であるといわれます。

「ひ(霊)」は、エネルギーの源です。

 

いのちの根源的力とは何だろうかと考えるとき、それはやはり「愛」であると思うのです。

 

「ヒ」とは霊(ひ)のことであり、「ト」は停めることや止めることを意味します。
つまり「ヒト」とは、身(体)に霊(ひ)を留めた存在だから、「ヒト」という日本語ができています。

料理に火を通すことを、「火を入れる」と表現します。

「火を入れる」とは「ひ(霊)を入れる」ことです。

おむすびは、もともと神道の概念で「結び」「産霊(むすひ)」からきているとも言います。

古事記の「たかみむすび」、「かみむすび」、「あめのみなかぬしのかみ」の三神を結ぶと。

霊(ひ)を結ぶから「おむすび」。

 

「ひ(霊、愛)」を宿した体が人であること。

 

アインシュタインが言っていました。

「愛は光である」

「愛は力だ」

「神は愛で、愛は神だ」

「愛こそが生命の神髄だ」

と。

 

自分の中心に、根源的な「ひ(霊、愛)」をちゃんと持てているでしょうか?

 

昔は、「ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、とお」と数えました。

「ひ」からはじまり「と」で終わる。

一から始まり十で結ぶ。結んだら新たな一が産まれるわけです。

はじまりは「ひ(霊、愛)」なんだと、昔の人は知っていたのではないでしょうか。

 

日本語ってすごいなと思います。

本質をことばの中にちゃんと表しているんです。

 

たった一つのどんぐりから、こんなことを考えていた数日でした。

 

 

思春期の子育て

きのう、スクールコーチングしているつむちゃんのしゃべり場に参加させていただきました。

普段は学校の子ども達の話をただただ聞いてくれているつむちゃんですが、今回は、思春期の子を持つお母さんたちのお話しを、ただただ聞いてくれました。

反抗期の男の子を持つお母さんの悩み、子どもがちょっと大きくなって、もう過ぎた反抗期の子を持つ親御さんのお話し、まだ子供が小さいけれど、いつかやってくる思春期のお話しを聞きたかった親御さんの話、高校や中学校の先生から見た子ども達の話。

そのなかで、感じた事をお話ししていきます。

「ぼくを見て!」「わたしを見て!」

いろんな視点からのお話しを聞いている中で、一つ感じたのは、子ども達の中に、小さい頃と変わらず、「ぼくを見て!」「わたしを見て!」という子供たちの見て欲しい、認めて欲しい、そんな声にならない子ども達の声を聞いたような気がしました。

小さいうちは、ストレートに、「お母さん!!見て見て!!」って話してくれますが、

思春期になると、「見て!」っていう代わりに、見てくれていない親に対して反抗してくるのかなと感じました。

 

今回は、YouTubeで思ったことを話しているので、よかったら、こちらもご覧ください。

 

つむちゃんのしゃべり場の最後に、中学校の先生が、こんなことを言っていました。

 

「みんな、子ども達を上から見てるんだよね。思春期の子供は、親より優位に立ちたいんだよね。自分の方がこのことについては詳しいんだ、って。」

「あなたはやればできるんだからって、一見あなたを信じてるというメッセージのようであるけど、ほんとは、今できなくてもいいじゃん、それでもお母さんはあなたのことが変わらず大好きだよって、いうような関わり方があってもいいんじゃないのかな~」って話していました。

もう一つ、海外で子育てしている方からは、海外では、ハグの文化があるから、結構事あるごとに大好きよってハグをするっていうお話もあって、思春期になっていきなりハグはできないだろうけど、まだ子供が小さなうちなら、いっぱいハグして、愛情は多すぎるぐらい与えていいと思うよって。

 

幼少期の愛着形成がその後の人生に影響してくる?

オンラインで、いろんな方と家族関係について話をしていた時に、結構、幼少期の親のちょっとした言動だったり、態度だったりそういうことが無意識にすりこまれてて、今の生きづらさにつながっているというお話をされる方が何人もいました。

無意識に刷り込まれてるから、自分でも気づいてなかったけど、今の問題は何で起きてるかって、深堀していくと、子どもの頃の親からの何気ない一言からだったということが浮き彫りになっていくんですよね。

多くの方が、なにかしら、やっぱり親の影響は受けている、という事を目の当たりにしました。

幼少期の愛着形成の時期に、なにかしら拒否されたとか、怒られたとか、そういうことが、なにか一歩踏み出せないでいる自分のブレーキになっていることもある。

 

また、最近、FBで、不安をいっぱい抱えている子供の話を書きました。

コロナの不安、日焼けの不安、不審者の不安、常に不安が彼の周りを取り巻いていました。

親御さんは、コロナが流行し始めたとき、いち早く子どもが遊びに出ることを禁止しました。

この子は、一人で過ごす休校期間中、YouTubeやネットで、たくさんの不安になる情報を得ていきました。

ネットの影響もあるけど、親御さんの不安が子どもに与えた影響も大きいだろうなと思いました。

委ねる、緩める

その時、コメント下さった金田隆佳さんという整体師さんから、こんなコメントをいただきました。

「不安や恐怖の根っこは『愛着関係のヌケ・遅れ』、そこにくっついてる『トラウマやフラッシュバック』だと言われています。

背骨を中心に背面を弛めることで、変化していきます。
※いろいろな方法がありますが、手っ取り早いですよ
手で直接触れるのも、ハンモックでゆらゆらゆれるのもいいです。
子守歌とか唄ってあげたら赤ちゃんまで退行して、安心・安全を思い出すかも。
『委ねる』感覚です
背面が弛むと『委ねる感覚』が戻ってきますよ
委ねるって、不安だと出来ないですから」
だから、背中をゆるめたり、おんぶするのもいいですよと教えていただきました。
そう思うと、ハグも、身をゆだねる行為ですよね。
そうやって、背中を緩めて身をゆだねられたら、安心しますよね。
思春期で、バトルを繰り返していると、常に緊張状態だろうし、そういう意味では、「委ねる感覚」を感じられたら、それがきっと安心感にもつながる。
親自身も、自分の幼少期の親との愛着形成がうまくできてなかったかも、という場合でも、もう一度「委ねる感覚」を取り戻せたら、そこで前に進めるのかもしれないな~と感じたのです。
今回、思春期の子供をテーマにブログを書きましたが、
結局は、小さな子供であれ、思春期であれ、大人になった今であっても、
「自分を認めてほしい」と思っているし、「愛して欲しい」と思っている。
それが感じられなくなった時、不安や、怒りという感情が現れてくるのかなと思いました。
だから、イライラしたり、不安になった時、
ハグしたり、背中を緩めるって、結構有効なんじゃないかと思うので、
ぜひ、試してみてくださいね。

 

自然に触れて育ってほしい


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コロナも県内は落ち着いてきて、子ども達の日常が戻ってきました。

毎日放課後にやってくる子ども達。

週末もお昼をのぞいて9時から17時まで遊びつくす子供たち。

室内で過ごすこともあるけど、外で走り回ることも多い子供たち。

子ども達の遊ぶ様子を見ていて、イキイキと、一番いい表情をするのは、自然の中にいるときのように思います。

草滑りするとき。生き物探ししている時。食べられる木の実を見つけて食べている時。穴を掘ってるとき。木に登ってるとき。

そんな子供たちの表情を見ていると、子ども達には自然に触れて育ってほしいと、心から願います。

自然の中の子ども達

子ども達のイキイキした表情を見て欲しいので、過去の写真から見ていただきたいと思います。

ドドメ(桑の実)を食べて、手や口がドドメ色になってます。

夢中になって桑の実をとって。

段ボールで草滑りは、何度も何度も滑りたい。

バケツをひっくり返したような雨の日には飛び出していって、雨に打たれたい。

ホオノキの葉っぱを風車にして走る!

風で遊ぶのも好き!

泥んこになるのもめちゃくちゃ楽しい!

秘密基地作るのも大好き!

川でびしょびしょになるのも好き!

オオバコの草相撲も本気!

あっちにどじょうがいる!!どこどこ?!

蔓にぶら下がるだけでも楽しい。

自分で作った弓矢飛ばしてみたり。

木に登れた時は、みてみて~!!って見てほしくなる。

カエルの卵をみつけてうわ~!!ってなったり。

泥んこになりながら、崖を登ってみたり。

穴掘って、水流して、裸足でドロドロになって、めっちゃ気持ちいい!!ってなったり。

魚見つけて興奮したり。

寒くなってブルブルしてても、まだ水の中で遊びたい!

ダム作るから、ここに石置いて。

とにかく広い野っぱらを駆け回り、水辺が好きな子供たち。

触れられない自然って・・・

こうやって振り返ってみると、ほんとうに、自然の中にいるときの子ども達はイキイキしています。

そして、見守るほうも、寛大な気持ちでいられます。

住宅街の小さな庭では、

大きな声でご近所に迷惑になるんじゃないか。

道路に飛び出さないように、など、

自由に遊ばせたいと願いながらも、どうしても周囲に気をつかい、ひやひやしてしまいます。

でも、広い自然の中だと、断然気が楽なのです。

誰かの迷惑になるかもしれないと気をもまなくていい。

森や、川、海だと、毒草や毒蛇、毒虫など、違う危険はあるから、リスクマネージメントは必要になりますが、自然の許容量の大きさと言うか、包容力と言うか、寛大さに、ほっとするのです。

 

ただ、最近気になるのは、身近に触れることができるはずの自然が、触れられなくなってしまっている、楽しめなくなっている、というところがあることです。

田んぼは、オタマジャクシやカエル、コオイムシとか、いろんな生き物がいて、見ていて飽きないのだけれど、田んぼにいたずらするから近づいちゃいけません。

川や用水路は危ないから遊んではいけませんと指導されます。

確かに、水の事故が子どもたちにとって一番多いから、と言うのもわかりますが、大人がついていても怒られることがある。

学校の帰り道、確かに寄り道しながら田んぼにいたずらしながら帰る子たちもいるので、指導されるのも、わからなくはない。

鑑賞するためにきれいに整備したところだから、ここの生き物をとってはいけません。入ってはいけません。という場所もある。

危険なので木登りしてはいけませんと、公園の看板に書いてあったりする場所もある。

山野草のように、山の貴重な自然を保護するために、とるのは写真だけにしましょうというのもわかります。

貴重だから、危険だから、自然を壊してはいけません、生き物を大切にしましょう。どれも、理由としてはわかります。わかるのですが、何でもかんでも、身近な自然まで触れられなくなってしまうのは、ちょっとな~と感じます。

子ども達は、見て、触れて、においをかいで、時には食べて、音を聞いて、五感全てを使って自然を認知していきます。

それは、子ども時代にとっても大事なことです。

五感を通して感じた自然は、一生その子の中に残り続けます。

私も、子どもの頃の記憶といえば、川で水切りして遊んだ記憶。クローバーの花冠を作ってかいだ花の匂い。木登りが大好きで、高い所から下を見下ろし、風を感じた記憶。

ツツジの花を次々とっては吸った花の蜜の甘さ。

学校帰りに用水路に花や笹船を流しながら、誰のが一番早いか競争した記憶。

今でも、花の匂いや甘さ、木々をゆらす風の音、鮮やかに記憶の中に残っています。

それは、やさしく、あたたかく、ほっこりする、素敵な記憶。

優しいふるさとの記憶。

その記憶があるから、ふるさとに戻りたくなる。なつかしく、温かい気持ちになる。

だから、ふるさとが大好きになる。

ふるさとの原風景が心に刻まれる。

どうか、子ども達が自然に触れることを許して欲しい

これは、切なる願いです。

危険だからダメ。

汚れるからダメ。

みんなのものだからダメ。

かわいそうだからダメ。

いろんなダメによって、子ども達が自然に触れられる機会がどんどん減っています。

それに加えて、子どもたちが自由に遊べる時間も無くなってきているので、なおさらです。

親世代も自然に触れずに育ってきた人が増えています。

 

クローバーの花冠を作ったことのない子供がたくさんいます。

草笛を吹いたことのない子もたくさんいます。

川に笹船作って流したことのない子がほとんどかもしれません。

木登りできる子は、それでもまだ少しいるように思います。

食べられる実のある場所を知らない子もたくさんいます。

あそこには、ドジョウがいる。こっちにはエビがいる。カエルはここにたくさんいる。クワガタはこの木によくいる。ザリガニだったらあそこの池。そういう体験からくるものがあるでしょうか。

どうか、これ以上子ども達から自然を遠ざけないで欲しい。

もっと身近に、触れられる自然があるといいな。

子ども時代の原風景の記憶を、子ども達に残してあげたい。

切に、切に願います。

【お礼と寄付のお願い】

はぴちるは、皆様からの寄付により子ども達の居場所にかかるおやつ代や、プレーパークの材料費や交通費をあて、活動しております。今はまだプレーパークはお休みしておりますが、ハンモックの寄付や、子ども達に食べさせてくださいと、おやつの寄付もいただいております。どうもありがとうございました!

放課後、子どもたちは毎日やってきます。週末もたくさん集まったら、ちょっと離れた公園に連れ出すこともあり、そのためのおやつ代や交通費は、自費で賄っております。

活動に賛同いただけましたら、活動費のお振込みも随時受け付けております。

今後もこのような活動を続けていくために、どうぞご協力をお願いいたします。

 

【ゆうちょ銀行】

記号18420 番号7138981

シンドウサチコ

【他行より】

店番848  番号07138981

 

Amazon欲しい物リストから購入して下さり、配送先をHappy Childrenに変更して応援いただく方法もあります。

 

【書籍】

昨年11月に出版した私たちの本もよろしくお願いいたします。Amazonでもまだ多少購入でるようです。どうぞ、手に取ってごらんください。

『悪ガキたちの秘密基地』

ある日突然やってきた、悪ガキたちとのやり取りを綴った『悪ガキたちの秘密基地』。後半は、子どもたちに伝えていきたいこと、私たち夫婦の子育て、大事にしてきたこと、これからの時代を生きる子どもたちへ。そんなことが書いてあります。

アマゾンで購入された方、よろしければ、読んだらレビューを書いていただけるとうれしいです。

皆様のお声が、励みになります(*^-^*)。よろしくお願いいたします。

 

 

 

幸せな世界に生きると決める


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ほとんどの地域で緊急事態宣言が解除され、日常が戻りつつあります。

十和田も普通に学校が始まって、ようやく我が家にも子ども達の声が戻ってきました。

ああ、こうやって、何気ないことで大笑いできる相手がいるって幸せなことだな~と、しみじみ感じます。

人は、人と関わって生きていきたい生き物なんだな~と、つくづく思います。

この自粛中、強制的に人と関われなくなり、それがいかに必要なことだったか、気づかされた気がします。

そして、もう一つ。

この自粛中、不安や恐怖の中で過ごしてきた人と、こんな状況だけど、楽しんでいこうという人、二極化していたようにも思います。

その違いは、今、満たされないのは、自分の外に原因があるという人と、自分の内側で、幸せな世界に生きると決めた人の違いであるともいえるかもしれません。

不安や恐怖を抱え続けるとどうなる?

不安や恐怖、怖れって、いつから感じ始めるようになったでしょうか?

生まれたばかりの赤ちゃんには、不安や恐れありません。

赤ちゃんは、脳が成長していく過程で、親や、周囲の反応を見ながら、これは危ないこと。これは怒られること。これは喜ぶこと。ということで、自分が外の世界に働きかけたときの周囲の反応で、だんだんと自分の周りの世界を確立していきます。

おそらく、その過程の中で、不安や恐れという感情も獲得していきます。

でも、不安や恐れって、種が生き延びていくための本能みたいなものです。

ミトコンドリアに興味を持って、ミトコンドリアについて調べていた時に、人の体の細胞にも、そのような働きがあるというのを知って驚きました。

細胞とか、ミトコンドリアって、高校の生物とかに出てきたけど、覚えてますか?

人間の体には60兆個の細胞があります。神経細胞、肝細胞、脳細胞、筋細胞、生殖細胞とか、とにかく、細胞だらけなわけです。

その60兆個の細胞一つ一つの中に、ミトコンドリアが平均数百個存在していると言われています。ミトコンドリアは、エネルギーを作る工場です。

ミトコンドリアの話をすると長くなりそうなので、今回は細胞のお話しで。

実は、人の細胞は、そばに有毒物質があると、毒から逃れようとする性質があるようです。

逆に、栄養分には引き寄せられていく性質があります。

栄養分など、生命を維持するものに向かっていくのは、「成長・増殖」のため。

有毒物質などの脅威から離れるという行為は、「防衛反応」です。

もちろん、それ以外の中立なときもあります。

ただ、この、「成長・増殖」のメカニズムと、「防御」反応は、同時に発動することができません。

もし、ライオンに追いかけられた時には、真っ先に逃げなければならないので、防衛反応が優位になります。その時、血液は、今すぐ逃げられるように、もしもの時に戦えるように、手足など末端の方により多く集められます。

そして、その状態は、「闘争・防衛」状態になります。

ミトコンドリアで作られたエネルギーは、防衛反応に振り分けられるため、必然的に、「成長・増殖」に使われるエネルギーはなくなります。だから、この、「防衛反応」が長引くと、結果として「生命維持に必要なエネルギーが阻害される」ということになり、生命力が著しく低下する、という事が起こります。

人は、ストレスを抱えることで「防御状態」に入ります。

怒り、不安、怖れ・・・それらはすべて、からだの防衛反応から来ています。自分を守るためです。

幸い、60兆個もある細胞全てがそういう状態になるわけではないので、ストレスがあっても、ある程度の生命維持は可能ですが、やはり、ストレスフルな生活が続くと、生命力は低下します。やる気が出ないというのは、生命力の低下そのものです。

ストレスがない状態で、笑いや喜びにあふれた生活ができると、「成長・増殖」の反応が促進されます。逃げたり、戦う必要がないので、血液は体の中心に集まり、「成長・増殖」が盛んにおこなわれるようになります。

不安や恐れの裏に隠されたもの

不安や恐れを抱く状況とは、どんな状況でしょう?

失敗したらどうしよう。

こんなこと言ったら、人はどう思うだろう?

笑われるんじゃないかな?

変わった人って思われそう。

そんなことも知らないの?って言われそう。

失う事への怖れ。

欠乏感。

疎外感。

不信感。

そういった恐れは、根付いてしまっていることが多く、手放すのは難しいですよね。

幸せな人増殖実験!

恐れや不安の中にいては成長・増殖できないという細胞の姿を知った時、やはり、それでは、生きていくためには困ると思いました。

成長・増殖しないなんて、人類終わってしまうじゃないかと。

私は、子ども達がいきいきと生きていける未来を作りたい。誰もが愛や幸せを感じられる世界を作りたい。

それには、怖れや不安を手放して、喜びに生きる必要がある。

だから、幸せに生きると決めました。

世の中がどんなに不安や恐れでいっぱいであろうとも、私は幸せに生きようと決めました。

そして、そうやって過ごす姿をあえて発信してきました。

庭に秘密基地作る子ども達。

サクランボとるのに木登りしたり、小屋の屋根に上る子ども達。

たんぼで生き物探ししてみたり

水かけ戦争してみたり

植物育てたり、畑仕事したり。

生き物育ててみたり(写真はカイコちゃん)。そして、欲しい方に譲ったり。

増えすぎたハーブをお友達におすそ分けしたり、時にはおすそ分けしていただいたり。

日々を楽しむこと。

そして、givenessしたりされたり。

私たちの住む世界は優しいという発信もしてきました。

そうすることで、

「なんかいつも楽しそうだよね。そうだよね。私も、今できることを楽しんで、笑って過ごそうと思う」と、何人もの方に言っていただきました。

自分がそう生きると決めること。

そして、それを体現していくことで、ちょっとづつだけど、世界は変わると信じています。

私の周りの小さな世界でだけれど、私はそれを体験してきました。

コロナが、ある時から、指数関数的に爆発的に増えたように、幸せだって同じように指数関数的に増えるはず。

自分の周りのハッピーな人を増やす実験。

皆さんも協力してくれませんか?

まずは、自分が幸せに生きると決めて、日々を楽しむこと。そして、発信すること。

そうすることで、周りにそんな人が増えていったら、すごく幸せな世界が訪れるんじゃないかという、壮大な実験です(≧▽≦)。

2019年の日本の幸福度は、前年度からさらにランクダウンして58位だそうです。

幸福度が、どれだけ上がるか、試してみたい!

世界が変わる学校

実は、4月の半ばぐらいから、毎朝「世界が変わる学校」に登校しています。

朝ご飯を作る、忙しい時間ではあるのですが、それでも出たいと思えるのは、その中で、いろんな方の話を聞き、自分の考えを話し、自分の思考が変わっていくのを感じているからです。

ここは、言葉にならないつたない思いを出しても大丈夫だし、自分なりの考えを話してもいい。どんなことを話しても、ちゃんと受け止めてもらえる。男の人も、女の人も、いろんな職業の人がいて、いろんな立場の人がいて。

6月から、登校時間が5:30~と、ちょっと早まったのですが、5:30~7:00まで「まなぶ」時間。7:00~7:30までは「つながる」時間。

自分の中がUPデートされていく感覚。

知らなかった世界を知る。知らなかった世界観を知る。

「現実は過去の記憶により出来上がっている、は、本当か?」
「自由と平和を得るためには何が必要か?」
「私が世界に望むのは○○な世界です」
そんなことを、毎日話し続けています。
朝、頭がまだボーっとしている時間帯。
朝から脳がフル回転です。
でも、その感覚がだんだん心地よくなってきています。
所長の吉田傑さんは、すべてのプログラムを、無償で提供されています。
これは、世界を、人を、本気で信じて変える強い意思が無ければ、出来ないことです。
人間世界はいま急速に変化することを求められています。
そのために必要なことは、意識を変えること。
いまとこれからに必要なことだと感じます。
興味のある方は早起きして、参加してみませんか?